52


最近では、朝が憂鬱だった。
誰もがよく眠れなかったという顔をして部屋を出てきて、訓練にも身が入らない、空いた時間を趣味に費やすでもなく、皆で固まってだらだらと過ごしている。

「ちょっと、柚……またフェルナンドが物陰から睨んでるんですけど……」
「え?また?やだなー、何かした?」
「したんじゃないんですか、柚のことだから……」

朝食を終えた食後の一杯のさなか、物陰からじっと睨んでくるフェルナンドに気が付くと、フランツが小声で柚に声を掛けてきた。
ひどく憂鬱そうに、柚はフランツに冷めた目で返す。

「任務から戻ってからだよな……むしろ私海に突き落とされた被害者なんですけど?」
「じゃあ、謝りたいとか?」

柚とフランツは顔を見合わせ、同時に「ないない」と手を振った。

「ところで、えーっと……」

非常に言い辛そうな面持ちで、フランツが柚を上目遣いに見る。

食堂に入ると、カウンターに名札の付いたトレイが並べられていた。
欠伸をしながら入ってきたアンジェとライラが、自分のトレイを探している。

柚はカップをトレイに戻すと、慣れた手付きでベビー用の椅子に座って待っていたパーベルを抱き上げた。

ソナンはパーベルよりもおっとりしていて聞き分けがいい。
パーベルは柚が外に出ていないと分かっていると、覚えたての二足歩行で柚を探し回ったり、大声で泣き叫ぶので周囲も手を焼いている。

柚は「何?」と問い返しながら、パーベルを片手に、もう片方の手でトレイを片付けようとすると、フランツが「やりますよ」と申し出てくれたのでお願いした。
カウンターへと歩きながら、フランツはやはり遠慮がちに、声を落として訊ねる。

「それで、えーっと、焔と何かありました?」
「ん?どーして?」
「あ、いえ、なんとなくそう思っただけなんですけどね。ないならいいんですよ、気にしないでください」
「変なこと言うな、フランは」

柚は軽く笑い飛ばし、食堂を出ると足を止めた。

「じゃあ、ちょっとアスラのところ寄ってくるから。もし会ったら、焔に待ってなくていいって伝えといて、どーせいつも待っててくれないけど」
「はは。じゃあまた後で」

互いに軽く手を振ると、それぞれ別の方向へと歩いていく。
柚が角を曲がると、こそこそと背後からフェルナンドが付いてくる。

「パーベルは、あんな不審人物になっちゃだめだぞ」
「それは僕のことか!」

柚が足を止め、ため息を漏らして言い聞かせていると、つかつかとフェルナンドが一直線に突っ込んできた。
目の前でフェルナンドが勢い良く足を踏み留めると、その勢いで柚の前髪がふわりと持ち上がる。

柚はパーベルを抱いたまま、きょとんとした面持ちで、自分の目の前で足を止めたフェルナンドを見上げた。

フェルナンドは壮大な決意を施したような面持ちで、真一文字に引き結んだ口をもごつかせる。
肩に力を込め、体を強張らせ、力を込め過ぎた肩がぷるぷると震えていた。

「す、すっ……」
「酢?巣?」

柚が眉を顰めつつ首を傾げる。
フェルナンドが大きく息を吸い込む。

「すまなかった!!」

たった一言。
戻ってから柚の中に渦巻いていたもやもやとした気持ちを吹き飛ばすような、力強い声だった。

大きく目を見開き、瞬きを忘れ、柚は小さく口を開いたままフェルナンドを見上げていた。
その腕の中で、やはりきょとんとした面持ちのパーベルがフェルナンドの顔を見上げている。

顔を真っ赤に染めたフェルナンドは、柚の反応を伺うように瞼を起こし、目が合った瞬間慌てて顔を逸らし体まで背けた。

柚は困ったように頬を掻く。

「ごめん、何が?」
「もっ、もういい!」
「え!ちょっと待って。いろいろあり過ぎてなんだろ、えーっと、どれについてのごめん?」
「……」
「うわっ、ちょっと!パーベル、今の顔見た?酷い!心底馬鹿にした顔だった!」
「ああ、馬鹿にしているさ」

ふっ……と、フェルナンドが苦笑に柔らかいものを乗せて笑った気がした。
柚は僅かに目を見開いてフェルナンドを見上げると、ゆっくりと瞬きをして、小さく笑みで返した。

「とりあえず分かったよ」
「ふんっ、用件はそれだけだ」
「ねえ……」

用件が終わるなり向きを変え、踵を返そうとしたフェルナンドを、柚は声のみで呼び止めた。

「フェルナンドは後悔してないの?」
「……」

フェルナンドが肩越しに振り返る。

「君は後悔してるのかい?」
「分からないんだ。私はさ、フェルナンドが思っている以上に結構薄情みたいなんだ」

苦笑を浮かべると、困惑した眼差しでフェルナンドを柚の顔を見下ろす。
パーベルが不思議そうに柚の顔を見上げていた。

「ラッド元帥はいい人だし好きだと思ってたけど、アスラのようにその気持ちを代弁しようとして行動を起こすほどの想いはなかったし、あの映像を見て、自分はあんな目に遭いたくないとか……そんなことを考えてた。アスラがあんな風に私達のことを考えてくれてたんだって知って、正直驚いたし」
「……」
「あ、いや、凄く失礼なこと言ってるのは重々分かってるんだけど……その、大人?いや、年上の人なんだなって……」

精神的なことでは、自分には当たり前のことがアスラには当たり前ではなく、問われることの方が多かったと思う。
妙に子供のような一面があり、だからこそアスラは柚にとって近い親しみがあったのかもしれない。
イカロスやガルーダにはある、大人や上官への遠慮が、アスラにはあまりなかった。
だからアスラを、最初からアスラと呼んでいたのだと思う。

口にしてやはり後悔したように、柚は「何言ってんだろ」と、赤い顔で苦笑を浮かべた。

そのまま誤魔化して逃げ出しそうな柚に、フェルナンドは忙しなくきょろきょろと周囲を見渡すと、ひとつ咳払いを挟む。
数秒ほどの長くも感じる沈黙を経て、フェルナンドは呟くように静かに口を開いた。

「僕は……力を差し引けば、彼のことを所詮研究所で都合のいいように育てられた、自分よりも劣る存在だと思っていた」
「……」
「もしあの時、僕が彼の立場であったならば、僕は言われるがまま命令に従っていたと思う」
「でもフェルナンドは……」
「僕は以前の彼と変わらない。確かに元帥としての判断ならば命令に従うべきだった。今回神森が乱入してこなければ、僕達自身、政府との関係が今以上にどうなっていたか分からない」

フェルナンドは真剣な眼差しで柚と、その腕の中で今はフェルナンドを見上げているパーベルを見下ろす。
複雑そうにパーベルから顔を背けると、フェルナンドは腕を組んだ。

「彼の元帥としての判断は間違っていた。けど、使徒の代表としての判断は間違っていなかったと思う」

「悔しいが……」と、フェルナンドはさほど思いつめた様子もなく、呟く。

アスラは自分で考え、自分自身よりも使徒の未来を選んだ。
最愛の母に逆らい、仲間の未来を守ろうとした。

確かにいつか誰かが、使徒は人間の道具ではないと叫ばなければならなかったとは思う。
だがいつかはもっとずっと遠い未来で、誰かは自分達の内の誰かではないと思っていた。

結局のところ、フェルナンド自身は使徒の未来など真剣に考えていなかったということだ。

アスラは戻った後、責任を取る為、元帥を辞任すると政府に申し出たが、今のところ処分は保留にされている。
保留にされている理由は、彼の代役を務めるに足る使徒がいないからだ。

「ここに来る前の僕は、自分の未来すら、自分の希望よりも親の希望を取った……」

それは単純に愛されたかったから……いい子だと思われたかったから。

何度思い返しても、自分には出来ない選択。
初めて、心の底から誰かに負けを認めた気がする。

だからこそ、後悔はしていない。

「少し、勉強になった」
「……フェルナンドが元帥になる為の?」
「そうだな」

冗談のように問い掛ける柚に、フェルナンドは苦笑で返す。

実際はどうだろう。
折角のチャンスで自分も命令に背き、むしろ目標は遠退いた気がするのだが……今の心境は、少し清々しい。

フェルナンドの未来を決める親とは、おそらく二度と会うことはないだろう。
使徒だから、会えないことは寂しい――だが、彼女の言葉でいうならば、自分は薄情なのだろう。
常に感じていた重圧による息苦しさが消えている。

だから今は、過去に出来なかったことを取り戻すように、少しだけ素直に生きたい。

人は変わる、使徒もまた人である限り変わっていく。
あのアスラが変わって、彼よりはマシだと思っていた自分が変わらないのは悔しい。

自分が蔑ろにしてきたものへと振り返った時、まず頭に浮かんだのは、出会った当初、柚を利用しようとしたことへの謝罪だった。

気が付けばじっと、パーベルが指を咥えてフェルナンドを見上げていた。
視界に入れないようにしようとしても、パーベルの視線が気になって、ついついフェルナンドはパーベルを見下ろす。

少し前に見た時よりも大きくなっている。
子供の成長は早いとしみじみ感じた。

じっと見上げるパーベルの視線は、まるで親の責を放棄した自分を責めているように思えて心苦しい。

「その子供、名前は?」
「前にも言っただろー?パーベルだよ」
「……そうか、パーベルか」
「"小さい"って意味なんだって」

柚は愛しそうであり誇らしげに微笑んだ。

「まさか、ハーデスが付けたのかい?」
「いや、フョードルが考えてくれた」

少しだけほっとする。
自分の子供と向き合う事すら出来ないくせに、パーベルが懐いているハーデスに嫉妬している。

いつか、彼女の腕の中には彼女の子供が抱かれるのだろう。
その時、この子はどこへいくのか……。

目の前にいる親に見捨てられた、哀れな子供。

いつか自分が……、それは自分の子供がいると知ってから、常に付きまとう使命感と罪悪感だ。
それでも今はまだ、余っている両腕を伸ばす勇気もない。

「珍しいな。ちょっとは子供、平気になった?」
「いや……嫌いだよ」

フェルナンドは少しだけ不器用に、苦笑を浮かべる。

「でもいつか、抱かせてくれ」
「その時は、パーベルに言ってやってくれ」

首を傾げながら、屈託なく柚が微笑む。
釣られるように笑みをこぼすと初めて、赤ん坊もフェルナンドに向けて笑った気がした。





アスラは生活感のない部屋で、読んでいた本のページを捲った。
それ以外の音はない。

実際の所、本の内容は頭に入ってきていない。
デジタル時計が音もなく時を刻み、ドアに視線を向ける。

(今日は来ないのか?)

ここ最近、暇を持て余しているアスラの元に、気を使っているのだろう……。
柚がよく足を運んでいる。

いつもならば朝食の後に一度顔を出すのだが、今日はまだ来ていない。
柚はその後に講義がある為、今こなければ来ないだろう。

すると、廊下を走る荒々しい足音が微かに耳に届いた。
アスラは本を閉ざすと、机の上にそっと戻した。

この気配は柚ではなくジョージのものだ。
恐らくは自分の処分が決定されたのだろう。

軽く手を握り、小さく息を吐く。
未練でもあるのだろうか……体が緊張を感じていた。

ふっと苦笑を浮かべると、部屋のインターフォンが鳴る。
「入れ」と告げると、ジョージが血相を変えて飛び込んできた。

「元帥!」
「どうした」

アスラは感情を抑えるように極めて冷静に、ジョージに視線のみを向ける。

一瞬、ジョージは周囲の目を気にするように廊下へと振り返り、アスラに歩み寄ると声を顰めた。

まず始めに、「落ち着いて聞いてください」と、焦る声が諭す。
落ち着くのはそちらだろうにと、心の中で苦笑交じりに呟いた。

だが……。

「モンロー議員が」

思い掛けない母の名に、アスラは僅かに肩を揺らす。

冷静を装っていたアスラの顔が強張った。
込み上げるのは、面会も許してくれない母への気まずい思いだ。

「同僚の議員を自宅のマンションで、刺し殺したと、連絡が――」

ジョージの瞳の先で、アスラの水色の瞳が大きく大きく見開かれていった。
アスラの顔が、一瞬にして血の気を失っていく。

「はは、うえ……?」

目の前に雲が掛り、闇が覆い尽くす。



渡り廊下から見える時計台を見上げて目を細めていた柚の上空で、太陽を雲が覆い隠した。

「おい」

ぎくりと、肩が強張る。

一段高くなっている宿舎の方から、焔が片手をポケットに突っ込み、柚を見下ろしていた。
ゆっくりと振り返る柚に、焔が近くのベンチを指す。

「少し話、いいか?」

咄嗟に断る言葉を探してしまうが、焔は同意を得る前にさっさとベンチに向かう。
柚は講義の教材を両手に抱え直すと、とぼとぼとその後に続いた。

焔がどかりとベンチに腰を下ろす。
少し距離を取り、柚もベンチに腰を下ろした。

「お前、どこ行ってたんだよ。フランがアスラのとこ行ったって言ってたのに、お前行ってなかったろ」
「あ、うん。ちょっとフェルナンドと話してたら時間がなくなっちゃって。パーベル預けて、教材取りに戻ってた。もしかして探してた?ごめん、用事?」

柚は苦笑を浮かべる。

そのまま意味のない世間話を並べ始める柚の隣で、焔はベンチから伸びる自分の影を見下ろしていた。

柚のおしゃべりが終わる時を、ただ無言で待つ。
影を見下ろす焔の視線の先で、柚の影が忙しなく動いていたが、それはやはり意味のない会話の内容同様に、不自然でぎこちなく感じた。

ああ、もうこれは――…。
そうなんだろうなぁと、自分の中では確信を持っていた。

柚の言葉など、耳から流れ出ていく。
どうせそれは意味のない内容で、必死に間を持たせようとして空回りをしている柚が哀れだ。

答えを導けば、自分の中の不安は薄れ、次はどうするかを考え始めるが、それはもはや考えるまでもなくそこに答えがある。

「そ、それで、その時パーベルが――」
「あのさ」

はっきりと、やや大きめな焔の声が柚の声を遮る。
焔は柚を見ず、自身の膝を見下ろしたまま、ここ数日何度も心の中で繰り返してきた言葉を初めて口にした。

「お前……あの時、起きてた?」
「……」

柚の意味のないおしゃべりがピタリと止まる。

視線を向けなくても、柚にぎこちない笑みが凍り付き、次第に口角が下がり目が伏せられていく光景が目に浮かんだ。

"俺が会った柚があんたの後ろにいるような普通の女だったら、俺はきっと好きになったりしなかったぜ"

ゲシュペンストとヘレネスを前に、はっきりと言いきった自分。
本人を前にしては決して言えない言葉。

柚は硬い動きで俯くと、それはもはや肯定でしかない重苦しい沈黙となる。
決定付けたのは、柚が観念したように遠慮がちな動作でこくりと、一度だけ頷いたからだ。

戻ってからぞずっと、柚はおかしかった。
皆が皆、普段通りではなかったが、柚は焔に対して特に不自然だった。
避けているわけではないが、何かにつけてぎこちない。

早く取り消し、誤解だと誤魔化さなければ……。
「あれは」――と、途中までを言葉にした焔は柚を向き、自分が続けようとした言葉を忘れた。

柚の尖った奇形型の耳が赤い。
肩からプラチナピンクの髪がさらりと落ちた。

髪の間から覗く白い肌が今は真っ赤に染まり、恥じらうように照れるしおらしい表情がそこにはあった。

後悔と恥ずかしさに打ちひしがれそうになり、間違いだと言い訳をしそうになる自分を踏み留ませるには十分なほどに、見たこともない柚の表情が魅せてくる。

一瞬にして周囲の雑音が引いてゆき、自身の忙しない鼓動さえもはや聞こえてこない。
小さく開いたままの唇を引き結び、拳を軽く握る。

「あれは……」

手から力が抜け落ちていく。
その代わりとばかりに、瞳はもはや逸らすことが叶わぬほど真っすぐに柚のみを映し出す。

「悪い」

何故謝ると、ここにアスラがいれば訪ねたかもしれない……と、焔は思う。

びくりと柚の肩が揺れ、柚が顔を上げて焔へと顔を向ける。
何処か寂しげな瞳で、自分の顔を見ている――気がした。

「……俺、お前のこと好きだ」

赤い瞳が揺れ、唇が微かに動く。

風が太陽を覆う雲を押し流すと同時に、二人の影が流れた。





―End & To be continued…―



完結が遅くなりましたが、最後までお付合い頂き有難うございました!

お話の途中いろいろなことがありました。
被災された方々、亡くなられた方々に、心よりお見舞いとご冥福をお祈りいたします。

そして、ここまで読んで下さった皆様に、感謝を!
有難うございました!

管理人/もも