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騒然とする国会議事堂の廊下を、議員、アンドレイ・イワノフが走ってくる。

心の中で「げっ」と呟き、避けて道を譲ったライアンズは、イワノフが通り過ぎた直後、ぶつかるような音に慌てて振り返った。
後ろにいたフョードルが、廊下に尻餅をつくイワノフを見下ろしている。

「何やってんだ、お前は!すみません、怪我ないっすか?」

ぼうっとしているフョードルを叱責しながら、ライアンズは座り込むイワノフの前にしゃがみ、声を掛けた。
怒りに震えるイワノフが顔を上げ、ライアンズとフョードルを睨む。

「触るな、いい気になりやがって!上司がああだと、部下の躾も最低だな!」
「は?」

ライアンズが眉間に皺を寄せ、眉を顰めてイワノフを見た。
イワノフは文句を言いながら立ち上がり、再び足早に去っていく。

「ったく……腹立つおっさんだぜ。つーかお前、何ぼさっとしてんだよ」
「申し訳ありません」

フョードルがはっとしたように、慌てて深々と頭を下げた。
その勢いに身を引きながら、ライアンズは「気をつけろよ」とため息を漏らす。

すると、廊下の角からくすくすと控え目な笑い声が聞こえてきた。

議員が二人、自分達に向けて声を掛けてくる。

「怖いですな」
「あちらの方々は、相当余裕がないらしい」
「は?」

フョードルが首を傾げると、ライアンズが相手にするなと言いたげに肘で小突く。

議員達は二人……というよりはフョードルの目の前で足を止め、顔を寄せた。
ひそひそと、何処か痛ましげな声音で議員の一人が告げる。

「聞いていないのかな?オーストラリアの逃走者を捕えに向かったデーヴァ元帥方のお話を」
「誰か怪我でもされたのですか!」

フョードルが顔色を変えると、もう一人が肩を竦めて首を横に振った。
手で口元を隠しながら、男はフョードルの耳元で囁く。

「いいえ。デーヴァ元帥が命令に逆らったらしいですよ。それも黄大統領直々の命令にね」
「!」

フョードルがますます驚きを深め、議員達の顔を見上げる。

「またまた、エイプリルフールはとっくに終わってますよ?うちの元帥っすよ?ありえませんって」
「で、ですよね」

驚愕を浮かべていたフョードルが、ひらひらと手を振りながら苦笑を浮かべるライアンズに、渇いた笑みと共に同調した。
すると、議員達が顔を見合わせ、小さく笑う。

「まあそのうちはっきりするとは思うがね、そういう噂さ。僕も少し信じられないよ」
「君達使徒というのは、親に逆らえない習性があるんだろう?」
「?親に逆らえないというわけでは……」

信じがたい内容についていけないまま、フョードルが頼りない声音で返す。

「じゃあ、本当なのかな。なんでもその場には、あのモンロー議員もいたとか」

ライアンズがぴくりと片眉を吊り上げた。

ますます有り得ないことだ。
話半分に、この二人がわざわざフョードルに声を掛けてくる理由を考えていると、実に単純な答えが導かれてくる。

「何にせよ、最近のデーヴァは反抗的だって噂だからなぁ……」
「噂が本当なら、降格も有り得るんじゃないか?」
「ちょっと、失礼ですが口が過ぎませんかね?根も葉もない噂でうちの元帥を侮辱しないで頂けますか」

ライアンズはフョードルと二人の間に割って入り、議員達を睨み付けた。
さすがに焦ったのか、「まあまあ」と手でライアンズを宥めながら、男は続ける。

「失礼、そう怒らないでくれよ。ただ私達は、そうなれば次の元帥に相応しいのは彼かもしれないと思っただけさ」
「……え?」

フョードルに、指先をそろえた掌が向けられた。
突拍子のない名指しに、フョードルが困惑した面持ちで目を瞬かせる。

「そんな、私はまだまだ未熟で皆さんの足手纏いでしか……」
「だが君はセラフィムじゃないか。その上、真面目で誠実、正義感が強い。やはり元帥ともなれば上級クラス、そうセラフィムの方が見栄えもいい」
「いい加減にしてくださいよー」

ライアンズが額に青筋を浮かべ、引き攣った笑顔を向けた。

「いやいや、決してデーヴァ君を侮辱しているわけじゃないんだよ?冷静な彼がもし本当に命令に違反したとしたら、それはよっぽど聞けないような命令だったんだと思ってるさ」
「そうそう。問題があるのは、大統領側なんじゃないかってね。いやいやいや、ここだけの話!」
「そりゃ、派閥が違うからそう思うんでしょ」
「ははは、いや、そんなに睨まんでくれよブリュール君。でもモンロー議員を使ってデーヴァ君をいいように使っているのは事実だろう?じゃ、じゃあブリュール君が怖いから退散するとしよう」
「失礼するよ」

議員達がいそいそとその場を離れていく。

ライアンズが腰に手を当て、頭を掻きながらうんざり気味のため息を漏らした。
去って行った議員達の後ろ姿を見詰めるフョードルに視線を落とすと、ライアンズは肩を下げて二度目のため息を漏らす。

例えるならば、彼はなんでも吸収するスポンジだ。
先程の話を笑い飛ばして聞き流せるほど大人でもないし、頭が固い。

フョードルの肩を叩くと、フョードルがはっと顔を上げてライアンズを見上げてくる。

「あんままともに聞くなよ?あいつ等は大統領を引き摺り下ろしたいだけなんだ」
「はぁ……」
「んで、それには国民に人気のあるモンロー議員と元帥が邪魔なんだよ」
「……」
「だから、代わりにお前を担ぎ上げよーとしてんだ。気をつけろよ、あんな連中の争いに巻き込まれたらロクなことになんねーからな」

フョードルは絨毯の敷かれた床に視線を落とした。

「先程の、デーヴァ元帥が命令に違反したというお話は本当でしょうか……」
「……さあな。まあ、俺はありえないと思うけど。ほら、帰るぞ」

背を向け、ライアンズが歩き出す。
フョードルは静かに顔を上げ、眉間に皺を刻み込んだ。

「私は……有り得ると思います」
「お前なあ……」
「もし先程の話が真実であれば、私は元帥が許せません」
「……」

困り果てた面持ちで、ライアンズがフョードルを見下ろす。

この頑固者は、そうだと決めつけると聞く耳を持たない。
自身の正義に反する者を徹底的に毛嫌いする、融通の利かない性格だ。

意志の強い双眸は、光が差し込めば薄くアメジストのような光を覗かせるが、今は黒いままでライアンズを睨んでいた。

(許せなかったらどうするんだ)

と、聞いたら、自分自身が彼を嫌いになってしまいそうな気がする。

「もしそうだとしたら……何か理由があるんだと、俺は信じるけどな」

ライアンズは素っ気なく告げ、背を向けた。
たった今返した言葉で、フョードルの中で自分の立ち位置が決まったように思えた。

(面倒臭ぇ奴……)

ひっそりと、心の中で呟きを貰らす。

噂を先に耳にしたお陰が、不愉快な噂が真実だと聞かされた時、ライアンズの中にはすでに覚悟があった。

これから訪れるであろう嵐の予感を感じ取り、ライアンズは陰鬱な気分で深夜に近い時間帯に戻ってきたアスラ達を出迎えた。
だがそれ以上に沈んだ顔をして戻ってきた彼等に、何があったのかを尋ねることは出来なかった。

会話がないまま、皆がそれぞれの部屋へと戻っていく。

アース・ピースの宿舎に赤ん坊のけたたましい泣き後が響いたのは、それから一時間も経たない深夜のことだった。

任務帰りで疲れているというのに、煩くて仕方がない。

ユリアは眉間に皺を刻み、コンクリートの上で寝返りを打った。
気鬱なのは、その声が近付いてくることだ。

「もう怒ってないって言ってるだろ……いい加減泣き止んでくれよ……」

暫くすると、げっそりとした面持ちの柚が前と後ろに一人ずつ泣いている子供を背負い、屋上への梯子を上ってくる。

「爆弾持って、来ないでよ」
「うわっ、こんな日までユリアいるし……」

梯子からプラチナピンクの頭が見えた瞬間、追い出しに掛ったユリアに、柚が顔を引き攣らせて顔を出す。
そのまま梯子を昇り切って屋上に上がると、柚はパーベルとソナンを下しながら長くか細いため息を漏らした。

「いや、ちょっと説教したら泣き止んでくれないし離れないしでさ……もう、皆にうるさいって追い出されるし、泣きたいのはこっちだってーの」
「面倒だからここで泣かないでよね」

目の下にくまが出来た柚の目元にじわりと涙が滲む。
ユリアは全く同情もみせず、きっぱりと首を横に振った。

「ひどい、ユリアってば本当にひどいと思う。ちょっとは同情して一人引き受けてくれてもいいと思うんだ、ここは」
「この僕の辞書に同情という文字はないよ」
「うん、知ってた……」

げっそりとした面持ちで、引き攣った微笑みを返す柚。
その微笑みは思わず心配になるほど死にそうな力のない笑みだが、ちゃっかりとユリアにパーベルを預けてくる神経の図太さは、さすがのユリアも黙らざるを得ない。

ユリアの隣に座り、柚はソナンを自分の膝に乗せると、空を見上げてため息を漏らした。

「なんかいろいろ疲れたね、今日は」
「別に」
「あー、言うと思った」

柚は苦笑を浮かべ、ぐずっているソナンの頬から指先で涙を拭う。

「ちょうどいいや……聞いていいかな?」
「答えるつもりはないけど」
「何を聞くか分かるの?」
「分かるよ」

ユリアは瞼を閉ざし、小さく息を吐いた。

膝の上でパーベルが暴れている。
とりあえず猫にでもするように、喉を撫でてみた。

「じゃあ聞くけど」
「ほんっとうに、君は人の話を聞かないよね。さすがの僕も引くよ」
「アダムとは知り合いなの?」
「答えないって言ってるでしょ」

ユリアが瞼を憂鬱気に起こすと、ハニーブラウンの睫毛が見事なカールを描いていることがよく分かる。

「"エヴァ"は、僕が信用出来ない?」
「……そうだな」

柚は口を尖らせ、ソナンの髪をくしゃりと撫でた。

「仲間じゃなきゃ、信用出来ない」
「仲間って言うけど、僕って本当に君の仲間かな?」





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