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息を呑むほどに美しく、呼吸を躊躇うほどに恐ろしい。
絶対的な存在感の前に、自分という存在は砂粒のようなものに思えた。

「君はつまらないな」

真横に顔を寄せる男・アダムは、即ち生きる価値がないと言っている。

「君の存在は使徒にとって邪魔――というほどの価値もないだろうが……君の言動に使徒達が不愉快な思いをしていることは確かだろう」

アダムの足元から生え、カルヴァンの首に巻き付く黒い影が首を締めつけた。
首をもぎ取らんばかりの力が喉を圧迫する。

もがくカルヴァンなど気にも留めず、アダムの視線はモニターの中へと流れた。

「そちらのご老体とお会いするのは初めて、だったかな?初めまして、黄の者」
『アダム、か……』

黄が口髭を揺らし、アダムを睨み据える。
その口元が、小さく「アスラ」と命じた。

次の瞬間――…

「勝手に殺さないでもらおう」

ぎりぎりと首を絞め付ける音をも切り裂くような、鋭く落ち着いた声がカルヴァンの耳に響く。
一瞬にして首を圧迫する黒い影がアダムの足元に退き戻され、アダムの気配が背後に跳ぶと、入れ違いにアスラがカルヴァンの背後を陣取り、襟首を掴み突き飛ばす。

「邪魔だ、足を引っ張っぱるな」

冷ややかな言葉と眼光が咽るカルヴァンに一瞥を投げてアダムに向き直る。

「"お人形さん"は」

アダムは涼やかに笑みを漏らし、血のように赤い瞳を眇めた。

「随分と"人"らしくなったものだ」
「……」

ぴくりと、アスラが片眉を吊り上げる。
ひどく不愉快そうな瞳が口よりも物を言う。

そんな二人の間に祈るような声が響いた。

「あなたがアダムですね!お待ちしていました」

ゲシュペンストがアダムに向けて駆け出す。

「お願いします、この子に力を与えてください!どうかこの子を完全な使徒に!」

ゲシュペンストへとゆったりとした動作で顔を向けたアダムは、慈悲深く頬笑みを浮かべた。
長い黒髪がさらりと肩を滑り、血のように赤い瞳は優美に弧を描く。

薄い唇が微笑み、一歩、アダムがゲシュペンストとヘレネスへと踏み出す。

「見せてごらん」
「は、はい!」

ゲシュペンストがヘレネスの肩を掴み、前へと押し出した。
不安げなヘレネスとカロウ・ヴの目の前で足を止め、アダムは風のような音のない動きでヘレネスの頬に触れて顎を掬い上げる。

「哀れな魂だ……」
「ぇ……?」

ヘレネスは瞳を見開き、戸惑いの声を上げた。

「ヘレネス!?」

カロウ・ヴが悲鳴のように叫び、立ち上がる。
前のめりに駆けだす、愛しい人のその姿が霞んだ。

自分の目がおかしいのかと疑い掛けたヘレネスは、視界を霞ませるものが自分の体から発せられているのだと気付き、ますます困惑した。

胸をアダムの影が貫いている。
足元に血だまりが広がり、貫かれた胸部からゲシュペンストの力が煙のように抜け出していく。

「カ……ロ……ヴ……」
「ヘレネス!?」

それはまるで砂が風に舞うように……。

ゲシュペンストの力は、即ちヘレネスの魂。
魂が抜けおちれば、ただの人という素材に戻ってしまう。

カロウ・ヴの伸ばした手が崩れゆくヘレネスに触れた途端、それは呆気なく、微かな音と共に燐光となり消滅した。
砂の上に、ヘレネスとは似ても似つかない少女が音を立てて倒れ、その上にはらはらとプラチナピンクの髪が数本、舞い落ちていく。

「え?」

ヘレネスの代わりに現れた少女に困惑する。
柚は思わず声をあげ、眉を顰めた。

「あれがヘレネスの"素材"だよ」

苦々しく、イカロスが呟く。

カロウ・ヴの膝から力が抜け落ち、もはやヘレネスの面影もない少女の亡骸の前に崩れ落ちた。
ゲシュペンストは愕然とした面持ちで、震え、立ち尽くす。

そんなカロウ・ヴとゲシュペンストの目の前で、アダムは少女の亡骸の上に落ちた数本の髪を拾い上げた。

「ア、アダム……!」

愕然とした面持ちに激昂が走り、ゲシュペンストが男の名を憎々しげに言葉にする。
途端に思いだしたかのように、ゲシュペンストは少女の腹を水の刃で裂こうとした。

「っ!?」

柚は思わず目を背け、ヨハネスが青褪めた面持ちで双子の視界の前に覆い被さる。
カロウ・ヴは気でも触れたのかと言いたげな面持ちを向けて叫び、振り下ろそうとされるゲシュペンストの手を掴んだ。

「ゲシュペンスト!何やってんだよ!」
「胎児は!胎児のDNAデータがあれば、胎児をコピーすることも――」
「胎児など存在しない」
「え?」

ゲシュペンストの頭上にアダムの影が掛る。
ゲシュペンストが動きを止め、音もなく目の前に立つアダムを見上げた。

アダムは流れるように膝を折り、憐れむように微笑む。

「コピーが真っ当な子供を産めると思っていたのかい?所詮体は他者の者、残されたこの髪すら、コピーの媒体に使ったエヴァの髪……」

アダムが先程拾い上げた柚の髪に視線を落とせば、髪は電流を帯びて灰となる。

「それは――イエンの力か!?」

カロウ・ヴが顔色を変えて叫ぶなり、身構えた。

その動きが時を止めたようにぴたりと止まる。
風に揺れた髪も、服も、全てがぴたりと止まるカロウ・ヴの横をすり抜け、アダムはカロウ・ヴの額に触れた。

「コピーと言ったところで、無から有は生まれない。"体"という材料にゲシュペンストの力を溜めこむことで"コピー体"が生まれる。コピー体が妊娠したのは、人で言えばいわゆる"擬似妊娠"のようなもの。君の期待に応えようとしたのか、コピー自身が望んだのかは、もはや確認するすべもないが……」
「!?」

カロウ・ヴの体がびくりと痙攣をする。
止まっていた時が流れ始めたカロウ・ヴの瞳が大きく見開かれた。

「人が定めた階級に固執する君には屈辱を……」

アダムは赤い瞳を細めて艶やかに微笑んだ。
硬直するカロウ・ヴの体から、力が煙のようにアダムの掌へと吸い上げられていく。

「やめろ!」

柚と焔には見覚えのある光景だった。
アダムがカロウ・ヴの力を奪おうとしている。

柚は叫ぶなり、足を踏み出そうとした。
その行く手を塞ぐように手が伸びて遮る。

柚は思わず飛び退くように後ずさり、「ハムサ!」と警戒の声を上げた。

炎のように赤い髪に、品性のない顔立ちの少年が、柚の行く手に立ちふさがる。
周囲を見渡せば、ハムサだけではない、フョードルが居た村で会ったサマーニャやティスア、そして見たことのない顔ぶれが揃っていた。

「神森の数字持ち……」

ハーデスが大鎌を握り、緊張した面持ちで呟きを漏らす。
焔はヨハネスの静止を無視し、体を起こして刀を抜いて構えた。

「おっと、ギャラリーは大人しく見てな。あんな奴助けるだけ無意味だぜ」
「助けるわけじゃない!止めるんだ!」
「もう手遅れのようだね」

腕を組み、何処となく不機嫌そうな面持ちをしたユリアの冷静な声に、柚はハムサを睨んでいた顔を慌ててアダムとカロウ・ヴの方へと向けた。

淡い光を放つ白色の光の球体が、アダムの掌の上に形をなしている。
ただそれはウラノスのものよりもはっきりと大きい。

カロウ・ヴが疲弊した面持ちで膝から崩れ落ちる。
辛うじて意識を繋ぎとめるカロウ・ヴに、ゲシュペンストは体を震わせるばかりで動くことが出来ずにいた。

「有難う。やはりセラフィムの力を頂くとなると、時間が掛る」
「かえ、せっ!」

カロウ・ヴが手を伸ばし、アダムの足を掴もうとした。
その手をサラーサの足が踏み付ける。

「アダムに触れようなどと図々しいですよ」

はっとした面持ちを浮かべ、ゲシュペンストが弾かれたように動き出す。

「カロウ・ヴの力を返せ!」

アダムに飛び掛ろうとするゲシュペンストの体を、一瞬にしてアダムの足元から伸びた無数の氷が貫いた。
それは今まさに、カロウ・ヴから奪われた氷の力だ。

「さて、ゲシュペンスト」

痛みも忘れ、思わず息を呑むゲシュペンストの目の前に、ふわりとアダムの顔が近付く。
絹のような黒髪と朱を引いた切れ長な瞳が、ゲシュペンストに触れそうな距離で止まる。

指先がゲシュペンストの顔に触れ、血のように赤い瞳が柔和な弧を描いた。

「コピーを生み出した君はとても罪深い」

氷の刃が突き抜けるようにゲシュペンストの体に深くのめり込む。
透明の氷が赤く染まり、ゲシュペンストが口から血を吐く。

彷徨うように伸ばされた手がカロウ・ヴに向けられ、唇は声なく「にげて」と象る。

全身から力が抜け落ち、首が支えをなくしたかのように下を向いた。
だらりと落ちた腕が、まるで振り子のように微かに揺れて止まっている。

柚は思わず息を呑み、首を竦めた。

アダムはくつくつと肩を揺らして静かに笑う。
その笑みは何処か艶やかに、カロウ・ヴへと向けられた。

「ぁ……ぁ、あぁ、ア、ダムゥ――!?」

カロウ・ヴが怒りと悲しみに顔を歪め、咆えるように叫ぶ。
悲しみと憎しみの咆哮が波音に掻き消される。

声を発することも出来ないまま、柚は呆然と、ただ目の前の光景を見ていた。

「さて、皆。戻るとしよう」

アダムは何事もなかったかのように呟く。

長い黒髪が風に揺れる。
慈愛に満ちた眼差しが、二体の亡骸と無力と化したカロウ・ヴを見下ろして瞼を落とした。

ゆっくりと開かれた赤い瞳が愕然としたまま動けないアース・ピースの面々を見回し、瞳に穏やかな弧を描く。
その視線は立ち尽くす柚に止まり、低いハスキーの声が囁くように言葉を残す。

「では、エヴァ……次は迎えに来る」
「てめぇ!?」

焔が刀を手に取り叫び、アダムに切っ先を向けようとするよりも早く、顔に大きな傷のある壮齢の男、0の数字を持つアダム右腕・スィフィルがアダムとの間に割り込み、手を翳した。

目を貫くような閃光が一瞬にして周囲を包み込み、焔を含め、その場にいた者達は思わず腕で顔を覆いながら顔を背ける。
薄れる光の中で、いくつもの気配が消えていく。

「くそっ!」

悪態を漏らした焔が、腹を抑えながら苦々しく刀を柔らかな砂に深く突き立てた。
イカロスが肩から力を抜いてため息を漏らし、その場にため息と共に腰を下ろす。

ハーデスも安堵したように力を抜きながら、役割を思いだしたようにカロウ・ヴへと向かっていく。
もはや抵抗の兆し所か、呆然と光のない瞳で海を眺めるカロウ・ヴを、ハーデスは構わずに拘束した。

時が流れだしたように、それぞれが自分の役割へと戻っていく。

足跡すら消えた砂浜に残されたヘレネスとゲシュペンストの遺体とカロウ・ヴさえいなければ、まるでそこに神森がいたことがタチの悪い夢のようだ。
体を押し潰すような圧迫感が消え、柚は膝から力が抜けその場にへなへなと崩れ落ちた。

ヨハネスがゲシュペンストの方へと駆け寄り、必死に治癒を施しているがゲシュペンストの瞳孔は開いたまま、体温だけが冷めていく。

誰もが言葉少なに、誰もが何処か居た堪れない面持ちで、そこにいる。
もはや、先程までの会話を蒸し返す者もいない。

血により黒く染まった砂。
絶え間ない波音。

その日、メディアを通して国民に向けてのメッセージを送っていたクック首相が、多くの人々の目の前で糸が切れたかのように倒れ、死亡が確認された。





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