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その耳に、ふいに「信じるよ」と呟くように告げた柚の柔らかな声が響いた気がした。

耳鳴りのような音が近付き、遠ざかっていく。
はっと瞼を起こすと、真っ白な音のない世界に、自分と柚が時を止めたように立っている。

先程と変わらない無防備な姿で人形のようにぴくりとも動かずに立つ柚から、穏やかな風が吹いてきた。
思わず目を細めると、柚の中からふわりと小さな両手を広げたパーベルが姿を現す。

"信じて、パパ"

思わず、こぼれんばかりに目を見開いた。
パーベルの小さな手が、硬直するハーデスの頬に触れる。

"ママへの自分の気持ちを信じて"

強い風が吹き、パーベルの姿が消えると同時、白い世界が鮮やかな空の青と海の青に塗り変わった。
目の前で無防備に立つ柚の姿が瞳に飛び込む。

(そうだ)

腕が再び動き始めた。

(ジャンを傷付けた時のような想いはもう嫌だ)

柚が首を竦めるようにして目をきつく閉ざす。

(なにより俺は、柚を傷付けたくないんだ!)

鼓動が耳に届く。

震える指に力が籠り、鎌の柄を右手が強く握り直し、ハーデスは腹の底から声を上げてた。
獣のような叫び声が海上に響き、ビリビリと大気を震わせる。

柚がぎょっとした目を開くと、そこからは忽然とハーデスの姿が消えていた。

遠くでどさりと、何かが倒れる音がする。
ゆっくりとそちらに目を向けた柚は、肩で大きく呼吸をしながら血に濡れた鎌を握りしめて立つハーデスと、その足元に血塗れで倒れるモアイの姿が飛び込む。

「ハーデス!」

柚は歓喜の声をあげる。
ハーデスは僅かに顔を上げ、長い前髪の間から血走った瞳を柚に向けると、すぐさま体の向きを変えてゲシュペンストに切り掛かった。

ゲシュペンストはハーデスの大鎌を水で受け止めると、鎌を引き寄せて口角を吊り上げる。

「よく分かりましたよ。あなたは彼女を愛しているんですね?」
「だったらなんだ!」

ハーデスは腕を引き寄せ、再び大鎌をゲシュペンストに叩き付けた。
接触した水と大鎌の間に固い音が響き、僅かに水が飛び散る。

「あなたにも、あなた専用の彼女を創って差し上げてもよろしいんですよ?」
「は?」
「彼女は所詮、アスラ・デーヴァのものでしょう?あなたの手には入らない。分かっていても彼女が欲しいでしょう?」
「ハーデス、聞くな!」
「私なら、あなたの求めるモノを創りだせる」

一瞬ハーデスの動きが止まり、ハーデスは柚へと視線を向けた。

「記憶だってコピー出来るし、性格だって変えられる。このヘレネスのように、あなただけを愛する者にすることも出来るんですよ」
「実にくだらない」

とんっと空中を蹴る音と共に、フェルナンドの冷ややかな声が降る。
氷の弓を構えたフェルナンドがゲシュペンストを捉えて見下ろすと、指先に繋がる五本の氷の矢がゲシュペンストとヘレネスに向けて放たれた。

ゲシュペンストが手を翳し、水の結界を張る。

「ハーデス」

フェルナンドの鋭い声にはっとしたハーデスは、腕を大きく振りかぶった。
水が音を立てて氷り付き、ハーデスの大鎌が氷付いた壁を切り裂く。

「どりゃあ!!」

ハーデスの頭上を飛び越え、勢いを付けた柚のとび蹴りがゲシュペンストの顔面にめり込む。
ヘレネスが口元を押さえ、小さく悲鳴を上げた。

斜め後ろへと倒れていくゲシュペンストを踏み台に、すとんと軽やかに着地した柚は、すっきりした面持ちで胸を張り、満足気に鼻を鳴らす。
フェルナンドはデッキに下りると水溜りを踏み、ゲシュペンストに近付く。

ゲシュペンストはよろめきながら上体を起こし、吹き飛んだ眼鏡を手探りに捜したが、途中でどうでもよくなったのか諦め、自分達を囲むアジアの使徒達を睨み返した。

派手な外見のカロウ・ヴに比べれば地味過ぎるように思えてならない濃い紺色の髪に、眼鏡に隠れていた色素の薄い青い瞳。
フェルナンドは僅かに眉を顰め、何かを言いかけたが、柚が先に声を上げた。

「ゲシュペンストの考えか知らないが、どうしても理解出来ない。私とヘレネスが入れ替わったところで、必ずすぐに気付かれることは分かってるだろ?こんなことは無謀すぎる」
「何故気付かれると思うんです?私のコピーは完璧に記憶までコピーしますよ」
「人間ならば、だろ。ゲシュペンストのコピーで使徒の完全なコピーは出来ない」
「なにを勘違いしているのかは知りませんが……」
「いいや、勘違いではないはずだ」

血が滴る鼻と口を押さえながら告げるゲシュペンストの言葉を、柚はきっぱりと斬り捨てる。

「まず、ヘレネスが水の力を一度も使っていない。次にゲシュペンストは本人を連れまわすよりも安全なはずなのに、ハーデスのコピーを創らなかった。正直ハーデスの力は厄介だし、私だったらハーデスを殺してコピーを使うか、ハーデスより強い尉官をコピーした」
「なるほど、宮にしては冴えてるじゃないか。気配までコピー出来ても肝心の中身がない。コピーの力は使徒の力まではコピー出来ないということか」

フェルナンドが頷き、顎に軽く手を添えてゲシュペンストに寄り添うヘレネスを見下ろした。
思わず柚伝いに見てしまった光景を思い出し、フェルナンドは顔を背けて咳払いを挟む。

「使徒の力は、特殊なものであれば特殊なだけ条件があるって教官に教わってる。例えゲシュペンストの力を使っても、ゲシュペンストの力以上のものを新たに創り出すなんて、絶対に無理なんだ」

柚は力を込めて否定の言葉を告げると、ヘレネスを複雑そうに見下ろした。

「だからヘレネスはただ私と同じ姿をしているだけで、私とヘレネスが入れ替わって、ヘレネスがどんなに上手く私を演じたところですぐにバレる。そんなことがわからないとは思えない、本当の目的はなんだ?」

デッキの上には、しん……と静寂が訪れる。

離れた海上では、今だ絶えず衝撃音が響いていた。
強い風が柚の髪を揺らす。

ゲシュペンストはくつくつと肩を揺らして笑うと、忌々しげに片手を上げて肩を竦めた。

「例えそうでも、あなたさえ死ねばアジアの面子は丸潰れになるんですよ」

ハーデスがむっとした面持ちで眉を吊り上げる。
フェルナンドはただ無言で、血塗れの顔で笑うゲシュペンストを見下ろす。

「そんなことを他所の国には知られたくないでしょう?現に、アジアはコピーに気付いていたようだが公表はしていない。あなたが死んで、ここに同じ姿をしたコピーがいれば使わざるを得なくなるでしょう?そして、コピーは私になにかあれば消える。一度死んだ人間を新たにコピーとして生み出すことは出来ない」

にやりと、ゲシュペンストの口角が吊り上る。

「誰も私に手出しは出来なくなるというわけですよ」

ヘレネスは顔を俯かせた。

「そして全ては私の言いなりとなる」
「全ては自分の為か?」
「いいえ?カロウ・ヴが安全に暮らせるならば、私はそれでいい」
「つまり、あなたの行動の全ては、あくまでもカロウ・ヴの為ということですか」

柚に代わりフェルナンドが問い掛けると、ゲシュペンストは静かに目を細めて小さく頷き返す。

だが、どうにも腑に落ちない。
ハーデスがぼそりと疑問を呟いた。

「……なんでそこまでカロウ・ヴにつくすの……」
「いけませんか?」
「そういう訳じゃないけど……」
「私には分かるんですよ。あの子と私の間にある繋がりが」
「親子か!」

柚が驚いたように口走る。

途端にハーデスが「え?」と困惑気味な面持ちで柚を見て、フェルナンドの顔が引き攣った。
僅かに顔を背け、ゲシュペンストは眼鏡を押し上げながらぼそりと呟く。

「私、老け顔のつもりではありませんが、今年で三十二です」

フェルナンドが勢い良く柚を睨み、首を横に振りながら罵る。

「馬鹿、宮、馬鹿っ!どう考えても兄弟だろ!君は思い付きで喋るな!」
「ハーデス、フェルナンドが私のこと二回も馬鹿って言ったー!」
「うん……でもごめん。俺も親子はないと思ったよ」
「うわぁーん!ハーデスまで馬鹿にする!」

嘆く柚に、ハーデスがおろおろと言葉を探す。

一瞬の隙を逃すことはなく、ゲシュペンストの手はベルトの下に滑り込み、次の瞬間にはその手に小さな小瓶を握っていた。
フェルナンドがはっと息を呑む。

「さて、くだらない話は終わりにしましょう。水属性はね、こういう力の使い方が出来るんですよ」

ゲシュペンストが柚達に向けて小瓶の中身を降り掛けた。

「まずい!」

フェルナンドが氷で結界を張り、柚も咄嗟にそれに倣う。

礫のような水の粒が一斉に二人の結界を叩き付けた。
結界を逸れて手摺りに当たった水の礫は手摺りを容易く溶かす。

フェルナンドが呻き声をあげて顔を歪めた。
柚は結界をフェルナンドまで伸ばすと、柚の後ろにいたハーデスが手を抑えて膝をつくフェルナンドを覗き込んだ。

「大丈夫?どうしたの?」
「軽い火傷だ……奴は大気中に硫黄酸化物か何かを蒔いて、水を強力な酸性にしたんだ」
「じゃあ、急いで洗い流さないと」

柚はフェルナンドに向き直り、その手に大気中から集めた水を掛けた。
攻撃が止んだその時、三人の耳に大きな水音が響き、ハーデスが手摺りから身を乗り出して声を上げる。

「ゲシュペンストとヘレネスが海に飛び込んだ!?」
「まずい、逃げられる!」
「ま、待て!宮!」
「え、でも急がないと……」

柚が振り返り、フェルナンドの制止をじれったそうに足踏みをする。

フェルナンドは言葉を続けようとして、はっと息を呑んだ。
ハーデスが身を乗り出しながら柚に向けて叫び、手を伸ばす。

「柚、後ろ!」
「え?」

大波が艦を襲う。

柚は振り返り様に腕を翳して津波を押し留めると、その耳に酷く耳障りな高音が響いた。
倒れた血まみれのモアイが、最後の力を振り絞るように笛を吹くというよりは鳴らしている。

「耳が痛いぃー!」
「くっ……」

ハーデスが片耳を押さえながら空間を飛び、モアイの腕から笛を蹴り飛ばした。
笛は手摺をすり抜け、海の中へと吸い込まれていく。

モアイは勢い良く弾かれて転がっていく笛に力のない視線を一瞬向け、くつくつと肩を揺らして笑った。

「もう、遅い……」

何がとは、聞く気になれなかった。

柚とフェルナンドの方へと振り返ったハーデスは、思わず目を瞬かせ、ぼんやりと立ち尽くしているフェルナンドに駆け寄った。
どこを見渡しても、デッキの上に柚の姿がないのだ。

「フェルナンド、柚は?」
「え……?」
「柚は何処!」
「みや……宮!」

弾かれたように目を見開いたフェルナンドが、頭の痛みに顔を顰め、再び目を見開く。

「そうだ……宮を……ぼ、僕が、突き落とした……のか?」

フェルナンドは困惑した面持ちで自分の掌に視線を落とした。

ハーデスは目を見開き、息を呑む。
手摺から身を乗り出して海面を見回し、手摺を放すと音もなくその場から姿を消した。





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