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頭を抱え込み、イカロスの体がぐらりと傾く。

「イカロス?」

ガルーダが異変に気付き、声を上げる。
止める為に名を呼んでも振り返らなかったアスラが肩越しに振り返り、倒れるイカロスを視界に収めると、すぐさま体を翻す。

「どうした、イカロス」
「イカロス将官?」

アスラが膝を折り、イカロスに声を掛ける。
柚もイカロスに駆け寄り、その顔を覗き込んだ。
ヨハネスが、治癒中の焔達を放り出して駆けつけることも出来ず、おろおろと様子をうかがっている。

その瞬間、イカロスが勢い良く上空を仰ぎ見た。

見開かれた若葉色の瞳が、ざわざわと深い緑色に染まっていく。
それと共にくつくつと喉仏が揺れ、口元が笑う姿がうそ寒く不気味に感じる。

「!こんな時にっ……」

すぐ隣で、ガルーダが焦ったように呟いた言葉に、柚はガルーダを見上げた。

くつくつと笑うそれとは別に、イカロスの手が小さく震えながら、ゆっくりと空を仰ぐように耳を塞ぐ。
聞き取れないような言葉を絞り出しながら、強く髪まで握り込むイカロスの頬を、一筋の汗が伝い落ちていった。
苦しそうに、まるで何かに抗うように、青筋を立てながらイカロスがぎりりと奥歯を噛み締める。

「イカロス将官?どうしちゃったんだ?」
「溢流じゃないの?」

上から見下ろすようにして、淡々とした面持ちでユリアが呟く。
アスラの肩が僅かに揺れ、ガルーダが弾かれたように振り返るなり、歯ぎしりを立ててユリアを睨み付けた。

「いつりゅう?」
「違う!」

目を瞬かせてユリアの顔を見る柚に、ガルーダの怒声が飛ぶ。
自分が怒鳴られたのだと思い、思わず柚は首を竦めるが、ガルーダの視線はユリアに向けられていた。

今にもユリアに掴みかかりそうな勢いのガルーダの横で、アスラが微かに目を見開く。

「……そうなのか?」
「違う!」

イカロスを見詰めたまま呟くように問い掛けたアスラに、焦った面持ちでガルーダが否定する。

カロウ・ヴ達を見張りながらも、緊張した面持ちで遠巻きに様子をうかがっているハーデス達の動揺を感じた。

「溢流って、何?」とは、とても聞ける雰囲気ではない。
ただ、柚は前にも似たような光景に遭遇したことがある気がする。

柚は筋が浮き出るほどに力を込めているイカロスの手に自分の手を伸ばし、躊躇いながら触れた。

「そう、だったのか……」
「アスラ、違う!」
「いつからだ、何故俺に黙っていた。……いや、任務中にする話ではないな。この話は後だ」
「だから違うって言ってるじゃん!」

沈んだ声音で呟き、アスラは銃を握り直して立ち上がる。
焦ったように否定するガルーダの言葉が虚しく空回る。

アスラがイカロスに背を向けると、まるで夢遊病にかかったかのように、イカロスの手がアスラの背中に伸ばされた。
ざわめく緑色の瞳が、アスラを追い掛けようとしている。

「待って」

柚は咄嗟に、イカロスの代わりにアスラを呼び止めた。
振り返りはしなかったが、アスラが僅かに足を止める。

「待ってって、イカロス将官が……」

言っている気がする――と言い掛けた柚の手を、無我夢中で何かに縋るように、イカロスが乱暴に掴んだ。
入れ替わりにもう片方のイカロスの手が、勢いよく地面を叩き付けた。

触れた場所から地面が隆起し、背後からアスラが手にする銃を弾き飛ばそうとする。
銃に向けて伸びた土が、アスラの持つ銃を突き上げて弾き飛ばそうとしたが、アスラに触れる寸前で土が砂になり砕け散った。

肩越しに振り返るアスラが眉を顰めて振り返り、イカロスを見下ろす。

困惑の声を上げる柚から、イカロスの手がするりと離れていった。
イカロスの肩が上下に揺れ、亜麻色の髪が俯くイカロスの顔を隠す。

イカロスから荒い呼吸を呑み込む音がした。

「君が……」

イカロスは言葉を続けられず、苦しそうに息を吐く。
横顔を除く柚は、いつもの若葉色の瞳を見付け、思わずほっと安堵を漏らした。

だがそれも束の間、イカロスは余裕のない面持ちで息を吐き、アスラを見据える。

「犠牲になる必要なんてない。もう気付いてしまったろう?俺が適任だ」

その瞬間、ユリアが何処かつまらなそうに肩を竦め、大きなため息を漏らした。
そのため息に気を取られて振り返る一同に、ユリアは皮肉めいた笑みを浮かべ、背後を軽く指し示す。

ユリアの背後にある雑木林から、エンジン音が近付いてくる。

「残念、時間切れだよ」
「……そのようだな」

アスラが憂鬱そうに瞼を閉ざし、ため息のような息を吐きながら銃をしまい込み、ヘレネスに背を向けた。
カロウ・ヴ達が困惑した面持ちで顔を見合わせる。

しゃがみ込み俯いたまま逡巡するイカロスの肩に、アスラの手が触れて通り過ぎた。

「もういい。イカロス、立て」
「……」

ぐっと唇を噛み締めて押し黙るイカロスに、ガルーダが無言で肩を貸した。
まるで叱られた子供のような面持ちのガルーダと、自己嫌悪に顔を歪めるイカロスの顔を交互に見る柚を他所に、車一台が通れる程度の舗装されていない悪路から、ジープが一台姿を現す。

ジープは雑木林を抜けて、静かに停車した。
後部座席のドアが開かれ、降りた壮齢の男は姿を現すなり、パチパチと緩慢な動きで拍手の音が響かせる。

「ご苦労、アース・ピースの諸君」
「カルヴァン佐官?」

柚が訝しみ、その名を口にした。

「おー、終わってる終わってる」とつぶやきながら、玉裁が助手席から降り立つ。
ハーデスが、「そういえばいたんだっけ……」と、人知れず呟きを洩らした。

一般兵部隊、つまりは陸軍の軍服を纏う四十代前半の男は、まるで上官が現場の視察に訪れたかのような態度で使徒達を見回す。
紛れもなく人間であり、この場にはそぐわない存在に映るスミス・カルヴァンは、オーストラリアの使徒達を視界に収めると、にこりと友好的な笑みを浮かべた。

「オーストラリアからまだ捕まらないのかと再三問い合わせが来ていてね。様子を見に来たらなんだ、もう終わっているじゃないか。やはり我が国の使徒の諸君は優秀ですな」

ゲシュペンストの肩が僅か揺れ、勢い良く顔をあげて口を開きかける。
縋るような瞳にカルヴァンの視線が絡むと、カルヴァンの口角が吊りあがった。

「そうそう、オーストラリアに引き渡す前に君達に教えておこう。知っておくべきだと思うからね」

何処か残虐な笑みを浮かべ、カルヴァンはゲシュペンストを見下ろす。

「ガルーダ尉官からの報告で確認に向かわせたが、ツァイ・イエン、ムスターファ・モスク、モアイ、三名の使徒の死亡を確認したそうだ。それと、オーストラリアに残った君達の仲間も全員、暴徒になぶり殺しにされて死んだらしい」

ゲシュペンストは俯いたが、カロウ・ヴに動揺はなかった。
ヘレネスだけが体を震わせ、青褪める。

だがそれ以上に、アジアの使徒達が動揺を浮かべた。
アスラは瞳を眇め、カルヴァンを見据える。

「君達が逃走してすぐのことだ。君達の逃走を知り怒り狂った暴徒が基地を襲撃したらしい。暴徒は施設を囲み火を放ち、残っていた研究員の人間を含み、逃げだそうとした者全員を一人残らず殺した。施設は全焼、オーストラリアの使徒は全滅だ。ここにいる君達を除いてね」

カルヴァンがくすりと笑う。
カタカタと肩を震わせ、ゲシュペンストが掠れた声音で問いかけた。

「抵抗は……しなかったのですか?元帥方が、暴徒如きに後れをとるはずがない」
「信じられないというならば、直接その目で確かめるといい」

カルヴァンは一般兵に声を掛けると、小型のモニターを受け取り、空に向けて映像を映し出す。
カルヴァンが映像を空に映し出すモニターの音量を弄ると、大音量の声が溢れ出した。

多くの人々の声が重なり合い、カメラの先に振り上げられる人々の手が時々映り込む。
周囲の人にぶつかり揉みくちゃにされながらも、映像はアース・ピースと書かれた施設を映し続けていた。

暴徒の中心人物達が施設に火を掛けようとすると、周囲は賛同して声を張り上げた。
その声は次第にひとつの統率された声となり、「殺せ」と繰り返す。

ぞっとする言葉が大地を揺るがし、人々の理性が曖昧になっていく瞬間――向けられる者からすれば恐怖でしかない。
こうして映像を見ているだけで恐ろしくなり、柚は目を逸らして無意識に自分の腕を抱き込んでいた。

するとざわめきがより強くなり、再び視線を引き戻されると、施設の中からラッドを中心に五人の使徒が姿を現したところだった。

オーストラリアに残っている使徒はラッドの他に将官・佐官・尉官と他に一名の計五名。
会話をしたことはないが、前回オーストラリアを訪れた際に会った顔もある。

出てこないでと、心の中で切に訴えた。

ラッドもまた、暴徒に向けて何かを訴えているが、もはや暴徒の声がすべてをかき消す。
呪詛が響き、石が投げ付けられ、誰かが銃を発射し、鉄の棒が振り下ろされていく。

暴走を始めた一部の者が、施設に火を掛け、中から逃げ出してきた研究所の職員にまで銃口を向け、暴力の限りを尽くし始める。
カメラを回している人物だろうか、彼等はコピー能力者に協力し、国を牛耳ろうとした者達であり、人間の敵だと叫んでいた。

暴徒は「所長を引き摺り出せ」と叫ぶ。

「恐らく暴徒にエデンが紛れて扇動したのだろう。ネットを通じ、全世界にその時の映像が実況中継されていた」

カルヴァンが映像を切る。
静かな皮肉めいた声音には、誰に向けられたものか……、嘲笑が滲んでいた。

残った使徒達が、一切抵抗をしなかったことはエデンの誤算だったのかもしれない。

「……ひどい」

柚が蒼褪めた面持ちで呟きを洩らした。

オーストラリアの元帥、マーシャル・ラッドとは面識もある。
紳士的な男だった。

逃げようと思えばカロウ・ヴ達と逃げられたはず。
だが最後まで逃げるどころか、一切の抵抗をすることなく人々の怒りを受け止めた。

アスラが罪を背負おうとしたように、彼もまた、部下の暴走を止められなかった責任を取り、逝ったのかもしれない。

愕然とした面持ちで、ゲシュペンストの瞳を震わせていた。
ヘレネスが嗚咽を漏らす。

「白々しい」と、ユリアが小さく笑った。

その笑い声に重なるように、カロウ・ヴが声を上げて笑い始める。

「力はあるくせに馬鹿だよね!残ったらこうなるのは目に見えてたじゃん、無駄死ってこういうことを言うんだよ」
「カロウ・ヴ……」
「だから一緒に逃げればよかったのに……」

僅かに顔を俯かせたカロウ・ヴが小さく漏らす。
まるでマーシャルに向けるように洩らした最後の呟きは、ヘレネスとゲシュペンストにのみ届き、消えた。

カルヴァンは腰の後ろで手を組むと、くつくつと笑いながら三人の使徒を見下ろした。

「全ては、君達が招いた結果だ」
「っ……」
「抵抗もせず、潔く死を受け入れた彼等は君達と大違いだな。逃げ出して惨めに生に縋る君達は実に傑作だよ」
「何が可笑しい」
「は?」

冷やかな声音がカルヴァンの笑いを吹き飛ばした。
カルヴァンが眉を顰め、声を発したアスラへと振り返る。

「なんですかな、デーヴァ元帥」
「何がおかしいと聞いている、カルヴァン佐官」

息苦しくなる空気がアスラとカルヴァンの間に漂う。

ぽかんとした面持ちで、ゲシュペンスト達がアスラの顔を見た。

柚達でさえ怯む静かな水色の瞳に相対するカルヴァンもまた、冷たい瞳をした男だ。
アスラが自分に対し、強硬な態度には出ないということを知っているからか、彼は使徒に対して怯えはしない。

「ラッド元帥が亡くなったのはいつの話だ」
「昨夜ですが?それが何か?」
「誰か、その報告を受けた者はいるか?」

振り返らずに問い掛けるアスラから、アジアの使徒達は僅かに体を強張らせ、無言で首を横に振って返す。
まるでそれが見えているかのように、はたまた無言が返事ととらえたのか、アスラはカルヴァンを睨むように見据えた。

「ならば私を含め、全員がその報告を受けていないということになるな。外部情報伝達の最高責任者はあなたの筈だが、情報を止めた理由を説明願いたい」
「これは失礼。戦場に向かおうという時に、仮にも同士がなぶり殺しにあったなどと、わざわざ元帥方の耳に入れるべきお話でもないでしょう。私なりに配慮したつもりでしたが、そのようにお怒りになるとは思いませんでしたよ」
「支部の子供の処遇会議にも、今回私は呼ばれていない。その件に関しても配慮などと言い訳をするつもりか?」

柚と焔が目を見開き、アスラの顔を仰ぎ見る。

「俺には単なる怠慢と越権行為でしかないように感じる、カルヴァン佐官」

次いでカルヴァンに向けられる怒りの双眸は、柚達のみならず、他の者達にも伝染していた。

いつも無と表現するに等しいアスラの瞳が、カルヴァンを貫くように猛々しく睨み据えている。
それでもやはり、カルヴァンは動じない。

「支部の子供?ああ、ニエという子供のことですか?あちらも元帥にご報告するほどの内容ではないと思ったまでですよ」
「それはつまり、我々の生死に我々使徒の意思や意向は関係ないと言うことか」
「そう聞こえましたかな?お気に触ったのならば、以後密にご報告申し上げるよう気をつけますが?」

慇懃ではあるものの、悪びれた様子もなく聞き流す風に返される言葉。

いち早く変化に気付いたイカロスが、何処となく狼狽した面持ちでアスラを見た。

「気が変わった……」

ぼそりと、こぼすかのように呟かれた小さな一言に、アスラの傍にいたガルーダがアスラの顔を見る。

例えるならば、アスラから「ブチリ」と何かが切れるかのような……。
「え?」と耳を疑うように呟いたガルーダは、長い付き合いの経験からか、思わず顔を引き攣らせた。





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