そんな忙しい大人たちを尻目に、東館の一階の廊下には、無邪気さを感じさせる小さな足音が小刻みなリズムを響かせていた。

長い廊下を前も見ずに、きょろきょろとせわしなく周囲を見回しながら走る少年。
羊のようにふわふわした柔らかな金の髪と青い瞳は、まさに少年を天使に思わせた。

「どーした、アンジェ」

ライアンズは走ってくる少年がぶつかる前に、軽く右手を上げて声を掛ける。
手を鎖で繋がれている焔の手まで軽くあがると、焔は横目でライアンズを睨んだ。

「あ、あのね、ライラ見なかった?」
「気配で探れないのか?」
「うん、隠してるみたいで……」
「隠してる?なんでまた」
「最近、よくそうなんだ……」

しゅんとした面持ちで、アンジェは下を向く。
悲しげなアンジェの顔に、焔はガシガシと頭を掻き、暗くなり掛けている空気を払うようにぶっきら棒に問い掛けた。

「急用か?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど……」

ライアンズが、ぽんっと俯くアンジェの頭に手を置く。
そのまま力任せにぐしゃりと頭を撫でられ、アンジェの細い首が体に埋まってしまったかのように、アンジェはおどおどと首を竦める。

荒々しさとは対極に、ライアンズに面倒見の良さそうな笑みが向けられると、アンジェが目を瞬かせながら顔を上げた。

「ちょっと待ってろ、ライラはっと……なんだ、結構近くに感じるぞ。ん?フョードルも一緒なのか?」
「フョードルお兄ちゃん?」

アンジェは首を傾げる。
その顔は何処か寂しげに、ライアンズから逸らされた。

「また、フョードルお兄ちゃんと一緒にいたんだ……」

ぽつりと、誰にともなく吐き出された言葉に、ライアンズと焔は顔を見合わせる。

ライアンズが口を開き掛けると、俯いていたアンジェは明るい顔をあげて二人を見上げた。
お陰でライアンズは言い掛けた言葉を飲み込む。

「ところで、ライアンお兄ちゃんと焔お兄ちゃんは何してるの?それ何かの訓練?」
「まあな。連繋訓練ってやつだ、お前等もよくやってるだろ」
「うん、僕達はね」
「ライアン兄達と違って、そんな落ちこぼれの訓練したことないけどね」

アンジェによく似た声質ながらも何処か冷めた声の乱入に、アンジェが身を乗り出してライアンズの後ろを見る。

ゆっくりと歩くフョードルに対し、早足のライラがライアンズの後ろで足を止めた。
アンジェと同じ顔立ちだが、アンジェよりもやや鋭い顔付きをしている為、辛うじて別人だと分かる。

「ライラ、失礼だよ……?皆は僕達みたいに生まれたときから一緒じゃないんだから」

困った面持ちで咎めるアンジェに一瞥を向け、ライラは反論の言葉を飲み込んだ。
その代わりに、素っ気なくアンジェの横を通り過ぎて肩越しに振り返る。

「アンジェ、行くよ」
「え?あ、うん。ライアンお兄ちゃん、焔お兄ちゃん、ありがとー」

すっと横を通り過ぎるライラに、アンジェが慌てたように後に続く。
アンジェの方が兄とされているが、おどおどとしたアンジェよりもしっかりとしたライラの方がよほど兄に見える。

後からのんびりとした歩調ながらもきびきびとした動作で歩いてきたフョードルに、焔は視線を向けた。
特に自分から声を掛けるということはしない焔に対し、ライアンズは軽く手を上げてフョードルに笑い掛ける。

「よお、フョードル。また訓練でもしてたのか?調子はどうだ?」
「いつも通りです。一日でも早く皆さんに追いつけるよう頑張ります」

にこりと微笑み、フョードルはその横を通り過ぎていく。

まだあどけなさが残る瞳は、黒に見えるが光に透けてアメジストを覗かせる。
以前は白かった肌も、夏空の下で日に焼けていた。

焔は無言でその姿を視線で追った。

「どうした?」
「いや……最近あいつ、なんか落ち着いたと思わねぇ?」
「落ち着いた?」
「いや、最初の頃はいつも切羽詰った感じっていうか、自分を卑下するっつーか……」
「……まあ、確かにそう言われりゃそうだな」

ライアンズは顎を撫でながら、焔の言葉に同意する。
漆黒の瞳は、ライアンズの答えもそこそこに、じっと自分よりも年下の背中を見詰めていた。

そんな焔を見下ろし、ライアンズは焔の背中を叩く。

「ま、いいんじゃねぇ?ずっと前の調子じゃ、いつ燃料切れするか分かったもんじゃなかったろ」
「……ああ、そうだな」
「あいつもここに慣れて、肩から力が抜けたんだろう。いいことじゃねぇ?」
「……ああ」

何処か上の空で、焔は頷き返す。
だがすぐに興味も失せたようにライアンズに背を向けて歩き出した焔は、ライアンズに鎖を引っ張られて引き摺り戻された。

「おいこら、それだそれ。それがいけねぇんだろーが。今、俺とお前は繋がれてんだろ、自分の意志で勝手に動くな。三歩歩くとすぐスタンドプレーに走りやがって」
「ってぇな!何も引っ張ることねぇだろ。普通に口で言えよ、口で。あんただって、さっき忘れて手あげただろ」
「そこはお前が俺の行動を先に読んで、引っ張られる前にお前も手を上げるんだ」
「やってられっか!?てめぇが俺の行動を読んで手を上げんな」
「訓練になんねぇーだろ、それじゃ!」

互いに自信の主張を譲らず、火花を散らして睨み合う。

だが、先に折れたのはライアンズだ。
ライアンズは手を挙げ、「やめやめ」と険悪な空気を一言で払い除ける。

「認める、確かに忘れてた」
「……」
「けど、俺の言う事は間違ってないからな」
「……」
「連繋ってのは、相手の行動を読んで動くもんだ。その為にこんなことして、相手のことを考えられるようになる訓練してんだろ?さっさとクリアしちまおうぜ?」
「……けっ」

焔が横を向き、口を尖らせて吐き捨てた。
ライアンズの顔がぴくりと引き攣ると同時に、焔の頭に拳が降り注ぐ。

「"はい"だろ、"はい"!」
「いっ――てぇだろーが!?いっぺん死ね!」
「おお、やろうってのか?いいぜ、泣かせてやる」
「上等じゃねぇか。泣きをみんのはそっちだ!」
「あっれー。楽しそうなことしてんじゃん。何々?俺も混ぜて」

つかみ合った二人の頭を、褐色の掌ががしりと鷲掴みにした。
その瞬間、二人の表情が氷り付き、互いの胸倉を掴んでいた手からするりと力が抜ける。

首の筋肉を軋ませながら振り返ったライアンズと焔は、無邪気な笑みを浮かべる刺青だらけの顔を見て、悲鳴を呑み込む代わりに冷や汗を流した。

「ガ、ガルーダ尉官?お仕事はもう終わったんですか?」
「終わってないけどさ、なんか下が賑やかで楽しそうだったから、ちょっと気分転換に混ぜてもらおうかと思ってさ」
「な、なな、なんも賑やかじゃねぇし。俺達、忙しいし」
「そうそう、そうなんですよ。ほら、俺等訓練中なんです」

引き攣った顔で、ライアンズは焔と繋がれた手錠をガルーダに見せる。
その隣で、焔がこくこくと何度も頷く。

この時ばかりは、二人の息は見事にひとつとなっていた。

冬でさえ軍服の胸元を大きく開けて寒々しい格好で歩いているガルーダだが、夏真っ盛りの今、ガルーダはほぼ上半身は裸だ。
顔のみならず体にまで及ぶ刺青と猫のような鋭い琥珀の瞳が近寄りがたい印象を与えてくるが、発する表情と言葉は至って微塵も悪意を感じさせない無邪気そのものだ。

「ああ、それやってんだ。俺もライアンとやったよなぁ」
「……そ、そうですね」
「ライアン、もう連日号泣してたよなぁ」
「……そ、そう、でしたっけ?」
「教官に駄目だしされて一週間追加って言われたとき、いきなり失神されてビックリしたなぁ」
「……そ、そうですか」

その頃を思い出したのか、心なしか遠い眼差しに涙を浮かべているライアンズを、焔は引き攣った顔で見上げる。

何があったのだろう……。
だが聞かなくても大体予想はつく、あえて聞きたくない気もする。

その後、散々いらぬ過去を暴露してガルーダが去っていった廊下には、夏にもかかわらず冷たい木枯らしが吹き荒んでいるかのように、焔の心をもの寂しくさせた。

なんせ、ライアンズが廊下の隅で小さくなっていて対処に困る。
一人隅で膝を抱えて鼻を啜るライアンズに、焔は引き気味に声を掛けた。

「泣くなよ……」





東館の一階の廊下を道なりに行けば、訓練室が備え付けられている。
さらに建物を出てその先にまっすぐ、一キロ程進むと、小さな菜園があった。

菜園なだけあり、水道やホースも設置はされているが、肝心の木や植物には手入れがされておらず、ほとんど自生したような木や苗が並んでいる。
その隣の森からは鬱蒼と生い茂る何処か暗く陰気な雰囲気が漂っており、あまり人は寄り付かない。

まるで喧騒を吹き飛ばすような静寂の中。
青年は空に向けてふぅと、息を吐く。

寒いわけでもない、真夏の空に白い息。
その白い煙は、清々しく青い空に消えていった。

ぼんやりと、儚い一瞬を意味もなく見詰める。
指に摘むように持つ、くたびれた煙草から灰が落ちてゆく。

その背後から、芝を踏む音とのんびりした声が響いた。

「なんでしょーね、ここ。とっても体に悪そうな空気が充満してますねー」

わざとらしい声だ。
孫 玉裁は横目で視線を向け、ひょっこりと顔を出したフランツ・カッシーラーを見た。

フランツは細い体を曲げ、腰の後ろで手を組みながらにこりと微笑む。

「あ、ここに居たんですか、玉裁。教官が呼んでますよ」
「おっさん?知らねぇよ」

大体用件は見当が付く。
先程、玉裁のいる場所からも、森が燃えているのが見えた。

どうせ森を直せというのだろう。
誰が暴れたのかは知らないが、自分の力を便利に扱われては堪らない。

「そういえば玉裁」
「あん?」
「フョードルと何かありました?」

玉裁は煙草に口を付けたまま、その質問の意味を考え込むように黙る。

煙草の先で、チリチリと赤く燃える灰。
吸い込む息が続かなくなると、玉裁は煙を吐き出し、自分が座る木で煙草の先端をもみ潰した。

「ねえよ」
「そうですか。ならいいんですけどね」

フランツはにこにこと笑みを浮かべながら、玉裁をじっと観察するように見ている。
そんなフランツの視線に気付いた玉裁は、眉間に皺を寄せてフランツを睨み返す。

「何見てんだよ、気持ち悪ィな。吸いてぇのか?」
「まあ、経験してみたい気持ちがなくはないですが、遠慮しておきます」
「意気地ねぇな。ま、やんねぇけど」
「はは。玉裁が煙草吸ってたことは内緒にしといてあげますから」
「あァ?」
「貸しひとつですよ、忘れないでくださいね。じゃあ、僕はちゃんと教官の言葉を伝えましたからー」

手を振りながら、フランツは走り去っていく。

(何が貸しだ。俺はそんなもの律儀に恩に着るとでも思ってんのか、あの馬鹿)

ミルクティーのような色合いの柔らかな髪が見えなくなると、玉裁は「けっ」と吐き捨てた。

「ガキはいいねぇ、気楽で」

小馬鹿にした呟きを、消した煙草の煙代わりに吐き捨てる。

だが彼は、自分が煙草を吸っていることを報告しないという確信がある。
なんだかんだと彼らに甘えている自分には気付かないふりをして、玉裁は薄暗い森の奥へと姿を消す。

古びた水道から、ぽとりと水が垂れ、その下で苔が張ったバケツに吸い込まれた。
空を映す水鏡は波紋を描いて歪む。

辺りを照らす太陽を通り過ぎていく雲が覆い隠すと、ちょうど良い涼しさを恵んでくれた。

いつからか風が少しずつ強さを増し、鳥達が慌てたように巣へと戻っていく光景が見られる。
蝉の鳴く声も、隠れた太陽と共に音を消していた。

さきほどまでの熱気を含んだ風が冷気を含み、木々の間を走り深い緑の葉を揺らす。
風に追い立てられるように雲は空を走り、再び太陽が顔を出すと、また別の灰色の分厚い雲が太陽を隠してしまう。

風が薄暗い森を抜けた先にぽつりと――その存在を忘れ去られたかのようにぽつりと――木造の古びた建造物が寂しげに佇んでいた。
それは木造の古びた病棟で、鉄格子の嵌められた窓から冷たい風と木々のざわめきを忍び込ませてくる。

ベッドに眠る青年の亜麻色の髪が揺れ、先程までずっと太陽に照らされて火照った頬を、今度は冷たい影が不健康に染め始めた。
青年は起きる様子もなく固く瞼を閉ざしたままだ。

木の上には何羽ものカラスが群がり、その内の一羽が大きく嘶く声を合図に、灰色掛った空へと飛び立っていった。

ぽとり……と、地面に一粒の染みが広がる。
病棟の入口で欠伸を噛み殺していた衛兵がその正体を求めて空を見上げると、空はすっかり不機嫌な鋼色に染まり、地面を射抜くように大粒の雨雫が次々と地面に向けて落ちてくる。

ぽつりぽつりと、地面を叩く音。
それは次第に数を増し、あっという間に大粒の雨が横殴りに降り注ぎ、地面を深く染め上げて聴覚から視界までをも奪っていく。

太陽の光の代わりとばかりに、空に走るのは思わず身を竦ませたくなる閃光の稲妻。
遅れて轟く轟音に、衛兵の男は僅かに首を竦めて同僚に声をかけた。

「時雨か……」
「あー、ちょっとは涼しくなるだろ」

暑さにうんざりしていた男達は、覇気のない様子で言葉を交わして肩を竦めた。










その日、アジア帝國は個人的な問題はあれど、これといって大きな事件のない――よって、やはり平凡というべき一日を終えた。
それはアジア帝國に限らず、オーストラリア連邦、アメリカ大陸合衆国、ユーラシア連盟、アフリカ共和国、人が住まう全ての地において同様であり、その災いも同様に全ての世界に降り注いだ。

アメリカ大陸合衆国、ワシントン時間にて時を告げる時計が昼の十二時を指した時。
それは人類にとって始まりの時。

世界中のパソコンが一斉に、電源を落としたように真っ暗に染まり、数秒の後、モニターに光が灯った。
カタカタとモニターに映し出される無機質な文字の列。

"親愛なる全人類に告ぐ"



"我々の名はエデン"





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