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ふいにフェルナンドの頬を、冷気を含んだ風が撫でる。
手摺から身を乗り出していたフェルナンドは、青い海面がこちらに向かって白く凍りついてくる光景に手摺から身を起こした。

直前で氷の波が隆起し、フェルナンドはその波の頂上にカロウ・ヴの姿を捉える。
カロウ・ヴの顔にはいささか余裕が感じられず、利き腕はだらりと下がり、血を滴らせていた。

氷の津波の頂上でカロウ・ヴがフェルナンドに気付くなり、余裕のある笑みを浮かべる。
フェルナンドは唇を噛み締め、カロウ・ヴを睨み返した。

(カロウ・ヴ!?冗談じゃない、宮でさえ抑えきれないものを、僕じゃ完全に艦体がひっくり返されるぞ!)

氷の津波に乗ったままカロウ・ヴは笑いながら護衛艦と護衛艦の間をすり抜け、イージス艦の真横を走り抜けると、さらに後方の護衛艦を蹴散らすように、最終防衛ラインのスールー諸島に向かっていく。

その衝撃に氷の海面が大きく揺れ、アジアの艦隊は左右に傾き揺さぶられた。

「申し訳ありません、突破されました!カロウ・ヴは最終防衛ラインに向かっています!」

下がり始めていた護衛艦の前方が氷の波に持ちあげられて傾き、ギシギシと軋みながら浮き上がる。
フェルナンドは氷を伝って護衛艦の方へと飛び移ると、手を翳した。

途端にずしりと掌を伝い体に重みが加わる。
それだけではなく、カロウ・ヴはすでに大気中や海水に有り余る自分の力を送り込んでおり、フェルナンドには操れる力の方が少ない。

護衛艦の背後から、二本の波を操り伸ばし、フェルナンドは必死に津波を支えた。

押し合う氷同士から、氷の結晶が雪のようにはらはらと散ってくる。
護衛艦の隊員達が怯えたように丸まっていた。

デッキの上で踏み止まるフェルナンドの体が、力に押されるように滑り、デッキの壁に当たって止まる。
翳す腕に血管が浮かび上がり、関節がギシギシと悲鳴をあげた。

「ぐっ、うっ!」

頭上で津波を支える二本の氷に亀裂が走り、氷の塊が海上や艦の上に落下して大きな音を立てる。
亀裂は更に走り、一柱がバリバリと音を立てて崩れ落ちた。

こう着状態が一瞬にして崩れる。
もう一柱では到底支え切ることが出来ずに崩れ始め、艦が大きく傾いた。

頭上に影が掛り、フェルナンドは一瞬、落下してきた氷の塊かと息を呑んだ。

だがそれは人だった。
思わず安堵してしまう自分が嫌になる。

重力を感じさせない動きで、アスラが隣に音もなく降り立った。
アスラが艦に戻るなり、足元からふわりと浮遊感が体を包み、落下する氷の粒が空に押し戻されていく。

「すまん。お前一人か?」
「はい……宮は、その、海に落下し、ハーデスは宮を追って姿を消しました」

アスラは肩越しに島のある方へと振り返ると、小さくため息を漏らす。

顔や軍服の所々に裂傷はあるものの、傷のほとんどは塞がり掛けていた。
アスラの髪からはらはらと氷の粒が落ちるが、それは落ちきることはなくふわふわと浮いていく。

今度は唸るような風音が響き、巨大な鳥かと思えばガルーダが勢い良く落下してきた。
その衝撃に落ち着き始めていた艦が再び揺れ、アスラとフェルナンドを苛立たせる。

「ごめーん、遅くなった。なんかさ、海に何人か落としちゃったみたいでさ、回収すんの苦労したー」
「ガルーダ。あちらの艦に乗っていた他の使徒はどうした?」
「ああ、えっと、モアイとゲシュペンスト、ヘレネスはハーデスを操ってこっちに来たし、あー……そういや、残りの二人、どうしたっけ?」
「投げ捨てた軍服と一緒に捜してこい。国内には一歩たりとて入れるな」

アスラの声が僅かに苛立ちを含んでいた。
フェルナンドは自身の失態に奥歯を噛み締め、海を睨んだ。





砂浜の打ち寄せる波はいささか荒々しく、風も穏やかとは言い難いものになっていた。
それでも空だけは清々しい青さで、雲ひとつない。

波の間から這いずるように、人影がもう一人を支え、砂の上へと這いだしてきた。

ムスターファはイエンを砂の上に下ろすと、荒い呼吸の間から言葉を紡ぎだす。

「しっかりしろ、イエン」
「すまない、大丈夫だ……ここは?」

イエンは力のない声で呟き、周囲を見渡した。
ムスターファも同様に周囲を見渡し、小さく首を横に降る。

「分からない。近くの島だろう……もしかしたら、このままうまく逃げられるかもしれない」

ムスターファの言葉に、イエンの顔にも僅かに生気が浮かぶ。

国に帰っても、恐らくは殺される。
それを受け入れると残った仲間達は、本当に愚かだと二人は思っていた。

(こんなところで死んでたまるか……親に貰った、大切な命なんだ)

自分達が罪を犯したわけではない。
カロウ・ヴ達が勝手にやったのだ。
黙認していたとはいえ、共に罪を償い、命を差し出すほどお人よしではない。

彼等が逃げると言うから、ばらばらに逃げるよりはセラフィムのカロウ・ヴと一緒の方がと考えて自分達も同行したが、彼等に付き合っていたら命がいくつあっても足りない。
もとより途中で別れるつもりだった。

自分達も彼らを利用したのだから、恨み事など言うつもりはないが……。
彼等はそんな自分達の考えを見通し、捨て駒として利用したのかもしれない。

「とりあえずどうする」
「金なら、人質から集めたのが少しはあるぞ」
「ほとぼりが冷めたら国に帰りたいが……」
「そうだな」

二人は顔を見合わせ、力なく苦笑を浮かべ合う。
少なからず彼等は今、僅かながら差し込んできた希望の光を感じていた。

木陰で人影がゆらりと揺れ、長い裾を引き摺るように足を踏み出した。
長い黒髪が風に靡き、かんざしが涼やかに揺れて響く。

姿を現したのは、男だった。
軍人でもない、現地の住民とは到底思えない。

男は血のように赤い瞳に、慈悲深く艶やかな弧を描いて微笑んだ。





波が足元を離れていく。

砂浜に描かれるゲシュペンストの足跡を、ヘレネスは親を追うように追い駆ける。
誰もいない砂浜をさくさくと音を立てて歩いていると、少しずつ不安が落ち着き、肩から力を抜けていく。

ふいにゲシュペンストは足を止め、ヘレネスへと振り返った。

「体は大丈夫かい?」

ヘレネスは小さくこくりと頷き返す。

「だいじょうぶ……。ゲシュペンストは?顔から血が出ているわ」
「大したことはないよ」
「イエンとムスターファ、大丈夫かしら。モアイも……置いてきてしまったわ」
「君が考えることではないよ」
「でも……カロウ・ヴも……このまま逸れてしまうなんてことにはならない?」
「ならないよ」

静かに俯き、ヘレネスは両手を強く握り締めた。

ゲシュペンストは再び歩を進めると、海へと近付いていく。
ヘレネスはその後を追い、僅かに体を強張らせた。

「本体……」

打ち寄せる波際に、柚が倒れている。
眉間に皺を寄せたまま、気を失っている柚は目を覚ます気配がない。

「今のうちに君に足りない、彼女の記憶をコピーする」
「記憶をコピーしても、私とカロウ・ヴが過ごした記憶は絶対に消えない?」
「大丈夫。安心して、さあ」

ほっと安堵に肩から力を抜くと、ヘレネスはこくりと頷き返してゲシュペンストに歩み寄った。

しゃがみ込むゲシュペンストの隣にしゃがみ込み、ヘレネスは差し出された手に額を重ねる。
ゲシュペンストはもう片方の手で柚の額に触れると、三人をゲシュペンストの力が包み込んだ。

柚の記憶が流れ込んでくると、ヘレネスは僅かに肩を揺らし、ぼんやりと虚空を見上げた。

他人の記憶と自分の記憶を同時に有するのは、不思議な感覚だ。
だがはっきりと、ヘレネス自身の記憶は自分のものだと分かるほど強く、心に残っている。

「終わったよ、ヘレネス」
「はい……」
「後は、服と髪だ」
「変えても、カロウ・ヴはすぐに私だと分かってくれるかしら……」
「心配はいらないよ」

不安気なヘレネスに対し、ゲシュペンストは苦笑を浮かべる。

ふいにゲシュペンストの笑みが凍り、ヘレネスも背後へと振り返った。
ゲシュペンストはヘレネスの顔を見て、眉を顰める。

「誰か来るな、誰の気配か分かるかい?」
「西並 焔。本体がよく一緒に行動している仲間の一人」
「引き込めるかな……」
「分からない。でも本体の記憶を見る限りでは、彼は多分、本体のことが好きだと思うの」
「それは好都合だ。時間を稼ぎなさい、私が本体を始末する」

こくりと、緊張した面持ちでヘレネスが頷く。
そのまま茂みへと走っていくヘレネスを見送り、ゲシュペンストは小さく小さく笑った。





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