「……母上」
「!」

アルテナが足を止めかけた。
だが一瞬足りとて振り返る様子もなく、その足は逃げるように踏み出される。

「召還されるまであまり部屋から出ないようになさい」

ヒールの音を響かせ、遠ざかって行く母の背中を、アスラは静かに見送った。

目も合わせてくれない、言葉も素っ気ない。

いつも感じる、自分ばかりが母を想っているようだと。
いつも思う、自分に利用価値がなくなったら、母は声も掛けてくれなくなるのではないかと。

(……寂しい)

ぽつりと、言葉が浮かんだ。

自分が母を裏切らない想いは確かだ。

だが、母が自分を愛してくれている自信はない。
アルテナを、母の愛を、誰よりもアスラが信じていない。

(いや……)

実際、自分の想いすら、アスラにはよく分からなくなっていた。

(母を案じながら血の繋がりもない他人のことを考えている俺など、誰が信じるというのだ)

自分すら、自分自身を信じられない。

「アースラ。どうした?」

ふいに、明るい声と共にガルーダがアスラの肩を抱いた。

いつからそこにいたのか、確実に先程の母とのやり取りは見られていたのだろ……。
アスラはガルーダにどんな顔をすればいいのか分からなくなる。

アスラはガルーダの手を払うと、無言で部屋に引き返した。

手を振り払われたガルーダは、静かに部屋に消えていくアスラの背中を見やり、顔を曇らせる。
ドアは閉ざされていない、だがその手も背中も、ガルーダを求めてはいない。

ガルーダはゆっくりと、アルテナが去っていった方へと視線を向ける。

猫のように鋭く無邪気な瞳が、憎々し気に、そしてどこか切なげに……。
誰も居ない長い廊下を見詰めていた。





アスラとガルーダが戻ったのは昇った太陽が頭上を通り越し、西の空に沈み掛けた頃だ。

「事態が沈静化するまで、緊急を要する案件を除き、暫く我々の活動は自粛することになった。これからは過激な反使徒組織や活動家の動きが活発になると推測される。また、世間の使徒に対する目も厳しいものになるだろう」

会議室には、アスラの静かな声音が淡々と響き渡っていた。

元帥であるアスラが上からの決定事項などを直接語ることは少ない。
将官のイカロスや尉官のガルーダが報告の役を任され、アスラは傍で聞いていることがほとんどだが、報告に立ったのはアスラ本人であり、ガルーダは珍しく軍服を着崩す事もなく、ましてやいつもの天真爛漫な雰囲気すら影を潜め、壁際の席で静かに座っている。

上官達のいつもと違う様子が、下の者達からすれば状況が良くないことを知らせているように思えてならない。

ただ希望があるとすれば、まさに使徒の命運が崖っぷちに立っているという状況の中でも、アスラの表情を伺わせない完璧な無表情と声音。
今はその顔が、不安に浮き足立つアース・ピースの面々にまだ大丈夫だという安心感を与えた。

だが気を抜くなと念を押すかのように、アスラは一人一人の顔を見て語り掛ける。

「一人の失態が使徒全体の信頼を失うこととなる。失った信用を取り戻すことは容易くない、不可能と言うに近い。一同には、今まで以上に自身の言動と行動に気をつけてもらいたい。以上」

しん……と、集まった十五人は口を噤み、アスラの顔を見ていた。

中には全くそんな様子のない者も一、二名はいるが、一人一人の顔には多様の不安が浮かんでいる。
だが、口にしてしまうことを恐れているかのような雰囲気が漂っていた。

「質問はあるか?」
「はい」

柚がおずおずと手を上げる。

「エデンの情報は確か?本当にクック首相は別人なの?」
「それに関しては現在政府がオーストラリア政府に確認中だが、明確な返答は得ていない。おそらくどの国も明確な返答を得ていないだろう。オーストラリア国内で大規模な暴動が起きているという情報も入っている、オーストラリアは今後暫くの間荒れるだろう」
「エデンの情報が確かだったら?カロウ・ヴ達はどうなる?」
「……」

ゆっくりと顔を上げ、アスラは柚の顔を見た。
不安げな柚の顔のみならず、答えを求めるような視線が一斉に自分に集中している。

「恐らく、裁かれるだろう」

静かな言葉は、重く重く一人一人の心に圧し掛かった。

"裁くという意味が、人間社会の法に則ったものである保証はない"
アスラの言葉の裏には、そういう意味が込められているような気がした。

誰もがオーストラリアの使徒の心配をしているわけではない。
アジアの使徒は、はっきり言ってしまえばオーストラリアの使徒にいい感情がなかった。

ガルーダは苦いものを噛み締めるように、人知れず眉間に皺を刻んだ。

柚とフョードルが双頭の人質にとられた際、不謹慎な態度は人質をとられていたアジアやユーラシアの使徒の怒りを買っていた。
その上、オーストラリアの使徒全てに怒りを向けるべきではないと分かってはいるものの、その一人、カロウ・ヴによって刺されたイカロスは今も目を覚まさずにベッドの上だ。

ガルーダにとって、イカロスとアスラは兄弟のように育った最も近い存在だった。
使徒は肉親に強い情を抱く――たとえ血が繋がらなくてもガルーダにとってイカロスとアスラは兄弟だ。
今はどうあっても、オーストラリアの使徒には怒りと憎しみしか沸かない。

(こんな時に、神森に動かれたら最悪だ)

ガルーダは、小さく息を吐いた。

使徒に関する組織は主に三つ存在する。

ひとつが各国政府の管轄下に置かれている"アース・ピース"――この組織こそが、使徒が人類に生きることを許されている唯一の場所と言っても過言ではない。
ふたつ目が使徒を脅威と訴える非公式組織の中でも最も強大な"エデン"。
そして、使徒こそが新たな人類と訴える、アダムという男を宗主とするテロ組織"神森"。

神森という使徒のテロ組織と対立するアース・ピースは、世間一般に"正義"とされている。
その"正義"という概念が壊れた瞬間、自分達の身、如いてはその家族にまで非難や危害が加わる。

使徒が人間社会で生きられる場所はアース・ピースのみであり、アース・ピースもまた"正義"などという脆い概念の上に生きる存在だ。
些細なスキャンダルでさえその存在意義を揺さぶるというのに、もしエデンの情報が確かであれば、使徒が人類の敵と見なされるのも時間の問題だ。

エデンの情報が真実でなければ救いはある。
だが真実であったら……そう思ったところで、自分達には偽りである事を祈る事しか出来ない。

誰もが押し黙る中、すっと真っ直ぐに手が上がった。

「質問を宜しいでしょうか?」
「構わん」

まだ幼さを残す顔を怒りの感情に染めるかのように、フョードルがアスラの顔を見ていた。
ガルーダは、横目でフョードルに視線を向ける。

「もし事実と確認された際、私達にオーストラリアの使徒に制裁を下す機会は与えられるのでしょうか?」
「……」

さすがのアスラにも思いがけない質問だったのか、眉を顰めてまじまじとフョードルの顔を凝視していた。

「お、おい、フョードル何を言って……」
「私は本気です。親に与えられた神聖なこの力を悪用するなど許せません」

ジョージが慌てたようにフョードルを咎めるが、フョードルは険しい面持ちをジョージへと向けた。
咎めたジョージもそれ以上は何も言えず、困惑した面持ちで口篭る。

正義感の塊のようなフョードルにとって、使徒の犯した罪は人間が犯した罪以上の重さを持っていた。

ガルーダは視線のみを動かし、フョードルに向けていた視線をアスラに向ける。
フョードルの顔を凝視していたアスラだったが、もはや平然とした淡白な顔でフョードルから視線を逸らした。

「我々の意志で動くことはまずない。それだけははっきりしている」

アスラの落ち着いた声が答えを返す。
資料を閉じながら返す言葉は、何処までも淡々と事務的だ。

フョードルの顔には、すぐに分かりやすいほどの不満が浮かぶ。

「ただ……これは全員に言っておくが、オーストラリアの使徒と戦わなければならない状況に陥ることも想定されるということを頭に入れておけ」
「え?」

誰ともなく、小さな呟きが起こった。
困惑した眼差しが、「何故」と問い掛けるように向けられると、アスラは小さく息を吐く。

「能力や状況にもよるだろうが、お前達は人間の兵器で死ぬか?」
「……恐らくは、ないと思います」

ライアンズがいつになく真剣な面持ちで返す。
答えを返すライアンズもその他の者達も、察したように口を閉ざした。

納得する周囲に取り残されるように、「どういう意味?」と言いたげな顔の焔とアンジェに、フェルナンドがあからさまなため息を漏らす。

「君達は寝ていたのかい?オーストラリアが国内の使徒の排除を決めたとする。当然、使徒は抵抗するだろう?そうなれば武力戦に突入するわけだが、人間の兵器は通用しない、むしろ人間側が追い込まれる。となれば、やむなく他国に協力を求めてくるというわけだ」
「駄目だ、手に負えない!あんたの国の使徒の力で、うちの使徒を殺してくれ!ってね」

わざとらしく劇的に告げたユリアは、一変してクスクスと笑った。
だが、それに賛同して笑う者など、誰一人としていない。

「他に質問のある者はいないか?ならば以上だ、解散」

踵を返し、部屋を後にするアスラ。

ガルーダは足に反動をつけて椅子から身軽に立ち上がると、静まりかえる会議室の中で声をあげて背伸びをした。
まるで猫のように気持ちが良さそうに目を細め、襟を緩めながら暗い面々に笑みを向ける。

「あー、肩凝る。ま、ここであれこれ考えてたってどうにもなんないわけだ。皆もあんまり思い詰めないで休暇だと思ってゆっくりしなよー。んじゃ、おやすみー」

数名が、「ああ、いつも通りのガルーダ尉官だ」と言わんばかりに肩から力を抜き、苦笑を浮かべた。

軽い足取りでドアを潜り、薄暗い廊下を駆けて行くガルーダに、アスラが何やら「走るな」と注意をする声が聞こえるが、悪びれた様子もないガルーダの謝罪が微かに聞こえてくる。

柚がそわそわとした後、立ち上がり廊下に向けて足を踏み出した。
途端にフェルナンドとの間でぴんと鎖が張り、柚が思い出したように慌ててフェルナンドへと振り返る。

「あー、忘れてた。ちょっとごめん、付き合って」
「いやだ」
「いいじゃないか、ちょっと!ちょっとだからー」
「いーやーだっ!」
「フェルナンド、大人気ないことを言っていないで行ってやれ……」

互いに鎖で綱引きを始める二人にジョージが半眼を向けると、フェルナンドは渋々力を抜いて柚の後に続き、部屋を出た。

柚は廊下に出るときょろきょろと辺りを見回す。
すでにガルーダの姿はなかったが、角を曲がっていこうとするアスラの姿を見つけて声を張り上げた。

アスラはその声に静かに振り返り、廊下を引き返してくる。

「どうした?」
「いや、用ってわけじゃないんだ。ただ、お疲れ様って言いたかったから」
「……そうか」

小さく呟くと、フェルナンドから見てもアスラの雰囲気が和んだように感じた。

「ただいま」
「うん」

アスラは腰を折り、柚の頬に口付ける。
照れたように視線を泳がせながら、柚は微笑みと共に「おかえり」と返す。

仲睦まじい様子の二人の隣では、その空気に取り残されたフェルナンドが白目を剥きそうな勢いで佇んでいた。



その傍ら、アスラが部屋を出て行った後も、会議室には静寂と沈黙が続いていた。

そんな沈黙を和ませるかのように、フランツが遠慮がちに言葉を発する。





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