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血だらけの拳を振り上げて、どうだとばかりに笑みを浮かべる焔に、柚は目頭が熱くなる。

以前からずっと胸の内にあった何かが、解けていく気がした。
それは胸の内にじわりと温かく広がっていく。

(ああ、そうだったんだ……私)

柚の顔がくしゃりと歪むと同時に、ゲシュペンストとヘレネスがカロウ・ヴに駆け寄った。

「カロウ・ヴ!」

青褪めたヘレネスが、ガクガクと体を震わせてカロウ・ヴにしがみ付く。

二人を守るように前に立つゲシュペンストを見やり、焔はゲシュペンストを睨み据える。
ゲシュペンストの肩がびくりと揺れた。

「よし、待たせたな。次はあんただ」
「な、何言ってるんですか!?」

アンジェとライラの手当てをしていたヨハネスが、青褪めた顔を更に青褪めさせ、裏返った声を上げる。

「も、もういい!もういいよ、十分だ」

柚は焔に駆け寄り、腕を掴んだ。
途端に焔の体がぐらりと揺れ、地面に倒れそうになった体を柚が慌てて支えた。

重みに必死に耐える柚が、離れた場所でアンジェとライラの治癒に励むヨハネスへと叫ぶ。

「ほ、焔!ヨハネス先生!焔が倒れた!」
「こっちに連れてきてください!双子の治癒で手が離せません!」

当然のように背を向けて離れていく焔と柚に、呆然としていたカロウ・ヴが砂と共に拳を握り締め、ぎりりと歯を食いしばった。
肩がわなわなと震え始める。

背後から冷気が吹き上げ、柚は目を見開いて背後へと振り返った。

「ざ、けるな……ふざけるな!なんなんだよ、人のこと殴って、それで終わりかよ!」
「カロウ・ヴ、止めて!」

ヘレネスの静止を振り切り、カロウ・ヴが立ち上がる。

「こっちは本気なんだよ!命懸けで逃げてきてんだよ!お前達はそうじゃないだろうけど、こっちは命が掛ってんだぞ!それを殴って満足って子供の喧嘩かよ!ムカツクんだよ!?」
「こっちだって本気だ!!」

カロウ・ヴ以上に大きな柚の声が、鋭くカロウ・ヴの声を遮った。
柚はまっすぐにカロウ・ヴを睨み返し、溢れ出す感情を堪えるように拳を握り締める。

「私の為に本気で怒ってくれたんだ、それに命懸けてくれたんだ!焔を侮辱するなら許さない!」

気圧されたように、カロウ・ヴがぐっと言葉を呑み込む。
柚は続けざまに肩を貸して支えている焔を睨み付けると、焔が身構えた。

「こんなになって、カロウ・ヴよりもお前の方がボロボロじゃないか!」
「これくらい、いつもよりマシだろ」
「そうだけど……なんでいつもそうなんだよ、もっと自分を大事にしてくれ!」
「声でけぇ……つーか、なんで俺が怒られてんだよ」

焔は柚から顔を背け、ため息を漏らす。

「だよな、そうだよな。ごめん。違うんだ、本当は……」

柚は俯き、唇を噛んだ。
涙を堪えようとして失敗した。

声が掠れる。

「ありがとうって、言いたかったんだ」

柚は嗚咽をぐっと呑み込み、前を見据えた。

「それが、ふざけてるって言ってんだよ!?」

カロウ・ヴの氷が柚と焔を襲う。
避けようとも防ごうともせず、柚は襲ってくる氷の飛礫を睨み据えた。

突如ハーデスがユリアと共に柚と焔の前に姿を現し、迫る氷の礫の前から柚と焔を攫って消えた。

それと同時、カロウ・ヴ達の体が、ガクリと足を取られる。
蟻地獄に引き摺られるように三人の体が砂の中に沈み始め、カロウ・ヴとゲシュペンストが空中に足場を作り蟻地獄から脱出し、ヘレネスを引き上げる。

杖で体を支えて立つイカロスが、砂から抜け出した三人に教えるように空を指差した。

「さて、君達はもう終わりだ。俺としては降伏を希望するよ」

青い空にぽつりと白い点が浮かび上がり、それはまたたく間に大きくなった。

空からガルーダが急降下をしてカロウ・ヴに拳を振り下ろし、カロウ・ウもまた冷気をぶつける。
一帯を、砂と冷気が入り混じる衝撃波が走り抜けていく。

ヨハネスがはらはらとそちらに目を取られていると、ハーデス達が目の前に姿を現した。
着地をするなり、ハーデスは柚の顔を見て眉を顰める。

「えっと、柚泣いてるの?あいつにやられたの?」
「ううん、焔に」
「焔に……?」

ハーデスが長い前髪の間から、おどろおどろしい眼差しを焔に向ける。
焔がびくりと肩を揺らした。

「待て待て、違うだろ!」
「うん、嬉し泣き」
「へえ……ふうん」
「ああもう!怪我人は大人しくしてなさい!」

ヨハネスが呆れたように苦笑交じりに焔を叱り付け、体中から血を垂れ流す焔を視界に入れ、笑みを凍らせた。
そのままふっと意識が遠退きそうになるヨハネスを、ユリアの足が支える。

「しっかりしてよね。今倒れたら焔死ぬんじゃない?」
「び、びっくりした。洒落にならないこと言わないでください。もの凄く元気そうに会話してるものだからてっきり軽傷の部類かと思ったら、あなたお腹に穴開いてるじゃないですか!?」
「中身は出てねぇし」
「出てたら大問題ですよ!」

集まる面々のすぐ横を冷たい風が走り抜けた。
ヨハネスがますます青褪めて押し黙る。

「じゃあ、ちょっとガルーダとイカロス手伝ってくる」
「あ、私も!先生、頼んだ」
「はいはい。あ。でももう、出番もなさそうですね」

ヨハネスは海の方へと視線を向け、一人ごちるように呟き苦笑を浮かべた。

柚とハーデスは動きを止め、動きを止める。
砂の上にの転がる焔も、そちらへと視線を向け、複雑そうにため息を漏らした。

空を飛ぶガルーダを、氷の結晶が刃となり、回転しながら追い掛けていく。
その正面からは水が竜巻となり、ガルーダとイカロスを呑み込もうとしていた。

ガルーダは右腕を引き絞り、拳に風を纏うと、竜巻に向けて拳を振りかぶった。
唸るような轟音が鳴り響き渡り、竜巻を風が貫通した。

水が雨のように降り注ぎ、イカロスを濡らす。
そんな中、イカロスは静かに瞼を起こすと、若葉色の瞳が深緑に染まった。

「!?」

イカロスの瞳の先でゲシュペンストが目を見開き、びくりと体を強張らせる。

突如体から引き剥がされたような浮遊感がゲシュペンストの体を襲った。
それがイカロスの精神攻撃だと気付き、慌てて周囲を見渡すと、自分しか知り得ない幼いカロウ・ヴが暗い目をして自分を睨んでいる。

「カロウ・ヴ?」
「お前のせいで、僕はもう終わりだ」
「な、何を言ってるんですか、カロウ・ヴ?」

これは夢のようなものだと分かっていても、なぜか気持ちは焦っていた。

「事実だ。お前が私を唆さなければ、こんなことにはならなかった」

別の方向からぽつりと、共犯者と言っても過言ではない、もう死んだ――暴徒に施設を囲まれ自殺を図ったオーストラリア特殊能力国家研究所の所長の顔が浮かび上がる。
それはゲシュペンストが最後に見た通り、こめかみから血を流す無残な顔で、恨めしそうにこちらを睨んでいた。

「違う!あなただって私の力のお陰でいい思いをしたじゃないですか!」
「見苦しいぞ、ゲシュペンスト。だから、私を殺したところでいつかはばれると言っただろう?」

真横に、もう何年の前に殺したオーストラリアの連邦首相マシュー・クックの顔が浮かび上がる。
その顔は次第に肉が削げ落ち、やつれ、最後には骨となりカタカタと音を立ててゲシュペンストを嘲笑う。

ゲシュペンストは歯を食いしばり、拳を握り締める。

「愚か者が……」
「っ!」

ゲシュペンストは顔を歪め、憐みの眼差しを向けながら立つ、自分達の元帥マーシャル・ラッドを睨み返した。

口元で綺麗に髭を切り揃え、厳格な眼差しを持つ、紳士的な老人だ。
今はその瞳が責めるではなく、ただただ憐みに染まっている。

「どうしてこんなことをしてしまったんだ……」
――やめろ、その目をやめろ!?
「お前達の行いに勘付いている者達がいたのに、私は気付けなかった。私は元帥としての器が足りなかったのだな」
――今頃もう遅いんだ!
「全ては、お前達を纏めきれなかった私の責任だ」
――違う、私が勝手にやったんだ!
「責任は私が一人で背負えないものか、掛け合う。だからお前達は、安心しなさい」
――背負えるわけがないじゃないか!分かってるくせに!もう逃げるしか、生き残る道はないんだ!!あなたの言葉を信じて、カロウ・ヴに死ねと言うのか!

事が発覚した日、マーシャルが一方的に語った言葉に、心の中で漏らした言葉が溢れ出す。

「じゃあ、やっぱり、ゲシュペンストのせいだ」

折れた腕をぶら下げ、顔に痛々しい殴られた痕を鮮明に残したカロウ・ヴが、全ての音を遮るようにぽつりと呟いた。
がらんどうの感情がない瞳で、カロウ・ヴは自分を見下ろす。

「僕の為とか言って、本当はゲシュペンストは自分の力を試したかったんじゃないの?」
「違う、違います、カロウ・ヴ!」
「僕、もうすぐ死ぬんだ。ゲシュペンストのせいでね。さんざん君に誑かされて振り回された挙句、死ぬんだ」
「そんなことさせない!絶対に大丈夫、あなたはセラフィムなんです!本当はアジアだって欲しい、アジアが駄目なら別の国でも神森でも、いくらでもあなたを欲しがる!」
「ゲシュペンストが絶対に大丈夫だっていうからお願いしたのに……」
「それは、でもなんとかします!必ずカロウ・ヴだけでも……」
「やっぱり柚を目の前にして分かったよ。ヘレネスは僕が欲しかった柚じゃない。何か足りない」
「そんなはずはない!」
「役立たず」

ゲシュペンストは顔が、サッと青褪めた。
目を見開いたまま空を仰ぎ見、頭を抱えてガクガクと震えはじめる。

そんなゲシュペンストに、カロウ・ヴが不審気な視線を向けた。
次第に怯えたようにびくびくと周囲を気にし始めると、突如震えが大きくなり、ゲシュペンストは雄叫びのような叫び声をあげた。

「うっ、あ……!?うわぁぁあああ!止めろ!私は、私のせいでは!カロウ・ヴだけは!?」
「!いや、いやあ!?ゲシュペンスト、落ち着いて!お願い、私が消えちゃう!」

叫ぶゲシュペンストの背後で、ヘレネスが目を見開き、ガクガクと震えはじめる。

「ゲシュペンスト!――あんたか!?」

カロウ・ヴは、くすりと口元に弧を描くイカロスに向けて叫んだ。

カロウ・ヴが手にする薙刀をイカロスに向けて投げつけようと振り被る。

それよりも速く、空気を裂く音が鳴り響いた。
空から氷の矢が降り注ぎ、氷の矢はカロウ・ヴの腕を深々と貫き、地面へとその体を縫い付けた。

「なっ!?」
「カロウ・ヴ!」

一帯にずん……と、息苦しい重力の重みが加わる。
ヘレネスとゲシュペンストも地面へと押し付けられるように、膝から崩れ落ちた。

柚とハーデスが並びながら立ち、この戦いの終わりを感じていた。

ガルーダが静かに高度を下げ、風の翼が空に向けて消える。
イカロスは苦笑を浮かべ、若葉色に戻った瞳で苦笑を浮かべた。

そして最後にアスラとフェルナンドが砂を踏み、アジアの使徒たちが、オーストラリアからの逃亡者を囲みこんだ。





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