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草を掻き分けて進むデニスとトドリスは、ゴムボートが隠してある場所の近くにまで辿り着くと、先を歩くデニスがぴたりと動きを止めた。
デニスが足を止めた理由を察したトドリスの緊張が伝わってくるが、デニスはあくまでも冷静だ。
銃に手を添え、音と気配を殺して静かにボートに近付いていく。
トドリスもデニスほどは上手くはいかないが、それに倣いデニスの後に続いた。
脱出用のボートは木々に覆われているが、ボートの淵に腰を掛ける人影らしきものが見える。
それは白い軍服に身を包み、短い紺色の髪をした男だ。
トドリスが息を呑み、小さく「孫 玉裁」と呟きを漏らした。
その声は本当に小さなものであったが、男がぴくりと顔を上げ二人が隠れる方へと顔を向ける。
彼が振り返ると、耳にびっしりと飾られたピアスが音を立てた。
「よっ。お疲れさん」
玉裁は軽く手を上げ、気安く声を掛けてくる。
「イカロスのピンピンしてる気配がすっから、てっきりイカロスにやられちまったのかと思ったぜ」
デニスは無言で銃を握り、銃口を玉裁に向けるなり、引き金に掛ける指に力を込めた。
その瞬間、玉裁が口角を吊り上げて指を鳴らす。
銃の引き金がギシリと音を立て、それ以上の動きを止めた。
デニスはやはり無言のまま、動揺した様子もなく視線のみを自分の銃に落とす。
引き金やシリンダーには細い蔦がしっかりと巻き付いていた。
デニスとトドリスの足にも、木の根が蛇のように巻き付き、自由を奪っている。
デニスが電磁波発生装置の埋め込まれたナイフへと手を滑らせると、玉裁は「まあまあ」と斜に構えた笑みと共にデニスを宥めた。
「そう焦らずに。俺はさぁ、ちょっとあんた等に話があって待ってただけなんだわ。ここは穏便に行こうじゃねぇの?」
玉裁は悪びれた様子もなく、肩を竦める。
トドリスが、玉裁の一挙一動にびくびくと体を強張らせた。
まるで昔からの知り合いであるかのように、玉裁は屈託なく話し掛けてくる。
そんな態度に気を許しでもしたら一瞬で食い潰されてしまいそうな、何処か擦れた危険な雰囲気を纏い、それを隠しもしない男だった。
「話っていうか、頼み?それを聞いてくれるなら、俺はあんた等を見逃すし、あんた等にとっても悪い話じゃないと思うぜ?」
トドリスが緊張した面持ちで玉裁を睨んだ。
「あんた等の仲間に麗君っていう女がいんだろ?その女はこの俺と雪山で会ってる。大体四十代後半から五十歳前半くらいの女で、俺と同じ髪の色と歳のわりにすげぇエロい体したババアだ。腕に牡丹の刺青があるはずだ。」
「……」
「孫 玉裁から話があるって伝えてくれ。けど、俺から会いに行くことが出来ねぇことは知ってんだろ?あんた等でなんとかセッティングしてくれ」
「何を言ってるんだ。誰がそんなことを――」
「あんた等にとっても悪い話じゃねぇだろ?ほいほい出向いた俺を殺す絶好の機会だぜ?罠でも張って待ってりゃいいんだからよ」
無言を貫くデニスに対し、トドリスが困惑した面持ちで玉裁を見る。
玉裁はくつくつと、「ま、俺もそう簡単に殺されてやるつもりはねーけど」と笑った。
「な?」
「……伝えよう」
「話が早くて助かるぜ」
デニスの答えに、玉裁はゴムボートから腰を上げると、二人とは反対へと歩き出す。
その瞬間、デニスは電磁波発生装置が内蔵されたナイフで蔦を切り落とした。
玉裁がぴたりと足を止め、振り返りもせずにポケットへと手を突っ込む。
「伝言役を買って出てくれたあんた等に感謝して、ひとつ忠告しといてやる」
デニスの動きが、時を止めたようにぴたりと止まった。
「いくら力を無効化出来ても、その銃の中にはしっかり植物に根を張らせて塞いである。引き金引いたら、暴発してあんたの腕が吹き飛ぶぜ」
「デニス兄さん!止めて!」
トドリスが悲鳴染みた声を上げて、デニスの手から銃を叩き落とす。
「んじゃあ、宜しく頼むわ」
玉裁はひらひらと手を振り、鬱蒼と生い茂る木々の中へと姿を消した。
ここは玉裁にとって、有利な場所だ。
イカロスの戦闘の後、対使徒に有効な武器を消耗した者の相手は容易い。
玉裁はポケットに手を突っ込むと、もくもくと歩いた。
煙草を吸いたい気分だが、外に出た前後は特に入念に所持品検査を受ける為、さすがに持ち歩かない。
それがより一層、落ち着かない気分にさせる。
(上手く行くよう、あんたも祈っててくれよ……櫂楊)
茂みを抜け出た玉裁は、一般兵部隊の数名が集まる傍に、ジープが停まっていることに気が付き足を止めた。
その後部座席に座る男が、玉裁に気付いて顔を出す。
尊大な態度をした、四十前半の男だ。
「孫、こんなところで何をしている」
「これはこれは親愛なるカルヴァン佐官。臆病者のあんた様がこんなところに何用ですか?」
「貴様ァ……上官に対し無礼な態度、処分を楽しみにしているんだな」
「あんた、俺が好きだねぇ」
「……そんな軽口を利いていられるのも今のうちだ」
スミス・カルヴァンはふんっと鼻を鳴らす。
「まあいい。お前に私の護衛を命じよう」
「あァ?」
玉裁は眉間に皺を刻み、眉を顰めてカルヴァンの顔を見た。
「さあ、次はどうする?」
アスラは腕を組み、地面に押さえ付けられた格好の三人に問い掛けた。
カロウ・ヴが自分の体を押さえつける重力に抗い、体を起こそうとする。
だがその動きを遮るように、声を発したのはゲシュペンストだった。
「降伏します。ですから、オーストラリアにだけは……せめてカロウ・ヴだけは、助けてください」
「ゲシュペンスト!?何勝手なこと言ってんだよ!僕はまだ戦える、こんな奴等すぐに殺してやる!」
「お願いします、全ては私の責任です。私が勝手にやったんです。この子は私に騙されただけなんです!」
「黙れ、ゲシュペンスト!」
カロウ・ヴが血走った目で叫んだ。
「ゲシュペンスト。悪いけど、この国の政府が求めているのは君の方だ」
イカロスの声が静かに、感情的になる二人を宥めるように割って入った。
「なら、あなた方がカロウ・ヴを人質に取ればいい!そうしたら私はこの国の命令に従いますよ。どんな命令だって――」
「セラフィムレベルが人質じゃ、あまりにもこっちのリスクが高過ぎるっしょ」
ガルーダが片手を腰に当て、ため息交じりに返す。
体を小刻みに震わせ、ゲシュペンストが掌に柔らかい砂を握り締めた。
「……カロウ・ヴを殺すならば、私もここで死にます。私が死ねばヘレネスも消える」
引き攣った顔が、アスラを見上げる。
アスラはピクリと眉を顰めた。
途端にカロウ・ヴがアスラの重力を弾き返してゲシュペンストに駆け寄ると、胸倉を掴み上げる。
「止めろ、言うなゲシュペンスト!」
「言わなきゃ、真っ先にヘレネスが消されるんですよ!あの男は、気付いていても言うつもりはない!」
ゲシュペンストの指がイカロスを指す。
心外そうに眉を上げたイカロスは、片手で肩を竦める。
重力が消えるなり体を起こしたヘレネスは、腹を抱えるように震える手を添えた。
察したようにユリアが目を細め、フェルナンドが息を呑む。
「けど奪われる!!」
「奪われたって構わない!少しでも生き残る可能性がある道を選らばなければ、皆終わりです!」
ゲシュペンストの言葉にカロウ・ヴが唇を噛み、胸倉を掴みあげる手から葛藤するようにゆっくりと力が抜け落ちていく。
ゲシュペンストは乱れた軍服を直しもせず、アスラを睨み据えた。
「ヘレネスは妊娠しています」
「え……?」
柚が眉を顰め、思わず声を漏らして問い返す。
子供を産むこと――それは柚にとって重苦しい義務と責任だ。
考えると息が詰まる。
だがヘレネスが、自分のコピーが妊娠していると聞いた時に感じたのは、ならば自分の代わりにという逃げの思いではなく、自身の役目を放棄している自分への後ろめたさだった。
カロウ・ヴとヘレネスが、追い詰められたかのようにぐっと息を呑んだ。
彼等は自分達の子供をアジアに奪われることを恐れている。
「カロウ・ヴの、セラフィムの子供です!確かにヘレネスは力を持っていませんが、体は完全なる使徒です!必ずセラフィムかそれ以上の力を持つ子供が生まれる筈だ!」
「……」
アスラは無言でカロウ・ヴとゲシュペンストの顔を見た。
そして最後に、青褪めた顔を俯かせている柚へと一瞥を向け、視線をゲシュペンストに戻す。
「……俺は今、貴様等を全員殺してやりたいと思っている」
アスラは銃を取り出しながら、一歩、足を踏み出した。
「コピーが産む必要はない。人間が来る前に、コピー体だけでも消させてもらう」
「!?い、いや!」
ヘレネスが青褪め、悲鳴染みた声をあげた。
カロウ・ヴがヘレネスを庇い、構えながらアスラを睨む。
「ア……」
「あってはならない。政府は決してコピーの子供など認めない」
「アスラ、待って!」
柚の声が、躊躇いながらもアスラの動きを止める。
振り返るアスラに、柚は迷いながら顔を伏せた。
「ほ、本当に妊娠してるなら……お腹の中の子供まで、殺すことになる」
「そのつもりだ」
「でも、その子は何も悪くないのに……」
「……」
アスラが眉間に皺を刻み、柚の顔を見下ろす。
柚は首を竦め、アスラから目を逸らした。
だが聞き間違えるほどに同じ声が、柚とは別の方向から響く。
「あなたはいいわね、私はあなたが羨ましい」
柚はヘレネスの顔を見るなり、顔を伏せた。
責めるように、ヘレネスが震える声を上げる。
「私は当たり前のように、誰にも存在を認められないわ。そのせいでこの子まで認められない。これは私の罪なの?」
カロウ・ヴとゲシュペンストが静かに目を見開いた。
「私はコピーとして生まれたけど、私が生まれてからあなたと再会するまでの間のあなたの記憶をコピーされてはっきり分かった。もう私と本体は別の個体よ。絶対に交わらない、本体とは別の人格と記憶があるのよ?」
躊躇うようにゆっくりと顔を上げた柚はヘレネスと目が合い、僅かに肩を揺らす。
同じ顔をしたヘレネスが、自分を憎むように睨み付けていた。
何故自分が今、ヘレネスの顔を直視できないのか……。
理由は自分自身が一番良く分かっている。
「それなのにどうして私はいつまでもコピーなの?私は永遠にヘレネスとは認められないの?私はどうすれば、一人の使徒になれるの?」
焔の治癒をするヨハネスが、悲痛な訴えに顔を曇らせた。
「なんだか可哀想かも」と、ハーデスが一人ごちるように呟きを漏らす。
そんなハーデスを、フェルナンドが「甘い」と睨んだ。
真っ直ぐにあげられた顔は柚と同じ顔だが、誰の目から見ても柚とは違う雰囲気を纏っている。
同じ凛然とした表情も、ヘレネスにはその中に女として、母としての強さがあった。
「それでも私が、この世に存在することが許されないというならそれでもいい。でもせめて少し時間が欲しいの。このお腹の子だけは産んであげたいの」
ガルーダが、困ったようにアスラの顔を見た。
イカロスが何処か不機嫌な面持ちでため息を漏らす。
宝石のようにヘレネスの赤い瞳から、涙がぽとりと零れ落ちた。
「お願いします、この子を救って……」
「……ヘレネス」
カロウ・ヴがヘレネスに手を伸ばした。
ヘレネスは儚い微笑みと共にその手を握り返す。
「……随分と、ありきたりな茶番だね」
心底つまらなそうに、ユリアの声が動けない仲間の空気を切り裂いた。
「ま、どうせ決めるのは僕達じゃないし、僕はどっちでも構わないけど。コピーされた君はどう考えるんだい?」
「私は……」
問い掛けられた柚は思わず肩を揺らし、視線を彷徨わせた。
胸元を握り締める。
「君はコピーが憎かったんでしょ?」
「そう……だけど」
「この男達のことも、暴走するほど憎かったんでしょ?」
「そう、なんだけど……」
「今なら仲間しか見てないし、彼等を殺しさえすれば、妊娠してたなんて、ここにいる僕達しか知らないってことになるんじゃない?」
「ユリア」
イカロスがユリアを咎めるように名を呼ぶ。
ユリアはゆっくりと口端に弧を描き、くすりと笑みを漏らした。
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