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「直接出てきて……ここで何かやらかすつもりなのか?」

柚の問い掛けにアダムはただ薄い微笑みを浮かべたまま答えようとはしない。

「それともお前も、ヘレネスかゲシュペンストに用か?」

アダムはくつくつと肩を揺らして笑った。
恐ろしく整った妖艶な顔立ちは決して品のないものでもなく、その顔には常に、彼特有の慈愛に満ちた笑みが浮かんでいる。

血のように赤い瞳を細め、アダムは薄く唇を開く。

「嫉妬しているのかい?」
「なんで嫉妬なんかしなきゃ……」
「それとも、どうしていいか分からなくなった?」

アダムは顔を寄せ、囁くように告げる。
身を引きながら、自分の胸の内を言い当てられた柚は思わず口を噤んで押し黙った。

「ゲシュペンストという使徒は、私を待っているんだよ。君を殺そうとすれば私が現れると思っている」
「え?」
「コピーに、君の力を与えたいんだ」
「私の、力を?」
「そう。ゲシュペンストという使徒にとって、唯一の汚点は力までをもコピー出来ないこと。彼は完璧なコピーを望んでいる。あのコピー体を仕上げる為に、私を利用しようとしているだけだ」
「……つまり、アダムの力で私から力を奪い、ヘレネスに与えさせれば完璧なコピー体が出来上がるって言いたいのか?」

柚はアダムを睨み返す。
くすくすと涼やかに笑うが、アダムは頷かなかった。

「力は絶対に渡さないからな」
「力以外ならば、くれても構わないのかな?」

揚げ足を取り、朗らかに笑うアダムに対し、柚は首が飛んでいきそうなほどに横に振る。
アダムと話をするつもりもないのに、ついつい会話をしている自分に、柚は何をやっているのかと言いたくなった。

むすっとした不機嫌な面持ちで睨み返してくる柚に、アダムは引き際を心得ているかのように、笑いを止めて薄い笑みを残す。

「私は君から力を奪うつもりも、君以外を欲しもしない」
「じゃ、じゃあ、なんで出てきたんだよ」
「……さあ、どうしてだろうね?」

答えを返さないアダムに、柚は拳を握りしめる。

まるで子供の相手をするかのようだ。
アダムに全く対等な相手として見られていない苛立ちが込み上げた。

何も言わずに、ただ包み込むような眼差しで自分を見下ろすアダムの考えが全く分からず、泣きだしたい気分になる。

「もう嫌なんだ!最悪だ!」

声を荒げたことを後悔しながら、柚は地面を睨み付けた。

皆勝手なことを言い、勝手なことをして、勝手に開き直る。
まるで柚が悪いように、ずるいことを言い出す。
柚のことなどお構いなしに、自分達の勝手な都合を押し付けてくる。

「私達はただ、普通に、いつも通り、今のままでいたいんだ。それなのに、オーストラリアもエデンも、滅茶苦茶にする」

どうして、そんな些細な願いが叶わないのか……。
だが、そんなことを願う自分が幼いのかもしれない、最近は少し、そう思うことがある。

神森の行いを認めはしないが、今は変化を望むアダムを強く責められる気分になれない。

「その上、お前等もまた邪魔するのか」
「……それは申し訳ないことをしたね」

アダムの笑みが曇った。
申し訳ないと口にする顔で、それでも意志を変えるつもりがないと語る瞳が柚を見つめている。

柚はアダムから顔を背け、呟くように願いを口にした。

「本気で申し訳ないと思うなら、もう何もしないでくれ。どうして邪魔するんだよ、これ以上、人間と使徒の関係を拗らせないでくれ……」
「エヴァ。人間と使徒の共存など夢の上でのこと。私は使徒の為に、如いては人類全ての為に、安寧の土台を築かねばならない」
「使徒が人間を支配して?」
「いずれその日が来れば、それが正しいと誰もが理解するだろう」

顔を上げた柚に、アダムは薄く微笑む。
それは何処か影のある、寂しい笑みに感じた。

「私が申し訳ないと思うのは、エヴァ……君をアース・ピースに預けたせいで、君が苦しんでいることに対してだよ」
「預けたとか、またそういう勝手なことを――私は、私の意志であそこにいるんだ!お前の所有物じゃない!」

思わず声を荒げる柚に構わず、アダムは柚へと手を伸ばす。
音のない風のような動きで、近付けまいとする柚の両手をすり抜け、アダムの掌が柚の頬に触れて包み込む。

全身が強張り、柚は思わず呼吸を呑みこんだ。

「!」
「まだ時ではないと、少しでも安全だと思う場所に預けていたが、そのせいで君が苦しむのならば、私は今、君を無理にでも連れて帰ろうと思う」

それが冗談ではないのだと、すぐに分かった。
柚はゾクリと体を震わせる。

「いやだ」と、唇から掠れた声が弱々しく漏れた。
そんな自分の声が、恐怖でアダムと目を合わせられない自分が、心の底から嫌になる。

もう一度、嫌だと呟いた。
それは意味を替え……。

「いやだ……嫌だ!」

柚は呪文のように繰り返し、アダムの胸を両手で押し返した。
突き放されたアダムの長い黒髪が揺れ、柚は俯く視線の中で揺れる黒髪に僅かに目を見開いた。

苦笑のような、何処か子供を宥めるような笑みを浮かべ、アダムは微笑む。

「すでに運命の歯車は動き始めている。今を愛しいと思うならば、残された時間を大切にすることだ」
「なん、だよ……それ」
「知っているよ、君は強い子だ」
「馬鹿にするな!」
「おや、本当にそう思っているけれど……怒らせてしまったのならば」

アダムはくすくすと笑みを浮かべ、ふわりと音もなく柚から離れる。

「侘びとして、カロウ・ヴという使徒を殺してこようか」
「……え?」

一瞬、柚の頭の中は真っ白に染まった。
柚は目を見開くと同時に、背筋を冷や汗が伝い落ちていく感触に身震いをした。

はっきりと、頭の中に赤ん坊達のくすくすと笑う声が響く。
その声に重なるように、柚の心臓が大きく脈打つ。

"手間が省けたね、ママ"
(違う)
"ママを侮辱した奴"
(違うんだ)
"憎い、目障り……恥知らず。生きる価値もない"

柚は拳を握り締め、ギリリと奥歯を噛み締める。

「やめろ、パーベル、ソナン!」

柔らかな砂を強く踏み付け、柚は何かを振り払うように空に向けて強く咆えた。

肩で息をしながら、少しずつ、呼吸と共に肩の力を抜いてゆく。
握り締めた手から力が抜け、両手はだらりと地面を向いた。

頬を汗が伝い落ちていく、その流れに合わせるように、柚はゆっくりと顔を下げる。

「それが神森の頂点に立つアダムとしての考えなのか?神森はそんなに簡単に人の生き死にを決めるのか?私はそんなの望まない」

柚はまっすぐと、射抜くようにアダムを睨み返した。

「世の中には人が人を裁くための法がある。どんなに許せないと思っても、カロウ・ヴもゲシュペンストも、法で裁かれなきゃならない。それが人間と使徒だけじゃなくて、人が他人と共存していく上での公平なルールなんだ!私はオーストラリアという国が法を持って裁いてくれると信じる」
「君は、それでいいのかい?」
「腹も立つし許せもしない……でも、私の代わりに怒ってくれる人がいて、そうしたらなんか少しすっきりして、今は落ち着いて向き合えるんだ」

柚は小さく、寂しげに苦笑を浮かべる。
アダムはそんな柚を暫し見詰め、心得たように一度だけ、深く頷き返した。

「ならば私は、私の理由で動かせてもらうとしよう」
「なっ!何をするつもりだ!」

叫ぶ柚の声に、大きな欠伸の声が重なる。

「何を大声で騒いでいるのかと思えば……招かれざる客人がいたのかい」

静かに砂を踏み、思わずはっと息を呑むような美しさをした中性的な顔が木々の間から姿を現す。
ハニーブラウンの髪を風が玩ぶ中、ユリアは気だるげに目を細め、口元に弧を描いた。

「おや、これは珍しい顔だ……随分と久しぶりだね」

アダムはくすくすと笑みを漏らす。
そんなアダムに対し、ユリアは憮然とした眼差しを向けた。

「ユリア?え?会ったことあるの?」
「いちいちまともに相手をするから、こういう手合いはつけあがるんだよ。ほら、君はもういきな」
「え、何処に?」

しっしっと手で払うユリアに、柚が困惑した眼差しを向ける。
ユリアは面倒臭そうに柚に一瞥を向け、「オーストラリアの使徒、追わないの?」と問い返した。

「僕は走り回るのが嫌なんだ、汗をかくからね。そういうわけで、僕がこっちを担当するから、君はあっちに行きなよ」
「でも、アダムと戦うなら一緒に!」
「戦わないよ。早く行ってくれないかな?はっきり言おうか?君、うるさいし邪魔」

ユリアはすでにアダムのみを見据え、柚に視線も向けない。
柚は躊躇うようにユリアとアダムの顔を見ると、アダムに半分背を向けた。

「……分かった。本当に、一人で大丈夫なんだな?」

ユリアは無気力にひらひらと手を振る。
柚は一度こくりと頷き返し、自分と同じ気配をたどり走り出す。

そんな柚の姿が完全に消える前に、アダムはユリアへと赤い瞳を細めて声を掛けた。

「まさか、君が会いに来てくれるとは思わなかった。とても懐かしい気持ちにさせられるよ、元気そうで何よりだ」
「やめてくれないかな?そういう言い方」

素っ気なく告げ、ユリアは大きくため息を漏らす。
美しさゆえに近寄りがたい雰囲気を宿す瞳は、冷めた眼差しをアダムへと向け、口元から笑みを消し去った。





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