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丘に差し掛かり、ライラは見当たらないアンジェの姿を捜してアンジェの名を呼ぼうとした。
すると、丘の反対からアンジェの悲鳴が聞こえてくる。
「アンジェ!」
「ライラ!来ちゃダメ!!」
ライラはアンジェに何かが起こっているのだと理解するや否や、アンジェの言葉を無視してアンジェの元へと駆け出した。
丘を越えた先で、ライラは息を呑んだ。
逃げようとするアンジェに、カロウ・ヴが手にする氷の刃が振り下ろされていく。
一瞬止めてしまった足を動かし、ライラは転がるように丘を下った。
刃がアンジェの背中を切り裂き、赤い血が飛び散る。
華奢な体が宙を舞い、重い音を立てて地面に転がった。
痙攣をするように、アンジェの体が一度大きく跳ねる。
「アンジェぇぇえ!?」
ライラは顔色を変えてアンジェに駆け寄ると、体を戦慄かせた。
「アンジェ!アンジェ!!」
「うるさいなぁ……うわ、何、気持ち悪い。同じ顔?ああ、噂の双子か」
「よくもアンジェを!ぶっ殺してやる!」
「怖い怖い。それはこっちのセリフだっての!」
カロウ・ヴは笑い、平手をライラの頬に打ち付ける。
軽くライラの体が吹き飛び、ライラは地面を転がった。
転がったライラの肩を、カロウ・ヴの足が踏みつける。
痛いと思うよりは、それが好機に感じた。
自分の体を厭うことよりも、カロウ・ヴをアンジェと同じ目に遭わせることの方がよほど大事に思える。
ライラはカロウ・ヴの足を掴むと、その体に自分の力を送った。
「?」
ぴくりとカロウ・ヴが片眉を吊り上げる。
カロウ・ヴの体が退化を始め、ライラの体が成長を始めた。
カロウ・ヴは縮んでいく自分の掌に視線を落とし、口角を吊り上げてにやりと笑った。
ライラが掴む足を持ち上げると、カロウ・ヴの足がライラの頭を勢い良く踏み付ける。
何度も踏み付けると、ライラの悲鳴が絶え絶えに上がった。
カロウ・ヴの退化が止まり、再びもとの姿へと戻っていく。
ライラを踏み付ける足に更に力と体重が増し、ライラの手がカロウ・ヴの足から離れた。
「ぶっ殺すんならさっさとやってみろよ!こんな力が何になるんだよ、胎児まで戻して僕を踏み潰すつもり?弱い癖に生意気なんだよ!僕はセラフィムだぞ!」
「それがっ、なんだよ……!殺してやる!」
瞼を起こしたライラがカロウ・ヴを睨み返し、離れた手に再度力を込めると、ライラがカロウ・ヴの足を掴み歯を立てる。
軍服の厚い布越しに噛み付かれたカロウ・ヴにはダメージなどなく、カロウ・ヴは冷めた眼差しでライラを見下ろした。
高揚が覚め、ふぅとため息を漏らすと、カロウ・ヴは「もう飽きちゃった」と呟く。
カロウ・ヴが薙刀を振り上げた。
(アンジェ……)
ぼんやりと透明の刃を見上げる。
どんなに痛めつけられても、涙は出なかった。
その空に、大きな銃声が響く。
振り下ろした薙刀の動きが、ライラの目前でぴたりと止まった。
「なら、俺が相手になるよ」
静かにイカロスの声音が響く。
ヨハネスに支えられて立つイカロスが、空に向けて硝煙の立ち上る銃をまっすぐと構えていた。
「あれ、あんたまだ生きてたの?」
「お陰様でね」
新しい獲物を見付けたように、カロウ・ヴはギラギラとした笑みと共に地面を蹴ると、イカロスに飛び掛かる。
イカロスはヨハネスに借りていた肩から腕を解いて地面にしゃがむと、地面に両手を付いた。
ふわりと砂が舞い上がり、カロウ・ヴを四角い土の壁が覆っていく。
「カロウ・ヴ!」
浜辺の方から少女の声が響いた。
ヨハネスが柚かと思い振り返ると、駆けてきた少女は柚と何一つ変わらないのだが、柚の走り方と違って何処となく淑やかに見える。
まるで双子をみている気分になるが、ヨハネスには駆けてくる少女がはっきりと柚ではないと分かった。
「ヘレネス!ゲシュペンスト!」
土の壁を切り裂き、カロウ・ヴがヘレネスとゲシュペンストに駆け寄る。
ヘレネスは瞳一杯に涙を浮かべ、カロウ・ヴへと抱き付こうとして動きを止めた。
「カロウ・ヴ、腕が折れてる!」
「これくらい……!」
カロウ・ヴは真横から襲い来る砂の津波に気付き、言葉を止めて手を翳した。
氷の波に跳ね返され、砂が空中に散る。
「……ゲシュペンスト、あいつ殺してくる」
「カロウ・ヴ、今は逃げた方が……」
ヘレネスをゲシュペンストの方へと押しやり、殺伐とした目でイカロスを睨むカロウ・ヴに、ゲシュペンストは焦りの滲んだ声音で告げた。
その声を遮るように、ゲシュペンストの背後から炎が飛んでくる。
ゲシュペンストは腕で頭を庇いながら、背後へと振り返った。
息を切らせた焔がゲシュペンストを見やり、そでで汗を拭う。
その傍に不機嫌な面持ちで立つカロウ・ヴの姿を見つけると、大きく瞳を見開いた。
口角が吊り上がり、唇が声なく「見付けた」と早口に洩らす。
漆黒の瞳で獲物を見据えたまま、焔はすっと上体を下げて身構える。
その手が、鞘に収まる刀の柄を握った。
「?」
カロウ・ヴが眉を顰める。
「焔、君の気持ちもわかるけど、俺が先だよ。俺だって恨みがあるんだ」
「悪いけど、あいつにぶん殴ってやるって約束したんだ。譲れねぇな」
咎めるように告げたイカロスに目もくれず、焔ははっきりと告げて砂を踏んだ。
イカロスが諦めたようにため息を漏らすと、焔はやはりイカロスに目を向けないまま、顔から表情を消した。
唇が小さく「悪い」と呟けば、イカロスには苦笑を浮かべるしかない。
刀を抜き低く構えながら、焔がカロウ・ヴに向けて走り出した。
ゲシュペンストがうんざりした面持ちでため息を漏らし、焔に向けて手を翳す。
「あなたの相手をしている暇はないんですよ」
「俺もだ!」
焔は走る速度を上げ、ゲシュペンストが操る水を切り裂いた。
蒸発した水が湯気となって辺りを白く染める。
「くっ!?」
ゲシュペンストが慌てて周囲を見回すと、背後で金属音のぶつかり合う音が響き、ぎくりと体を強張らせた。
焔が振り下ろした刀をカロウ・ヴの薙刀の柄が受け止め、ギリギリと互いの力で押し合う。
ほぼ同時に互いの力を緩めて腕を引き寄せると、腕に力を込めて角度を変えた刃を振り下ろす。
焔の刀が纏う炎がカロウ・ヴの薙刀の柄を溶かし始めた。
カロウ・ヴが一瞬目を見開き、むっとした面持ちで眉間に皺を刻むと、焔の腹に蹴りを入れる。
蹴りをまともに受けた焔は後ろへと転がるように倒れ込みそうになり、足が砂の上を滑り踏みとどまった。
踝まで砂に埋もれながら踏みとどまった焔は、ぎりりと奥歯を噛み締めてカロウ・ヴを睨み返す。
怒りという感情が向けられていることは分かった。
だが、カロウ・ヴは直接関わりがなかった焔に、怒りの感情を向けられる謂れが理解できない。
ましてや、鋭い眼光に睨まれた程度で、自分よりも下位の使徒に慄きを感じている自分が理解できない。
大きく腕を横に振り被り、刀が叩き込まれる。
腕にビリビリと走る痺れと共に、カロウ・ヴの体が僅かに押し返された。
力任せに押してくる焔に、カロウ・ヴは刃を引く。
対象を無くしてガクリと前倒しに崩れる焔の背中に肘を叩き込み、柄で横腹を殴りつける。
焔の体がよろめき、数滴の血が砂を赤く染めた。
それでも再び顔を上げてくる焔に、カロウ・ヴはゾワリと総毛立つ。
(なん、だ?)
「てめえはっ……俺が、ぶん殴る!」
掠れた声と共に、焔が一歩、足を踏み出す。
カロウ・ヴは無意識に一歩、足を引いていた。
カロウ・ヴは指先を軽く空中に向けると、氷の結晶の刃が空中に現れて回転を始める。
焔がカロウ・ヴに向けて走り出した。
指を払うと、氷の結晶の刃が焔に向けてジグザグに揺れて滑るように飛び、襲い掛る。
空気を裂く風音が、不愉快な虫の羽糸のように響く。
焔の太刀が急所を狙うものを切り裂き、柄で叩き落とし、カロウ・ヴとの距離を縮めた。
急所から外れたものには目もくれず、焔はまっすぐにカロウ・ヴへと突き進む。
焔の腕やふくらはぎを結晶が掠め、白い軍服に赤い鮮血が散る。
痛みなど感じないのかと思うほど表情も変えず、まっすぐに自分の瞳のみを睨み据えて飛び込んでくる少年が、自分の理解を超えた存在に思えた。
カロウ・ヴは寄せ付けまいと、左手を翳して氷の礫を放つ。
焔が一瞬足を止め、バットのように刀を横に薙ぎ払う。
風圧と共に炎が宙で踊り、氷の礫を一瞬にして蒸発させた。
(僕よりも下位の奴に僕が力負けするなんて!)
ありえない、何かの間違いだと、カロウ・ヴは心の中で叫ぶ。
手に汗を握り、体が僅かに震え始めた。
熱い蒸気の中へと飛び込み、焔が刀を片手で振り下ろす。
氷の柄で受け止めたカロウ・ヴの足元から氷柱が伸びて焔の体を引き裂く。
その一本が焔の体を捕えた。
腹に突き刺さる透明の氷柱を赤い滴が伝い、ぽつぽつと砂を濡らしていく。
「ぐっ、はぁ……――こんなもん、かよ」
「ケ、ケルビムの癖に生意気なんだよ!君に僕の氷が溶かせるのか!」
「やってやる」と、焔の口元が弧を描いた。
爛々とした黒い眼差しの中で陽炎のように炎が揺れる。
それを合図に、一瞬にして焔の体を赤い炎が包み込み、焔の黒髪が揺れた。
炎に押し返されるように氷柱が溶け始める。
「そんなっ!?だって、僕は――」
セラフィムなんだと叫ぼうとするカロウ・ヴに、炎に包まれた焔がゆらりと刀を振り上げた。
脇腹から血がぼたぼたと垂れ流されている。
腕や足には裂傷がいくつも走り、立っていることですらやっとの状態に見えた。
だがそれでも、焔は二本の足でしっかりと大地を踏み、自分に向けて刀を振り上げている。
「ケルビムのくせに!?」
「それがどうした」
恐ろしいほどに落ち着いた声音が、心の底から関係ないと否定するように切り捨てた。
感情が一色に染まった瞳が、カロウ・ヴを見下ろし、刀を振り下ろす。
受け止めた薙刀の柄を、赤い炎を纏った刀が気持ちがいいほど真っ二つに両断する。
カロウ・ヴは息を呑み、目を見開いた。
カロウ・ヴの目の前に氷の壁が現れると、焔は刀を叩き付ける。
氷の壁にピシリと亀裂が走った。
亀裂が大きく走り、氷はカロウ・ヴの目の前でガラスのように粉々に砕け散る。
(こんなところで、僕は――)
嫌な汗がどっと溢れ出した。
(ケルビムなんかに)
体が後ろに傾いていく中、倒れ行く体を引き寄せるように、カロウ・ヴの胸倉を焔の手が掴んだ。
体が強く引き寄せられ、頭が強かに打ち付けられる。
閉じた瞼の中で一瞬閃光が散り、頭が割れるような衝撃が襲う。
(殺されるのか?)
焔がおもむろに刀を投げ捨て、拳を振り上げた。
鈍い音が響く。
顔面に拳がのめり込み、カロウ・ヴは顔面に強い衝撃を受けて弾かれたように首を仰け反らせる。
何が起きたのかよく分からない。
ただ、刀で斬られたわけではないことだけが分かるが、痛みに目が開けられない。
そのまま、今度は右頬に強い打撃を受け、体がそのまま横倒しに吹き飛び、倒れた。
首がもげるかと思ったが、口の中から血だらけの歯が転がり落ち、カロウ・ヴは頬を押さえたまま目を見開く。
肩で呼吸をする焔の拳も額も、カロウ・ヴだけの血ではなく、焔自身の血に赤く染まっていた。
「ってぇー!あー、くそっ!」
焔はカロウ・ヴを殴った拳を開いて、手をひらひらと振る。
憑き物が落ちたかのようにすっきりした面持ちで、焔が鼻息荒く、勝ち誇ったように息を吐く。
「よっしゃあ!見てたか、柚!」
焔が後ろへと振り返った。
その言葉に、戦いに魅入っていたイカロスやゲシュペンストがはっとしたように振り返る。
そこには呼吸も整わない柚が、何かを堪えるように強くスカートを握り締め、立ち尽くしていた。
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