「宮、僕も確かにあの時つい感情的になってしまったことは反省している。だからいい加減、その態度をやめろ」
「……」

非常にばつが悪い顔をして説得に励むフェルナンドを完全に無視して、柚は自分の部屋に戻るなり布団をかぶってベッドに寝転がり、フェルナンドに背を向けたまま動こうとしない。
さすがに断りもなく同じベッドに入るわけにもいかず、ましてや他人の部屋となると気まずさに居心地の悪さが加わり、フェルナンドは体を小さくして床に座っている状況だ。

「はぁ……もう、いい加減にしてくれ」
「……その言葉、さっき皆が散々言ってた」

期待はしていなかったのだが、ぼそり……と、不貞腐れた声が返ってくる。
フェルナンドは思わずため息と共に項垂れた首を上げ、柚の背中を見た。

「……すまなかった」

ぼそりと、謝罪を漏らす。
暫くの沈黙が続き、謝罪に対する返事はないのだと諦めかけた時、柚が微かに身じろいだ。

「……アスラとガルーダ尉官、無事に帰ってくるかな」

フェルナンドは僅かに目を見張り、視線を床に落としながらベッドへと背中を向けて凭れ掛かる。

「何を馬鹿な事を……。問題が発覚したのはオーストラリアだ。まだ真実かどうかも定かでないというのに、いきなりどうこうということにはならないさ」
「……そっか。じゃあ、パパとママも大丈夫だよな……」
「……」

フェルナンドは、肩越しに伺うように振り返った。
相変わらず丸められた背中は何処までも静かで、柚と話をしているという実感が薄い。

「君はつくづく典型的な使徒だな」
「……」

前を向いて呟くように漏らすと、背後で柚がむくりと起き上がる気配がした。

振り返った瞬間、柚が体を引き摺るようにしてベッドの淵へと寄ってくる。
ベッドに背中を預けるフェルナンドの隣には、頬杖を付いたままベッドに寝転がる柚の顔が間近にあった。

「典型的じゃない使徒なんて見たことがないけど?」
「……まあ、そうかもしれない」
「分かってるなら、玉裁にあんなこと言わなきゃいいのに」
「君に説教を受けるつもりも言われもない」

すぐ隣で、赤い瞳がねめつける様にフェルナンドの顔を見ている。
フェルナンドは開き直ったようにそっぽを向いた。

「そんな態度だからいつまで経っても玉裁と仲直り出来ないんだ」
「君のそれは余計なお世話と言うんだ、不愉快だな」
「不愉快はこっちだ。誰かさん方の殴り合いの喧嘩に巻き込まれた私が不愉快でなくて、なんだっていうんだ」
「君には自己治癒という便利な力があるじゃないか」
「ほうほう、フェルナンドはすぐ治るならいくら怪我してもいいと?そういえばフェルナンド、顔腫れてる。こんなところに座ってないで冷やせよ、みっともない。聞かれたら、いい大人が殴り合いの喧嘩しましたって言うのか?」
「君がそんなところに直行しなければ、すぐにでも水道でタオルを濡らして冷やしていたさ」

顔に青筋を立て刺々しく吐き捨てるフェルナンドの頬に、ひんやりとした柚の掌が触れる。

冷たい水を掌に纏わせ、まるでシップのように殴られて腫れた頬を冷やす。
自分が扱う氷とは違う、何処か温もりのある冷たさだった。

柚の方へと視線を向けると、まるでフェルナンドを宥めるように穏やかな笑みを浮かべている。

「カリカリしない」
「誰がさせてると思ってるんだい……」

憮然としながら、フェルナンドは小さく呟いた。

「私?」
「まったく……君は理解に苦しむよ。考えているんだか考えていないんだかさっぱり分からない、泣いていたかと思えば笑っているし……」
「ずっとうじうじしてるよりマシだろ?お望みなら、気がすむまで文句を言ってやる」

不服そうに口を尖らせ、寝転んだまま足をばたばたと動かす柚。
うっかり振り返ったフェルナンドの視界に、足を動かす度にスカートの裾から白い太腿が映りこんだ。

フェルナンドはため息を漏らし、額に手を当てた。

「君には恥じらいと言うものがないのか?」
「え、あるよ?」
「どこに!?」
「普通に」

驚き立ち上がり掛けるフェルナンドの勢いに蹴落とされるように、柚が困惑顔でフェルナンドの顔を見る。
フェルナンドは長々とため息を漏らし、「言うだけ無駄だ」と言わんばかりに首を横に振った。

「なんだよ、失礼だな」
「……別に。君の感覚は一般人のものとは掛け離れているということを再確認して厭きれただけさ」
「重ね重ね失礼ですねぇ、フェルナンドさん」

柚が引き攣った面持ちで、フェルナンドに半眼を向ける。
だが、フェルナンドにはすでに先程の冗談混じりの態度はなく、まるで思い出したくないことを思い出すような面持ちで床を見詰めていた。

「そうじゃないか……普通、一度でも襲い掛けた相手に気安く接するか?」
「……」

俯くフェルナンドの横顔を見詰め、柚はゆっくりと瞬きをする。
頬杖を付いていた手を下ろし、柚はその上に顎を乗せた。

少しの間考えるように黙り込み、柚は口を開く。

「そりゃあ……あの時はショックだったけど、あの時は私もいろいろと参ってたんだ。そうじゃなきゃ普通に抵抗するなり、大声出すなり、ぶちのめすなりしてたさ。どちらかというとそれが悔やまれるな。ま、謝罪の一言くらいは欲しいと思ったけど」

最後は冗談交じりに告げ、くすりと笑みを漏らした。
ぱたりと、持ち上げたままの足がベッドに落ちる。

柚はからかうように笑いながら、寝転んだままフェルナンドの顔を覗き込む。

「それにさ、本当、今更だろ?今、私がいいよって言ったとしたらそういう気分になる?」
「……ならないな」
「でしょ。よくクラスの男子とかに言われてたんだ、中身知ってガッカリだって。ま、言った奴はちょっと痛い目見てもらったけどな」

柚は腕に拳を作るようにして、得意気に笑った。
目を瞬かせたフェルナンドが次第に小さく肩を揺らし、堪えきれないようにくつくつと笑い始める。

「君って奴は、本当に……」
「なっ、なんだよ!なんで笑うんだよ!」

柚は赤くなりながら、不服そうに口を尖らせた。

すぐ怒り、すぐに笑う――ころころと変わる表情が眩しく感じる。
それは自分が求めていた栄光という輝きとは違う、何処か穏やかな輝きだった。





眠れない夜は、とても長く感じるものだ。

アース・ピースの使徒は基本的に、任務以外は規定訓練をこなせば自由な時間を与えられている。
訓練施設の他にも、使徒が基地内での生活にストレスを感じて体調を崩さぬよう、娯楽施設も充実していた。

ただ、任務以外でこの基地から外に出ることは死んでも許されない。

望めば大抵の物が支給され、不便を感じることはない生活だ。
アジアの使徒には給与というものが与えられない為、研究所で生まれ育った使徒は知識こそあれど、貨幣に触れたこともない。

研究所で生まれ育った使徒にとって、研究所の外に出ることは、大袈裟に例えるならば異国へ旅立つようなものだ。

使徒の居住区や研究所がある中央施設を出て、車でどこまでもまっすぐ進む。
さらに何重のゲートを潜り、許可や荷物のチェックが何度も繰り返されてようやく、外界への門が開く。

物々しい雰囲気を他所に、外に出れば何処か寂しい風景が続いていた。

基地の中にも森はあるが、その倍の雑木林が基地の周囲を殻のように包みこんでいる。
まるで世間から使徒を切り離し隠すように、基地の周辺にある人工的なものは一本の道のみだ。

基地を出て暫らく車で走ると、変哲のない平坦な林をようやく抜け、そこで新たに一般人への森への立ち入りを禁じる簡素な門が何処か物寂しげに佇んでいる。
最後の門を潜ってからほどなく車を走らせると、人気のない田舎道のような公道が続き、少しずつ寂れた民家などが姿を現したかと思えば、目的地に近付くにつれて次第に都会的なビルへと変わっていく。

更に進めば完全なオフィス街へと変貌し、オフィス街を抜けたその先は極端に車の通りが途絶えて閑散としているが、軍服や警察の姿が目立ち、その先への立ち入る者を制限していた。
カメラやマイクを抱えたマスコミの集団が、門の前で通る車に乗る人物に目を光らせている。

その後ろに聳えるのは歴史を感じさせる建造物、アジア帝國の議事堂だ。

緑の屋根瓦に、白亜と朱塗りの外観、中央の堂々と聳える二本の赤柱にはそれぞれ白龍が彫られ、侵入者を威嚇するように巨大な口を開いていた。
建物の前に翻る深紅の国旗の中央には、尾を咥えた白龍が円を描き、その中に帝國領土が描かれている国章が堂々と存在を主張する。

その建物の中で、アスラは無為に時間を持て余していた。

人を一片の曇りもなく信じることと、信じてもらうこと……。
どちらが難しいだろう。

真夜中に起きた事件は、瞬く間に人々の心に動揺を植えつけた。

じわじわと沁みこむような毒でもなく、劇薬というわけでもない。
それでも、人間と使徒の間に亀裂を走らせるには十分な量の毒だった。

国家研究所のモリス・ドルチェと共に緊急招集を受けて出向いたアスラとガルーダを出迎えたのは、議員達の疎むような視線だった。
慣れてはいるものの、度々嫌味のような言葉を投げ掛けられ、何よりも耐え難かったのは、その言葉が母にも向けられたことだろう。

アスラの母アルテナ・モンローは、元は研究所の一研究員であり、アスラを身籠ったことにより政界に進出して確固たる地位を築き続けている。
大統領・黄 太丁の派閥に属し、アスラを生んだことでこの地位に就くアルテナを、よく思わない者も政界には多い。

クック首相がコピーであるか、その真偽は実のところ他国の者にとって大した問題ではない。
一度疑われれば"黒"、良くて"灰色"――例え本当に白であったとしても、完全な"白"にはなりえないのだ。
クックの失脚は時間の問題だと、アスラは考えている。

それはすなわち、オーストラリアのアース・ピースにも何等かの制限、もしくは制裁が加えられるという事になる。

だがそれはオーストラリアに留まる事ではない。
我が国は大丈夫なのか?誰もが自然と心に抱く疑問だろう。

人間と使徒との亀裂……。
アスラを産んだことでここまで伸し上がってきたアルテナにとって、これは政治生命のみならず社会的地位の危機といえる。

再三、嫌がらせとしか思えないほどに我が国は大丈夫なのかと問われ、やっと退室の許可が降りたものの、モリスとは別に、部屋での待機を命じられて暫く経つ。
窓の外に朝焼けを見た記憶はあるが、すでに日は沈んでしまった。
尋問を受けた時間よりも、待っている時間の方が遥かに長い事は確かだ。

だが正直なところ、退室を命じられて安堵した。
あのまま母が糾弾される場に居続け、何処まで耐えられたか自信がない。
だが、感情的になれば――ましてや力に頼れば、母に迷惑をかけるだけだという自覚と自制は誰よりも強い。

(俺は……母上を裏切らない)

たとえ国や世界中の人間全てが母を見捨てたとしても、自分だけは母の味方だという自信がある。

アスラは部屋に自分以外の誰もいないことを知った上で、ため息を漏らした。

辛抱のないガルーダは、何度を部屋を出たり入ったりして落ち着きがない。
つい先程も、飲み物を貰ってくると言って部屋を出たきり、戻ってこない。

(柚は、こんなことになって不安を感じていないだろうか)

何気なく、何処からともなく漏れ出た考えにアスラは僅かに目を見開いた。

つい先程まで母のことで一杯だった頭の中が、オセロを返すように柚のことに染められていく。
アース・ピースの未来よりも母を想う自分は十分に元帥として失格だという自覚はあるが、ますます自分が不甲斐なくなってくる。

(母上を裏切らないと誓った傍から……)

"母と柚、どちらを選ぶ?"

耳元に鮮明な黄の声が響き、一瞬心臓が跳ね上がった。
思わず振り返ってしまうほどに、それは生々しくアスラの心を揺さぶる。

「……」

疲れているのかもしれない。
揺れる使徒の未来に不安を感じているのかもしれない。

アスラは前髪を掻き上げ、小さく息を吐いた。

ふいに、廊下に聞き慣れたヒール音が響いてくる。
アスラは椅子から立ち上がり、吸い寄せられるように部屋のドアを開けた。

長い黒髪を揺らす、オリエンタルな美しく小柄な女性は、疲れ以上に不機嫌な雰囲気を纏いながらも、毅然と胸を張り背を伸ばし、しっかりとした足取りで部屋の前を通り過ぎたところだった。





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