40
焔は周囲を見渡しながら、生い茂る木々の間を走っていた。
柚の気配が近くにふたつ感じられる。
恐らくヘレネスと柚が近くにいるのだと思うが、全く同じ気配がふたつ存在するという感覚が不気味だった。
ふいに、感じている柚の気配の内のひとつがこちらに向かってくるのを感じ、焔は警戒しながら足を止めた。
草むらが揺れ、柚が飛び出してくる。
「焔!」
柚は飛び出すなり、焔にいきなり抱き付いた。
焔は慌てながら、確認をするように尋ねる。
「柚……か?」
その言葉に柚が顔を上げ、赤い瞳が焔を見上げた。
潤む赤い瞳が、庇護欲をそそる。
何があったと聞き掛けた焔は、眉間に皺を刻み、思わず口を閉ざして引き結んだ。
「怖かった……」
「怖かっただァ?」
焔は盛大なしかめっ面で尋ね返した。
柚が顔を上げ、「え?」と問い返す。
焔は柚の襟首を掴むなり、自分から柚の体を引き剥がした。
「お前コピー体だな。ぶった斬られたくなかったら、退け」
「ど、どうして?私は――待って!」
浜辺に向かって走り出した焔に、柚は必至に追い縋る。
焔はその手を振りほどくと、草むらを掻き分けて浜辺に出た。
浜辺に横たわる柚の首を絞めていたゲシュペンストが、「やれやれ」と呟き、立ち上がる。
焔は刀を抜きながら、走る速度を上げ、ゲシュペンストに切り掛かった。
ゲシュペンストは焔の刀をかわして木々を背に立つと、肩を竦める。
背後に倒れる柚を庇いながら、焔はゲシュペンストを鋭く睨み据えた。
「参考までに教えて頂きたいのですが、ヘレネスの何がいけなかったんですかね?服も髪も記憶も口調も、全て完璧にコピーしたはずなのですが」
ゲシュペンストの後ろには、泣き出しそうな顔をしたヘレネスが立ちつくしている。
焔はそんなヘレネスを見ると、自分の後ろで噎せて細く息を吐く柚へと肩越しに視線を向けた。
「全然似てねぇーだろ。こいつ、あんなに色気ねーし」
「おやおや」
ゲシュペンストは苦笑を浮かべる。
「では、手を変えなければなりませんね。あなたにひとつご相談なのですが……」
「聞く耳持たねぇな」
「まあ、そう仰らず。決して損なお話ではないと思いますよ」
「そりゃあ詐欺師の常套文句だろ」
「あなたも、彼女を慕っているのでしょう?」
ゲシュペンストの口からはっきりと発せられた言葉に、焔の動きがぴたりと止まった。
思わず柚が目を覚ましていないか振り返る焔に、ゲシュペンストは好意的な笑みを浮かべる。
「私は彼女をよく知りませんが、随分と女性らしさに欠けた方のようですね。正直、あの勇ましさには驚きました」
「だろうな」
「折角それなりに恵まれた外見をしているのに、実に残念な女性だと思うでしょう?」
「……」
「私はこの子のように、外見のみをコピーして、性格を理想の形に創り上げることが出来るんです」
ゲシュペンストは、肩越しにヘレネスへと一瞥を向けた。
薄い笑みを浮かべたまま、ゲシュペンストは焔へと向き直る。
「彼女のコピーを創って差し上げると言ったらね、ハーデスはとても関心を持って話を聞いてくれましたよ」
「……で?あいつは欲しいって?」
「あなたはどうですか?もちろんあなただけを愛するようにすることも可能です。あなたが少しだけ、我々に協力してくれればね」
「馬っ鹿じゃねぇの?」
「はい?」
ゲシュペンストは眉を顰め、焔の言葉を聞き返す。
焔は軽やかに刀を振り上げると、ゲシュペンストに切っ先を向けた。
「てめえ等と一緒にすんじゃねぇよ」
焔はくつくつと肩を揺らして笑う。
「俺がいつ、こいつが不満だって言った?あんた等には分かんねぇかも知んねぇけど、今のままでいいんだよ。今のままじゃなきゃこいつじゃねぇだろ。俺が会った柚があんたの後ろにいるような普通の女だったら、俺はきっと好きになったりしなかったぜ」
ヘレネスが目を見開き、僅かに肩を怒らせた。
ゲシュペンストはそんなヘレネスを宥めるように一瞥を向け、穏やかな声音で交渉を続ける。
「なるほど……それは失礼致しました。では、このままの彼女を――」
「もう黙れよ。どんなに完璧にコピーしたって、偽物は偽物だ」
打ち寄せる波の音が響く。
焔の唇は弧を描いた。
揺るがない、何物にも染まらない黒い瞳がゲシュペンストをまっすぐに映し出す。
「ハーデスの奴が何て言ったか知らねぇけど、必ずどこかで奴も本人と違う事に気付く」
「それはどうでしょうね、あなたは私の力を見縊っていませんか?私のコピーはその人物の記憶から完璧にコピーします」
「それがどうした。あんた、頭で考えて人を好きになんのか?こいつを好きな奴はな、こいつの外見とか使徒だからとか、そういうんじゃなくて中身に惚れてんだよ」
焔から笑みが消えた。
「中身ってのはな、そいつが生まれてから今まで積み重ねてきた経験と周りに貰った愛情で出来てんだ。コピーでどうこう出来るほど単純じゃねぇんだよ」
ゲシュペンストの瞳から完全に笑みが消え、暗く焔を睨み据える。
どす黒い怒りがじわじわと底から湧きでるように、ゲシュペンストの足元から煙のように水が上り始めた。
ふっと、焔は嘲笑う。
「偽物で満足してる奴は、その程度で満足出来る程度しかこいつを想ってないことだろ」
顔を嫌悪に歪め、焔は大きく頭を振る。
短い黒髪が揺れて、明確な怒りがゲシュペンストに向けられた。
「こいつをこれ以上、侮辱すんじゃねえ」
低い声音が静かに空気を震わせる。
殺伐としたゲシュペンストの眼差しと、静かに燃えさかる焔の怒りの眼差しがぶつかる。
そして、ヘレネスの瞳からぽつりと大粒の涙が零れ落ちた。
「ひどい……」
「あァ?」
「ひどい……。確かに私はコピーだけど、好きでコピーとして生まれた訳じゃないわ」
両掌で顔を覆い、ヘレネスはか細い声で泣き始める。
柚のように大声を上げて泣くでもない、傷付いて泣く女の涙に、焔も思わず怒りを忘れてたじろぐ。
「カロウ・ヴは私を愛してくれたの。その程度だなんて……あなたに私達の何が分かるの?」
「え、いや、その……」
「さっき、本体の記憶をコピーしてもらってはっきり分かった。私と本体はもう全く別だわ」
ヘレネスが、責めるように焔に向けて足を一歩踏み出す。
焔は思わず一歩、後ろに下がった。
「私はコピーだから人を好きになっちゃいけないの?自分の意思を持ってはいけない?愛されちゃいけないの?」
「そ、そんなことは……」
「この姿をしているからいけないの?どうして同じ人がいてはいけないの?心は違うじゃない」
「いや……あの。なんか、悪かったって……」
「私は私なの、私はヘレネスなのよ。宮 柚になりたいわけじゃないの!」
たじろぎ、思わず謝ってしまった焔ははっと顔を引き攣らせる。
「って、そういう問題じゃねえだろ!」
「そういう問題よ!」
ヘレネスは叫び、キッと焔を睨み付けた。
底に秘めた強い意志の瞳は柚によく似ていて、思わず焔は体を竦ませる。
「あなた……最低」
「え゛!?」
まるで柚に言われたかのように、言葉が焔に突き刺さった。
涙を浮かべた瞳でまっすぐ睨み付けてくるヘレネスに対し、焔は目を泳がせる。
「だ、だからなんだよ、お、おぉ、お前になんて思われようと、俺には一切関係のないことで、動揺させようとしてんだろーけど、べ、別になんとも思わないからな!」
「私だって、あなたに何と思われようと関係ないわ!私はカロウ・ヴと一緒に生きるの!」
その言葉と同時、ゲシュペンストが静かな動きで左手を高く翳す。
地鳴りのような音が響き、焔の背後から巨大な波が鎌首をもたげて焔を見下ろした。
「!?」
焔が咄嗟に振り返り、身構える。
「おい、柚!起きろ!」
「ん……」
足で軽く肩を小突かれ、柚が小さく呻きながら上体を起こす。
そのまま俯いてぼんやりとしている柚の前に回り込むと、焔は指先に炎を纏い、刃を二本の指で挟み撫で付けた。
指先から抜き放たれていく刃は赤い炎を纏いながら刀身を太陽の下に晒す。
水平に構えられた刃が纏う炎は、一瞬、研ぎ澄まされるように気配を絶ち、次の瞬間には巨大な波を切り裂いた。
「ばっ!?馬鹿!」
一瞬にして水蒸気が立ち込める中、はっと顔を上げた柚が、顔色を変えて焔の背中に向けて罵声を浴びせる。
柚は立ち上がるなり焔に跳び付き押し倒すと、手を翳した。
巨大な爆音と共に水柱が立ち、柚が張った結界の上に水の礫が石のように落下してくる。
結界の周りを灰色掛った白い湯気が覆い尽くし、視界を完全に奪う。
困惑気味にその光景を見上げる焔に、柚は怒りに震えて怒声を上げた。
「殺す気か!水蒸気爆発を知らないのか!?」
「き、聞いたことはある……な」
「ちょっとは頭使え!!」
「なっ!?お前、フェルナンドに似てきたんじゃねぇの?」
「っ!」
柚は唇を噛み、勢いよく焔から顔を背ける。
一瞬泣き出しそうに見えた柚の顔に、焔は顔を引き攣らせた。
「え?そんなに嫌なのか?」
「そうじゃなくて……ちょっと、海水が目に沁みて……それより、ゲシュペンストとヘレネスの気配が離れていく」
「あ、ああ。そうだな、逃げられる」
「先に行ってて、後からすぐ行く」
「分かった」
焔が走っていくと、柚はそででごしごしと目を擦った。
柚は座り込んでいた波打ち際から立ち上がり、両足を引き摺るようにして木陰にまで歩み寄る。
ブーツの中に海水が入り、ひどく足が重い。
柚は大気中の水を集めて体の海水を洗い流すと、ブーツを脱いで逆さまにした。
ブーツの中から海水が音を立てて乾いた砂の上に落ち、吸い込まれていく。
ぼんやりと無気力に、その光景を見つめた。
"ママ、ママ、追い掛けて"
ブーツからぽとりと、最後の滴が落ちて濡れた砂に埋もれる。
"逃げちゃう"
"悪い奴、逃げちゃうよ"
ぎりりと奥歯を噛み締め、柚はブーツを力任せに砂の上に叩き付けた。
ぴたりと耳に響く声が途切れ、柚は疲れた面持ちに木に背を預けると、重いため息を漏らす。
(パーベルの奴、また何かやらかしてるな。帰ったらお説教してやる)
水に濡れた軍服のように、体も心も重い。
このまま目を閉じてしまいたい気分だ。
「追わないのかい?エヴァ」
「!?」
背後から聞こえた静かな声音で、柚は弾かれたように振り返り、目を見開いた。
「なんで……」
「何故、とは?」
濡れたような長い黒髪が風に緩やかに靡く。
男は血のように赤い瞳に弧を描き、いつもと変わらず慈悲深い、何処か浮世離れをした笑みを浮かべていた。
音のない動きで男は柚に近付くと、柚の頬に衣擦れの音も立てずに手を伸ばす。
柚は怯えたように後ずさり、男の手を振り払った。
「なんでここにいるんだ!アダム!」
使徒で構成されたテロ組織"神森"の宗主であるアダムは、手を振り払われたことを特に気にした様子もなく、とても本心とは思えない口調で「君に会いに」と囁いた。
―NEXT―