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「カルヴァン佐官、至急、大統領に緊急通信の要請を」
「は?」
「二度も言わせるな、使えん奴だ」

態度を改めたアスラの物言いに、カルヴァンがぐっと言葉を呑み込む。
言葉こそ呑み込んだものの、その瞳はありありと屈辱と怒りを浮かべてアスラを睨んでいた。

アース・ピースの一般兵部隊がエリートとは言われていても、カルヴァンにとって現在の地位を手放しに喜んでいるわけではない。

カルヴァンにとって使徒は人間の道具である。
公でないとはいえ、使徒の監視がカルヴァンの最も重要な任務だ。

自分よりも下の存在、さらには年下の者が自分の上官という立場にあることは、軍人家系出身のカルヴァンにとっては納得し難い現実。

そのアスラからの侮辱は、今まではアスラの方が下出に出ることで保たれてきたカルヴァンのプライドにヒビを入れる。

「大統領にお繋ぎしろ!」

カルヴァンは額に青筋を立てながらも、寸でのところで堪えると、同行した一般兵に怒鳴るように命令を下す。

アスラが何をするのか……察しているはずのイカロスの表情は複雑で、こっそりと盗み見たものの柚には窺い知ることが出来なかった。
他の者達も困惑しながら静観している。

最初は、アジアの使徒達同様に困惑した面持ちでいたカロウ・ヴ達ではあったが、ゲシュペンストがカロウ・ヴと視線を交わす。
カロウ・ヴとゲシュペンストが僅かに身を起こそうとすると、ユリアの声がそれを制止した。

「面白いことが始まりそうだし、まあ、見物してなよ」

ユリアの言葉に続くように、大統領に通信が繋がる時を淡々と待つアスラが、低い声音でぼそりと吐き捨てる。

「子供を救いたいと思うなら、おとなしくしていることだ」
「!」

ヘレネスが目を見開き、アスラの背中を見上げる。
ゲシュペンストが「助けてくれるのですか」と、身を乗り出して問い掛けたが、それ以上アスラは言葉を発しない。
カロウ・ヴだけが警戒するようにアスラを睨んでいる。

そんな三人を見やり、柚は音なくため息を洩らした。

待つこと数分、用意されたモニターの前に初老の男が姿を現し、緩慢な動きで椅子に腰を下ろした。

男は杖を支えに、椅子に深く座り直す。
深く息を吐くと、男は視線を上げてカメラと向き合った。

黄 太丁、アジア帝國の大統領だ。
その背後には議員が数名、一際目を引くのは、とても成人した子供を持つとは思えない黒髪の美女、アスラの母、アルテナ・モンローだった。

『皆の者、ご苦労。そして、オーストラリアの諸君、久しぶりだな』

黄は、口元と目尻に皺を深め、穏やかに口を開く。

『して、緊急通信の用件を聞こうか』
「お忙しい中お呼び立てして申し訳ありません。オーストラリアから逃走した使徒の捕縛には成功致しました。しかしいくつか問題が発生し、お願いしたい旨が御座いましてご連絡を差し上げた次第に御座います』
『話を聞こう、続けたまえ』
「有難う御座います」

鷹揚な眼差しで先を促す。
整えられた髭が僅かに揺れ、口元が緩やかに笑う。

それは何処か無邪気な興味を感じさせる。
黄は身を乗り出し、膝の上で頬杖を付いた。

「まず、コピーを生み出したゲシュペンストとカロウ・ヴは血の繋がった兄弟であり、ゲシュペンストのみを取り込むことは非常に困難だと思われます。次に、コピー体"ヘレネス"が上級クラス第一階級カロウ・ヴの子を孕んでいると証言しました」
『なんと!』
『不名誉な』

黄が「やはり……」と、ため息と共に瞼を閉ざす後ろで、議員達が憤慨の声を上げる。

ちらりと、イカロスとガルーダがアスラの顔を窺った。
二人は物言いたげではあるものの、口を出そうとはしない。

冷静でありながら人を寄せ付けないアスラの瞳が、その場の議員達すらも押し黙らせた。

「仮にコピー体の証言が真実であった場合、オーストラリアがコピー体の妊娠を知ればその子供を利用する、あるいは事実を知った一部の者が私欲で匿うなどの行動を取りかねません。オーストラリアに引き渡す前に真偽を確認して頂きたく思います」
『……それが本当であったら?』
「子供のみアジアで保護して頂きたい。他国に渡れば脅威となることは間違いありません。ならばいっそ、子供はアジアで保護すべきです」
「!?」

ゲシュペンストとカロウ・ヴが目を見開き、言葉を発し掛ける。
助ける気か――そう思ったのも一瞬。

「無関係な子供"だけでも"保護を約束すれば、彼等も親として本望のはず。安心して、母国で罪を償えることでしょう」

オーストラリアの使徒達が見開いた瞳を更に見開き、絶句した。

『デーヴァ元帥、それは元帥としての意見か?それとも使徒としての意見か?』
「……元帥としての意見です」
『ワシには、お前の言ったことが回りくどい言い訳にしか聞こえんな。現時点では、オーストラリアが切り札として子供を残す可能性の方が低い。もし本気で阻止するつもりならば、そこの逃亡者を殺せばいいだけの話だ』
「……」

報告をする前に殺そうとしたことなど微塵も感じさせないのは、アスラお得意のポーカーフェイスだ。
ユリアが小さくくすりと笑うと、おろおろとモニターとアスラの顔を交互に見ていたヨハネスが、ユリアに咎めるような視線を向けた。

イカロスが小さくため息を吐く。

普段は重荷に感じる心を読む力も、さすがにモニター越しに心を読むことは出来ない。
だが黄を相手に心が読めないことは、少し不安による息苦しさを感じた。

モニターの中で黄は長々と、何処かつまらなそうにため息を漏らす。

『もしくは、コピー能力者のみでなく、彼等全員を保護しろ……というのが妥当ではないのかね?』

黄は一度頷くようにして顔を伏せると、「率直に聞こう」と告げるとともに、表情が変わる。
まるで仮面のように顔からは老いが消えて厳しい統率者のものへと変わった。

『カロウ・ヴやゲシュペンストの力が惜しいという者も多いが、ワシはどうにも彼等が信用ならなくてね。デーヴァ元帥、彼等は使えるか?』
「……無理です」

アスラは迷いなく、きっぱりと否定した。
その返答に黄は小さく頷き、鋭くアスラを見据え、その理由を促す。

「彼等は自分達が犯した罪の重さを全く理解していない、更生は見込めません。言動からも人間を見下していることは明白であり、共にあれば私達の中からも、彼等から悪影響を受ける者が出てくる可能性もあります」

「なるほど」と呟き、黄の視線がアスラの遥か後ろでカロウ・ヴに寄り添うヘレネスへと向けられる。
モニター越しでも怯んでしまうような貫録のある黄の視線に、ヘレネスがびくりと肩を揺らし、カロウ・ヴの肩越しにおずおずと黄を見た。

『コピー体に尋ねる』

ヘレネスが息を呑み、カロウ・ヴが黄を睨む。
おずおずとカロウ・ヴから手を離し、意を決した面持ちでこくりと頷き返した。

『そもそも使徒の力で構成されている君に、真っ当な子が産めるのかね?』
「産めます!確かに胎児を確認しているんです!」

弾かれたようにゲシュペンストが叫ぶ。

『ゲシュペンスト君。ワシはコピー体に聞いているんだ。君が死んだ後、その子供は生命を維持できる保証が何処にある』

ヘレネスが愕然とした面持ちでモニターの中の黄の顔を見上げた。
震える手が、無意識に下腹部に触れる。

椅子に深く凭れ直し、黄は右手を上げてヘレネスから視線を逸らす。

『禁止はされているが、どの国も一度は使徒のクローンの研究をしている。それだけではなく、代理母や体外受精は何度も試みられてきた。だが、その全てが望む結果には程遠いのが現実だ。使徒の力で生まれた君に結果を望むのは、尚更不確かだと思わんかね?』
「それ、は……」

喘ぐようにヘレネスが言葉に詰まり、深く俯く。
俯いた先に、儚い命を宿した腹部があった。

確かであったものが、突然虚ろなものに感じてくる。

『その話をした上で、コピー体の君にひとつ尋ねよう。一人だけ助けてやってもいいと言ったら、君は誰を選ぶかね?』

はっと息を呑む音が、ヘレネス自身、自分の耳に届いた。
僅かに見開かれた赤い瞳が揺れる。

ヘレネスの瞳が愛するカロウ・ヴを見やり、自分にとっては親であるゲシュペンストへと移り……。
そっと手を添える、酷く儚い体内の命に戻った。

ゲシュペンストが死ねば自分も消える。
自分が消えれば、まだ安定期には程遠い胎児は死んでしまう。
黄の言う通り、例え産んでもゲシュペンストが死ねば死んでしまうのかもしれない。

ならばいっそ……。

ヘレネスの視線が躊躇うようにカロウ・ヴに向けられようとした。

「赤ちゃんだ!」

緊張に包まれた空気にはっきりと、柚の声音が響く。
アスラが煩わしいと思う感情を隠しもせずに柚へと向けた。

「お前は黙っていろ」
「でも赤ちゃんだ!そうだろう!ヘレネス!」
「……っ」

ヘレネスが深く俯く。
長い髪が砂を撫でた。

血が滲むほどに唇を噛み締め、ヘレネスが涙の滲む瞳を上げて黄の瞳を見た。

「子供を、助けてください。お願いします」
「大統領、私からもお願いします」

柚が黄へと訴える。

そんな柚の頭に大きな手が触れた。
それがアスラの手だと気付くと、アスラは柚を下がらせて代わりに口を開いた。

「お願い致します」
『……』

まるで心の奥底までをも探るようにじっとヘレネスを映していた黄の瞳が、今はアスラと柚を見詰め、口元には小さく楽しむような笑みが浮かんでいる。
くつくつと僅かに肩を揺らし、長い沈黙の末、黄は私情を吐き出すように息を吐く。
打って変わり、厳格で冷徹な顔を上げた。

『ならん。全員、ワシの目の前で殺せ』

「どうして」と、柚が叫ぼうとするのを、アスラの手が制す。

『危険分子を国内には置けん。だからといって子供のみ残したところで、親が死んだ理由を知ればいずれその子供は人間を憎む。そうなればそれは人類すべての脅威となるだろう』
「その時は、私が処分します」
『もし真っ当な子供が生まれたとしよう。セラフィムとスローンズの子供は、デーヴァ元帥、君よりも更に強い力を持って生まれる可能性が高い。そうなったときその子供をどう処分する?』
「……」

アスラが押し黙った。
それを肯定ととり、黄は表情を変えずに告げる。

『脅威となる前に消すことが最善だ。命令だ、殺しなさい』

フェルナンドがゆっくりとモニターから視線をずらした。

黄の言う事が正しい。
そもそも最初は全員を殺すつもりでいたはずのアスラが、突然子供の命乞いを始めた心境の変化が分からない。

にやにやと笑いながら、カルヴァンは腰の後ろで手を組み、アスラへと声を掛けた。

「デーヴァ元帥」
「……」
「いますぐに全員を殺せと、大統領が仰せだ」
「……」
「どうした?デーヴァ元帥。ご命令ですぞ」
「……出来かねます」

それはカルヴァンにではなく、黄に向けて……。

「何?」
「出来かねると申し上げた」

眉を顰めるカルヴァンに、アスラが厳しい口調で返す。
さすがのカルヴァンも、今までにない行動や言動ばかりのアスラに唖然とした面持ちになり、小さく開いた口を喘がせるなり、厳しい口調でアスラに叱咤を向けた。

「何を言って言るんだ!これは命令だぞ!」
「承知の上で、お断り申し上げている」
「デーヴァ、貴様っ……!?」

慇懃無礼を身に纏ったような男が、顔を真っ赤に染めて奥歯を鳴らす。

すると、モニターの中から女の声が割り入った。
椅子に無言で座り込む黄の横から、アルテナが焦りと動揺を落ち着かせがら、静かに訴えるように語り掛ける。

『アスラ、何をしているのですか。他の方々に迷惑を掛けるなどあなたらしくもない』

モニターの中には母・アルテナのうろたえた顔が映し出されていた。

アスラは母の言葉に従ってしまいそうになる、本能に植え付けられた力がある。
胸が痛み、思わずモニターから顔を逸らした。

逸らした視線に柚が入りそうになると、柚の姿が視界に入る前にその視線を止める。

『アスラ!返事をなさい、母の言葉が聞こえているのでしょう?』
「……出来ません」
『母を困らせるのですか!』
「申し訳ありません、モンロー議員」

他人行儀な物言いに、はっ……とアルテナが息を呑む音がした。

「確かにその子供は後々脅威となるでしょう」
『分かっているのなら――』
「彼等は人間社会に混乱を呼び、同族にまで犠牲を出しました。我々使徒は彼等を恥と感じ、その罪を憎みます。私は今後の人間と使徒の関係の為にも、一国に混乱と争いを招いた彼等の罪を有耶無耶にして欲しくはありません。人間社会で罪を犯した者達が裁かれるのは人も使徒も道理。しかし罪のない使徒の生死を、私達の意志に関係なく決めてほしくはないのです」

波音が響く。
少し強くなり始めた風が、髪を揺らした。

揺れる前髪の下から真っ直ぐに黄のみを見据えている頑なな水色の瞳が、言葉以上に物を語る。

「仰る通り、まともな命ではないかもしれない。しかし今ここで子供を見捨てれば、我々使徒の尊厳は完全に失われることになります」

手に汗が滲んだ。
本能がしてはならないことをしていると警告を施しているが、自我がその先を望んでいる。

「私達は使徒です。本能が拒絶することもある、望む場所で生きたいと願うこともある」

例えばそれは、血の繋がった者同士で戦うことであったり……。
例えばそれは、家族や恋人の元であったり……。
外の世界にある"望み"から目を逸らし、塀に囲まれた唯一の場所で生きている。

「その感情を抑えてここに留まっているのは、ここが唯一我々使徒が人間と共存し、平穏に暮らせる場所だということを理解しているからこそです」

柚はアスラの横顔を見上げた。
ヨハネスが目を細め、焔は傷口を手で押さえながら、眉を顰める。

「これまで多くの者が言われるがままに子孫を残し、戦場で命を落としてきました。全ては人間と共存する為の従うことを選んだ結果の自己犠牲です」

玉裁が不愉快そうに顔を背け、フェルナンドが困惑した面持ちでアスラを見た。

「しかし先日、支部の子供が私の知らないところで処分の決定を下されました。それは過去に一、二度ではなかった。そして先程です。貴方方は昨夜の時点でご存じだったのでしょうが、我々はつい先程です。カルヴァン佐官から残ったオーストラリアの使徒が全滅したとの報告を受けました」

ぽかんとした面持ちで、首を傾げながらアスラの言葉を聞いているハーデス。
口元に指を当て、薄く浮かんだ笑みもなく、考え込むように聞き耳を立てるユリア。

「ラッド元帥や将官方は覚悟の上で暴徒の前に出たのでしょう。しかし全員が関与の取り調べのないまま、法も情もなく、虐殺されています」

ガルーダはイカロスに肩を貸した姿勢のまま、視線を地面に落とした。
何処か遠いアスラの背を、ただ見詰めることしか出来ない。
イカロスのように何かをしてやれるわけでもない、役に立たない自分が悔しい。

「この件に関して、あなた方はどうお考えですか?どのような形であれ、非難声明をオーストラリアに出して頂けるのですか?」
『そのようなことは、一々君が口出しすることじゃ―』
「使徒の代表である"元帥"の私が言わず、誰が使徒の為の発言をするのですか」

口を挟んだ議員に対し、声を抑えた恫喝が飛ぶ。

イカロスはガルーダに支えられてようやく立ちながら、唇を噛み締めた。
自分の手を離れ、アスラが遠くなっていく。

自分の役目の終わりがはっきりと、目の前にあった。

「このままでは子孫どころか私達自身が、人間に対する不信を膨らませていくことになります」

使徒達が、静かに目を細めた。

モニターの中で誰かが、「こんな時にする話ではない」と、小声でぼやく。
その言葉を打ち消すように、アスラは眼光を強めた。

「こんな時だからこそ、私も引けません」

ほんの少し前までは気にもならなかったこと……。
そんなことが、この世には沢山ある。

「任務や病、罪を犯して命を落とすというのならばまだ分かります。私達使徒の命は、あなた方人間側の一方的な利害のみで生死を決められる程度の価値なのでしょうか」

そんなものなのだと、投げ遣りというべき思いで目を逸らしてきたこと。

「我々は家畜でも奴隷でもない、あなた方と同じ、人以外のものになったつもりもない」

ただの奴隷であり続けるか、人となるか……。

諦めたくない。
仲間に、惨めな人生だったと思ってほしくない。

「戻りたい場所を諦め自らの意志でこの場所に留まり、現状を理解し受け入れようと努力している彼等に、私は申し訳がない。私を元帥と呼び、命を預けてくれている部下の目の前で、罪のない命を奪うことは出来ません」

「さっきまで思いっきり殺そうとしてたくせに……」と、喉まで出かけた言葉を呑み込み、一同が心の中で声を揃えた。
当の本人は、過去などなかったかのように開き直った態度で、殺されかけたオーストラリアの使徒達すら黙らせている。

議員の一人が、憤慨した様子で声を張り上げた。

『何を甘えたことを!使徒の悪い癖が出たか!』
「その習性を利用している貴方方がそれを仰るか?」

横柄さすら漂わせ、アスラはしれっと言い放つ。

「確かに同情でしょう。ただし同情したのはラッド元帥にです。恐らくコピー体の妊娠を知り、あえて逃亡を許し自らは犠牲となった。ここで一人でも救わねば、オーストラリアの使徒は全滅する。救えるとしたら、罪のない胎児の他ありません」

ほんの数回しか会ったことはない。
だがラッドは、柚とフョードルが双頭に誘拐された時、不謹慎な態度のオーストラリア勢の中で唯一、真摯に協力してくれた。
イカロスがカロウ・ヴに刺された後、年下の自分に深々と頭を下げ、当人であるカロウ・ヴからは一切なかった謝罪を心から述べてくれた。

マーシャル・ラッドという男を、アスラは決して嫌いではなかった。

彼はどんなに愚かな部下でも、死なせたくなかったはずだ。
そういう人物だと思う。

静かに瞼を伏せ、瞼の下から現れた水色の瞳が僅かに笑った。

「情に縛られる、それが"使徒"という生き物だとご存知の筈。そんな我々をどう使いこなすかは、あなた方に掛っているのでは?」
『なるほど。我々人間に落ち度があると言うか』
「そうは申し上げておりません。私は双方の為にお願いしているのです。あなた方は違うと、今ここで示して頂きたい」

くつくつと黄が笑う。
「どうか、"人間"に失望をさせないで欲しい」と、アスラの瞳が語っているように思えた。

黄は肘掛に頬杖を付くと、アスラの顔をじっと見据えた。

(どうしたものか……)

命令には絶対服従だった男が、こうもあっさり掌を返してくれた。

("同族の女"という存在が、人間に頼ることで種を残してきた使徒達に自立の自我を芽生えさせたのか)

それも一理あるだろうが、どちらかといえば、柚という少女に感化されたとも考えられる。

子供を生かすつもりは毛頭ない。
単純な好奇心としては、彼の要望を退けた後、使徒達はどうするつもりなのか……。

反乱を起こすとも考えにくい。
折れて命令に従うという可能性も低いように思える。

すると黄の沈黙に焦ったのか、モニターの向こう側で、カルヴァンが顔を真っ赤にして叫んだ。

「付け上りおって!貴様等、大統領に向かってな無礼にも程がある!もういい!話にならん!他の者、誰でもいい、こいつ等を殺せ!」

一同が顔を見合わせる。
ただ一人、誰の顔も見なかったフェルナンドが足を一歩踏み出し、落ち着いた明瞭な声を上げる。

「私も出来かねます」
「フェルナンド……」

真っ先に答えた人物は、アスラの予想を裏切る――否、アスラの決断を非難すると思っていた相手なだけに、アスラも思わずフェルナンドの顔を見た。
そんなアスラに、ばつが悪いのか照れているのか、フェルナンドが赤くなって睨み返してくる。

すると後ろの方から柚とユリアが小くすりと笑う声が聞こえ、柚が挙手をして明るく言い放つ。

「はい、私も出来ません!」
「僕も。遠慮しておくよ」

いつもの斜に構えた笑みでもなく、単純におかしくて仕方がないと言いたげな面持ちでくつくつと笑いながら、ユリアが同意した。
玉裁はガシガシと片手で髪を掻き毟り、面倒くさそうに声を上げると、その口角が不敵に吊り上る。

「あー……まっ、上官の命令には従わなくちゃな。俺ってば、上官命令に忠実だからさ」
「よく言いますね。ですが、私も元帥に同意致します」
「俺も、勘弁してもらうわ」

苦笑を浮かべて玉裁の顔を見たヨハネスが、少しだけ緊張を滲ませた面持ちで頷いた。
焔が苦笑交じりに、ひらひらと手を振る。

取り残されたように、研究所で育った者達が困惑した面持ちを浮かべていた。
ハーデスや双子には、アスラが何を守ろうとしているのか、アスラの発言の根底がよく分からない。

ガルーダが困ったようにアスラの顔を見て、その視線をイカロスへと移す。

ガルーダとて、アスラの言いたいことが理解出来ないわけではない。
いつかははっきりと主張しなければならないことだとは思っていた。
だが、それが今なのか……いざその時を迎えると、不安と焦りが生まれる。

イカロスがそんなガルーダの視線に応え、苦笑を浮かべた。

「じゃあ俺も出来ないって事で。どちらに従うか、従いたいかは自分達で決めればいい。それをアスラは咎めはしないよ」

ハーデスが身を乗り出し、開いた唇が小さく何かを言い掛ける。
だが、不安気な表情が一瞬にして緊迫したものへと変わった。

いち早く察知した者達がアスラの顔を仰ぐ。
アスラは小さく頷き返し、小さく手を払った。

「来るぞ、集中しろ」

周囲にいた使徒達の顔付きが変わり、示し合わせたかのようにそれぞれが動き始める。
カルヴァンにはアスラの言葉では何が来るかを察することは出来なかったが、使徒達――それも上級クラスの者達が緊張するほどの危険が迫っているのだということは理解出来た。

「デーヴァ元帥、一体何――」
「なかなか面白かったよ、アスラ」

一瞬周囲の音が無に還り、その中に響いた静かな声音はまるで、楽器が奏でる音色のように感じる。
笑みを含んだ声は、カルヴァン自身のすぐ近くから聞こえたように思えた。

何か恐ろしいものが背後にいる。
だが、蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことなのだろう……体が強張り指先すら動かない。

「それに比べて、スミス・カルヴァン」

肌を這うように、熱くも冷たくもない、熱を一切感じない何かが首筋に絡み付いてくる。
やっとの思いで視線を横に向けると、禍々しい赤の瞳が弧を描き笑っていた。





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