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「どういう意味?」
「そのままの意味」

中性的な笑みが、柚に向けられる。

癖のないハニーブラウンの細い髪を風が浚った。
楽しむように覗き込んでくる、無ではない邪気に満ちた瞳は綺麗ではあるものの、小憎らしさがある。

柚はむっとした面持ちでユリアを睨んだ。

「神森のスパイかもしれない。同族としてはある意味"仲間"なんだろうけど、君の言う意味の"仲間"とは思っていないかもしれない」

ずいっと顔を寄せ、ユリアは目を細める。

「第一僕なら、僕みたいな奴は信用しないよ」
「……疑ってほしいの?」
「人にどう思われようとかまわないってことさ」

柚はユリアから顔を逸らし、大きくため息を漏らした。

いつの間にか、子供達が静かになっている。
安堵に、疲れがどっと押し寄せた。

疲れのせいもあって、柚は刺々しい口調で嫌味を返す。

「答えないって言ったのに、答えてくれてユリアは親切だな」
「……答えたつもりはないけど?」
「だって、人にどう思われようとかまわないってことは、疑われてもやましいところがないってことでしょ」
「随分と自分に都合のいい解釈だね」
「そうかな」

柚はユリアを見やり、少し疲れた顔で苦笑を浮かべる。

「でもさ、本当にスパイならあの時出てきてくれはしなかったと思うし」
「それは確かに僕が神森のスパイではない可能性には繋がるかもしれないけど、神森じゃないからといって僕が君達を裏切ってない可能性の否定にはならないと思わない?」
「あ、そっか」

少し考え込むようにしていたが、途中でどうでもよくなったのか、柚は憂鬱気なため息を漏らす。
そのままぐるりと半眼をユリアに向けた。

「ユリアはそうやって人を試すようなことばかり言って、どうして欲しいんだ?」
「ただ楽しんでいるだけだよ」
「……」
「君だって、心の底では僕のことを疑ってもいない癖に、こうやって聞いたじゃない」
「……別にユリアが怪しいとかそういう意味じゃなくてさ、っていうかさ、普通に気になるっていうか気にするだろ」

つんとそっぽを向く柚に、ユリアが眉を顰める。
不貞腐れた顔が不細工だと思う。

だがすぐに飽きたように、ユリアは膝の上のパーベルに視線を落とした。

人の顔や体のパーツを眺めることが好きだ。
いい所や悪い所を見付けるだけの時間だが、それがなかなか面白いのだ。

例えば柚で言うならば、一番はその瞳と睫毛が好きだ。
赤い瞳に掛る長いプラチナピンクの睫毛の組み合わせが綺麗だと、以前気付いた。

すると、隣で柚が大きな欠伸を漏らす。

「はぁ……、二人とも泣き止んでくれたし、疲れたから戻る」
「君、シャワー浴びたの?」
「え!?何、やだ、臭い?一応帰りの船で一回は浴びて、寝る前にお風呂入ろうと思ってたけど、二人が放してくれなくて」

咄嗟に自分の匂いを嗅ぐ柚にユリアは呆れた眼差しを向けた。

「だったら肌のケアもちゃんとすることだね。君のことだからしてないでしょ。海なんか行って、若さにかまけてケアを怠ると後々後悔するのは君だよ。おすすめのブランド教えてあげようか?」
「……有難う。うん、でもいいや」
「何引いてんの、僕は僕の美貌を保つ為、日々努力は惜しまないんだよ。君なんかよりずっとね」
「そのようで……」
「まあ、そんなことはどーでもいいから、ちゃんとケアしなよ。大体君はアルビノだから肌が弱そうじゃないか。もっと徹底的に気を使うべきだよ。髪だってこんなに痛んで信じられないよ、明日レフにトリートメントしてもらった方がいい」
「明日、かぁ……」

柚がぼそりと呟く。

"明日"が、少し怖い。
アスラはどうなるか、自分達とて命令に逆らったのだ。
冷静になると、不安で怖くなる。

柚の言葉の意味を解したのか、ユリアはごろりと地面に寝転んだ。
一緒に、膝の上のパーベルがユリアの腹の上に倒れる。

「人間だって、現時点でいきなり僕達をどうこうしようとはしないさ」
「そうかな?」
「この国では使徒が人気だからね。いくら反使徒の感情が強くなっていても、オーストラリアみたいに国民に直接実害のあることをしたでもなければ、現時点ですぐに切り離すのは少し難しいね。国民が反発する」
「そういうもの?」
「そうだよ。アスラは子供の頃からメディアに露出してるでしょ?彼の成長を見守ってきた人達は多いし、若い世代にも人気がある。外での生活が長い君の方が、アスラが国民にどれだけ人気があるか、知ってるんじゃない?」
「あ、うん……そうだな」

曖昧な態度で返す柚が、ふいに首を傾げる。
柚の反応が気に入らなかったのか、ユリアが形のいい眉をあげて返した。

「何?」
「いや、ユリアって他人に興味がないのかと思ってたから」
「興味はないよ。ただ見てるだけさ」

涼やかな声音で、ユリアは斜に構えた笑みを返す。

「それに、僕達には明日があるだけマシなんじゃない?」

柚が首を傾げた。
数回、お気に入りの瞳が瞬きをする。

「オーストラリアの使徒には明日なんてもう来ないよ」

小さく息を呑み、柚は数秒ほど押し黙ると、「そうだな」と噛み締めるように頷いた。

柚の軍服を、ソンナの小さな手が握り締めている。
そこにはいつの間にか、あどけない寝顔があった。

「そうだ。気になってたんだけど、イカロス将官の、なんだっけ……えっと、い、い、なんだっけ」
「溢流でしょ」
「そう、それってどういうこと?」
「本人に聞けば?」
「さすがの私も、本人に聞く勇気はないんだわ」
「へぇ」

わざとらしく、ユリアは大きく肩を竦める。
人を喰った眼差しが、少しだけ憂鬱気に感じた。

「とりあえず、精神系の能力者が短命だってことは知ってる?」
「な、に……それ、知らない」

柚の顔色が変わり、ゆるゆると首を横に振る。
ユリアは小さく息を吐き、寝ころんだまま足を組んで星空を見上げた。

「イカロスみたいに精神系の能力を持つ使徒は極めて短命なんだって。本来ならば、思春期を迎える頃には精神が限界を迎える」
「どうして?」

消え入りそうな声で訊ねてくる柚の視線は、寝転ぶユリアの横顔から一時も離れない。

「自分の精神内に流れ込んでくる感情の量が、自分が耐えうる量を超えて処理しきれなくなるんだよ。それが前兆の"超流"、他人の人格や感情が溢れ出し多重人格のような現象や、自身の感情が抑えられなくなる現象が起こり始める」
「あ……」
「そして次に"溢流"。"超流"が何度も続くと、次第に自分自身のものも含め、全ての精神が溢れ出して空っぽになってしまう。これは人の死みたいなものだよ。精神を失い、肉体のみが残る」

ユリアがゆっくりと、青褪めている柚の顔を見上げてくる。
薄く浮かんだ笑みで、他者の心を読むイカロスよりも動揺を招く一言を言い放つ。

「その顔は、君も心当たりがあるんだ」

柚は答えられなかった。
瞳が逃げ場を探すように左右に彷徨い、瞼をきつく噛み締める。

「ガルーダなんて、ずっと隠してたって感じだったね。まあ、イカロスに口止めでもされていたんだろうけど」
「……」

柚はどうしていいか分からないほどに、途方に暮れていた。

まるで柚の変化を感じ取ったように、ユリアの腹の上でうとうととしていたパーベルがぐすぐすと鼻を鳴らし、再び声をあげて泣き始める。
眠っていたソナンも釣られる様に声を上げて泣き始めた。

ユリアは泣き声をあげるパーベルを見下ろし、目を細める。

「イカロスの場合は、随分長生きした方だよ。いつ死んでも、おかしくはなかったんじゃない?」

胸が締め付けられたかのように苦しくなった。
思い浮かぶのは優しい声音と、新緑のように穏やかな微笑み。

イカロスがイカロスでなくなってしまったら悲しい。
それはラッドやオーストラリアの使徒達の死よりもずっと……。

だが今は、知らされた事実に感情が遅れて呆然とするばかりだ。

柚の代わりとばかりにパーベルとソナンが泣いていた。
ソナンの柔らかな頬を伝った涙が、ぽとりと柚の掌に落ちた。










オーストラリアからの逃亡者で、唯一の生存者カロウ・ヴが捕えられ、祖国に送り返されたのは同日のことだ。
それから一週間が経過したが、夏の暑さは相変わらず衰えることを知らない。

ひとまずのところ、アスラ・デーヴァには無期限の謹慎処分が言い渡されているが、処分についてはいまだ話し合いが進められている。

明け方のマンションの一室に、何かが割れる音が響き渡った。

部屋の外は、静まり返った静寂。
ひとつ壁を挟めば、大音量で掛けられたクラシックが絶え間なく響いてくる。

アンドレイ・イワノフは電気すらついていないが、人の気配だけは嫌というほど伝わってくるアルテナのマンションに足を踏み入れ、そっとドアを閉ざした。

ゴミや空のワインボトルが床に散乱している。
リビングに置かれた革張りのソファの上には、まだ中身の入っていたワイングラスを落とした姿勢のまま、うとうととした眼差しで天井を見上げているアルテナがいた。

「これはこれは……随分と酷い有様だ」
「イワノフ!?」

ぱっと部屋の明かりを灯され、アルテナが飛び起きる。
イワノフはそのままリビングに踏み込むと、耳障りなステレオの電源を切る。

驚愕に見開かれた瞳がすぐに怒りに染まり、アルテナはイワノフに向け、手近にあった灰皿を投げ付けた。
灰皿は壁に叩きつけられたが、割れずに床に転がり落ちる。

表情一つ変えることなく、イワノフはアルテナに薄い笑みを向けた。

アスラの処分が話し合われる中、アルテナは蚊帳の外にいた。
もはや誰もアルテナに見向きはしない、イワノフとて、再三アスラの処分はどうなるのかと問い合わせたが、一度も返事は返ってこなかった。

それを今更、笑いに来たとしか思えない。
怒りが増し、アルテナが髪を振り乱して玄関のドアを指し示した。

「どうやって入ったの!帰って!」
「従順だった自分の子供に裏切られて腹が立つのかな?」
「出てけ!!」

金切声と共に、手近にあったティッシュの箱が投げ付けられた。
再び壁に当たり、箱が歪む。

「可哀想に、美しい顔が台無しだ……」

アルテナの手が、さらに投げるものを探して彷徨う。

お気に入りのカーペットは、灰皿から零れ落ちた灰やガラス片に汚れていた。
どうでもいい、どうにでもなれと思うほどに、今はこの忌々しい男を追い出すことしか考えられない。

「その顔を、アーリア・デーヴァが見たらどう思う事か」
「っ!どう思われたって関係ないわよ!」
「驚いた」

くつくつと、緩慢な動きでイワノフが笑う。
一瞬アルテナはぞくりと背筋を震わせ、動きを止めた。

「あの頃は、マルタ……と言ったかな?彼女と競って、彼の気を引くことに一生懸命だったそうじゃないか」
「なっ、にを……」

アルテナの顔に引き攣った笑みが浮かぶ。

何故この男が知っている。
あの時代の同僚か誰かに聞いて、調べたのかもしれない。

この男は、他人の弱みが大の好物だ。
目の前の男は、唇に弧を描く。

「君は、本当に哀れだと思うよ。アスラさえ生まなければ、こんな思いをしなくて済んだろうに」
「なんなの、いやっ!気持ち悪い!」
「君とマルタに違いはなかった」
「出てけって言ってるでしょ!」
「たまたま、あの日、あの時、アーリアは君に先に会った。ああ、人はそれを運命というのだったね」

嫌味という訳でもなく、いつもはいやらしい目で自分を見る男が、くつくつと品良く笑った。

体が震え始める。
動悸が込み上げ、息苦しい。

今目の前にいる彼は、誰であったろうか?
記憶の残像が洪水のように頭の中を駆け巡るが、それが何かを掴みかけると次々と一瞬で消えては変わり、肝心なことが思い出せない。

「だからアーリア・デーヴァは君を誘った。もしあの日、先に廊下で会ったのがマルタであれば、あの夜共に過ごしたのは彼女で、"アスラ"を産んだのは彼女だったかも――」
「やめなさいよ!!」

叫ぶと喉に痛みが走った。
目の前の男はやっと口を閉ざし、不気味な笑みで自分を見下ろしてくる。

「嬉しかったかい?」

男が足を踏み出す。
思わず一歩、アルテナは足を引いた。

「一夜限りとはいえ、想いを遂げられて」

眩暈がする。
恐怖で目が逸らせない。

また一歩、そしてまた一歩と、男から逃げるように後退さった。
男の影がアルテナを覆い尽くす。

「あ、あなた……ど、どうしたの、それっ」

ぽとりと、ぽとりと、カーペットにどす黒い染みが描かれていく。
一瞬でも気を取られていると、掌が頬に触れた。

「ひっ」と、喉が鳴る。

「いや!いや、アスラ!助けて!」

アルテナはイワノフの腕を潜り、床に投げ捨てた携帯電話を無我夢中で拾い上げた。
そこで力尽きたように腰が抜け、イワノフに背を向けたまま、アルテナは携帯電話のリダイヤルを押した。

誰に掛けたのかも分からない。
コール音を聞きながら、夢中で叫ぶ。
相手が電話に出たことにも気付かないまま、取り乱して助けを求めた。

背後からイワノフの手が伸び、アルテナが持つ携帯電話を抜き取ると、通話を切って床に落とす。

「ぁ、あ……」
「そんな経緯で生まれた子供でも、頼るのかい?」

ガタガタと震え、歯の根が合わない。

「もし、あの日の彼が――」

男が声を落とした。
そっと顔を寄せ、アルテナの髪を指先で掬い上げると、耳元で囁くように男が告げる。

頭の中で、一瞬にして閃光が散った。

その言葉が、アルテナの心を支えてきたものを一瞬で砕き……。
恐怖に支配されていたアルテナの瞳がこぼれんばかりに見開かれ、呼吸が止まった。

男が離れていく。

恐怖に震えていたアルテナが、眼光を見開いたまま勢い良く男へと振り返った。

長い黒髪が揺れて放物線を描く。
殺伐とした眼光が男を見据え、小さく開かれた赤い唇が、「うそよ」と声なく呟きを漏らした。

恐怖など忘れてしまったかのように……。
アルテナの瞳が殺意を浮かべて男を見上げる。

男は目を細め、瞳と唇に優美な弧を描き、笑っていた。





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