37


袈裟掛けに、鎌が振り下ろされる。
柚は頭が真っ白になり、海水へ注いでいた力が途切れた。

艦が再び波に揺られ始め、船体が傾いた瞬間、柚は濡れたデッキに足を滑らせた。
力が途切れたお陰でハーデスもバランスを崩し、振り下ろした切っ先の軌道も逸れる。

柄が柚の額を打ち付け、鈍い音と共に、柚はデッキの上を転がった。

海兵達が動揺の声を上げる中、柚は痛む頭を押さえながら床に手を付き、上体を起こす。
額から肌を撫でるように落ちた赤い液体に、柚はただ疑問符が浮かぶばかりだった。

「え……と?ハー、デス?」

顔を起し、鎌を振り払った姿のまま立ち尽くすハーデスを見上げる。
青褪めてガタガタと震えるハーデスを見ると、柚はますます困惑する。

「大丈夫か?顔真っ青だぞ?」
「お、俺じゃなくて、柚がっ……血が出てるよ」
「え?あ、本当だ。私血が出てる……」

柚は額に触れ、手にぬるりと赤い血が付くと、ぼんやりと呟く。
次の瞬間、瞳をカッと見開くと、柚は雄叫びを上げた。

「ひぁぁぁあああ!血、血!いっぱい出てる!」
「だ、だだ、だから言ってるでしょ!」

青褪めて大声を上げた柚に釣られるように、ハーデスがおろおろと叫ぶ。

『宮、そっちにハーデスが行っていないか!』
「いる……。とりあえず、ちょっと切るわ」
『あ、待て!お――』

柚はフェルナンドとの通信を切ると、気だるげにハーデスを見上げた。

そのハーデスの肩がぴくりと震え、ぎこちない動きで足が一歩前へと踏み出す。
ハーデスは体を戦慄かせ、柚に揺れる瞳を向けた。

「ま、また……柚、逃げて、お願いっ」
「はあ、えっと、とりあえず状況の説明を」
「無理!」

きっぱりとしたハーデスの声と共に、ハーデスは鎌を薙ぐ。
柚は頭を下げて鎌をかわすと、体を起こしデッキの上を滑りながら逃げ出す。

(暴走してるわけじゃないとすると……)

逃げ出した柚は、初めてハーデス以外の人物がいることに気付いた。
一度見たことのあるゲシュペンストと、逃亡者のリストにあったモアイという青年、そしてゲシュペンストの後ろに隠れる少女の顔は見間違うはずがない。

「ヘレネス!?」
「!」

柚は思わず我を忘れ、憎しみを込めてその名を叫んだ。
ヘレネスはびくりと怯えたように肩を揺らし、ゲシュペンストの軍服の裾をきゅっと握る。

アスラかフェルナンドが指示をしたのか、艦上にサイレンが響き、オペレーターがデッキにいる者達に艦内に避難するようにと呼び掛けていた。
わらわらと艦内に逃げていく海兵達に目もくれず、柚は叫んだ。

「どけ、メガネ!!」

柚は叫びながら、一直線にヘレネスへと向けて走り出す。

ゲシュペンストを守るように、ハーデスが空間を跨ぎ姿を現し、鎌を振りかぶる。
柚は転びそうなほどに上体を前に屈めて鎌の軌道をすり抜けると、手で床を弾いて倒れ掛けた体を起こし、右足を大きく踏み出してハーデスの横をすり抜けた。

「ゆ、柚!駄目だよ、落ち着いて!」

行動と言動に統一性のないハーデスの声が背中に掛るが、柚の瞳はただヘレネスだけを睨み据えている。

(柚、駄目!)

自分の声が届かない。
ハーデスは胸が締め付けられる思いと共に、焦りに震えた。

モアイは笛を吹きながらゲシュペンストに視線のみを向けると、ゲシュペンストは無言で頷き手を軽く翳す。
手の先に小さな竜巻状に水が集い始め、次第にそれはドリルのような刃となる。

柚も走りながら右手を水平に走らせると、手を薙いだ。

柚が撫でた空気中の水が刃となり、ゲシュペンストとヘレネスに向けて風のように襲い掛かる。
ゲシュペンストも腕を薙ぐと、刃が柚に向けて飛ぶ。

三人の間で水と水がぶつかり合い、破裂音を立てて相殺した水がデッキに飛び散る。

その場で足を踏みしめた柚の腕の動きに合わせ、降り注ぐ雨飛沫が集い始めた。

その背後にハーデスが現れ、鎌が力任せに勢い良く振り下ろされる。
柚は横に飛ぶと、振り下ろされた鎌が動きを止めず、軌道を変えて横薙ぎに走る。
その軌道を目で捉えながら、柚は踵の向きを変えて更に背後に飛んだ。

「邪魔するな、ハーデス!」
「ごめん!でも、どうにもならないんだよ!だから逃げて!」

濡れた柚の髪から水滴が散る。
揺れる髪は今は濡れ、いつもよりも深くはっきりとピンク色に染まっていた。
それでも変わらないのが、ルビーのように赤い瞳だ。

強く鋭い眼差しがハーデスを睨み上げ、ハーデスは思わず体を竦めた。

「見縊るな、私は逃げない!」
「ゆ、柚……」
「今何か出来るのが自分しかいないのに、自分の安全だけを考えるなんて私は嫌だ。そんな弱さは嫌いだ」

嫌悪が鋭く響く。
ハーデスはまるで自分が嫌いだと言われたかのように、胸に痛みを覚えた。

それでも体は動く。
ハーデスが薙ぐ大鎌をかわしながら、柚は目を吊り上げながらビシリとヘレネスに指を向けた。

「ついでに!誰かに守られたり後ろに隠れたり、私の姿で情けない真似するな!」

ヘレネスがびくりと首を竦め、小さく口を開く。
何かを言おうとしたヘレネスを遮り、ゲシュペンストは再び軽く手を上げる。

「結構ですよ。逃げないで頂けるのはこちらにも好都合です。どうしてもあなたには、死んでもらわなければならないのですからね」
「ゲシュペンスト……」

ヘレネスはゲシュペンストの軍服の裾を掴んだまま、不安げな瞳でゲシュペンストを見上げた。
蕩けてしまいそうな柔らかい声は、柚の凛然とした声とはまるで別人のようにすら思える。

ゲシュペンストはヘレネスに一瞥も向けず、手を薙いだ。
水が矢となり、唸りを上げて柚に襲い掛かる。

「あなたとヘレネスは入れ替わるんですよ」
「!?それはつまり、私にヘレネスとして死ねってことか!」
「その通り」
「そう上手くいくわけないだろ!」

柚は腕を翳して、水の矢を弾き飛ばす。

真横からハーデスの鎌が柚に袈裟掛けに振り下ろされ、柚はもう片方の手をハーデスに向けて翳した。
水の結界に鎌が振り下ろされ、鎌ば触れた場所から水が赤褐色に変色を始める。

ハーデスは鎌を一度引くと、再び力を込めて薙ぎ払い、水の結界を切り裂く。
毒素を含んだ水が柚に向けて飛び散ると同時、柚も足を滑らせながら背後に飛んだ。

同時に迫るゲシュペンストの第二波を、柚は完全にかわすことが出来なかった。
水の刃が柚の体を傷付けて走り抜け、柚は尻餅をついてデッキに倒れ込む。

素早く体を起こそうとした柚は、何かに引っ張られるように起こしかけた体の動きを止めた。
水の刃が柚のスカートに突き刺さり、身動きが取れない。

滴る水か、はたまた冷や汗か……。
柚の頬を冷たい滴が流れ落ちる。

その背後にハーデスが音もなく姿を現し、一、二歩と、ゆっくり歩を進めると、音もなく鎌を振り上げる。
カタカタと震える鎌の音が、振り返る柚の耳にはっきりと聞こえていた。

まるで自分が殺されるかのように青褪めたハーデスが、鎌を振り上げて硬直している。

「嫌だ、柚!」
「……っ!」
『動くなよ』

冷静な声が無線機越しに割り込んだ。

空気を裂く音と共に、まるでグラスを鳴らしたかのような涼やかな音が響く。
それは言葉の通り、空気を変えた。

柚の目にははらはらと舞う氷の粒と共に、ひやりとした冷気が届く。

海上から届いた氷の矢はハーデスの鎌を直撃し、よろめいたハーデスの腕ごと凍らせていた。

「フェルナンド!」

柚とハーデスは、思わずフェルナンドに歓喜の声をあげる。

『ぜぇ……まだっ、後、はぁ……少し掛るから……後は自分達で、なんとか、しろ』

ゼェゼェという息切れを挟みながら、フェルナンドの声が返ってきた。

ゲシュペンストは眉間に皺を刻むと腕を引き、手を横に薙ぐ。
水の刃が柚に向けて飛び、柚は手を翳し、水の結界で攻撃を受け止める。

柚はスカートに刺さる水の刃を自分の力で砕こうと手を伸ばす。
そんな柚に、ハーデスが焦りながら声を掛けた。

「柚、今のうちだから」
「?」

柚はゲシュペンストの攻撃を防ぎながら、顔を上げてハーデスの顔を見上げる。

「俺を殺して」
「はい?」
「出来ないなら、手か足を切り落として」

何を言っているんだと、再度言い掛けて口を閉ざす。

「お願い……氷が溶けたら俺、また柚を傷付ける。もう柚を傷付けたくないんだ」

柚は傷のことなどすっかり忘れていた。

傷はあっさりと塞がり、血も水に洗い流されている。
痛みなど、ヘレネスに夢中であまり感じていなかった。

水の結界に当たっては、ゲシュペンストが放った水の刃が水音を立ててデッキに落ちる。
笛の音に合わせ、ハーデスの腕の氷はぎしぎしと軋んだ音を立てる。

ハーデスの声は、その音に掻き消されてしまいそうな弱々しさだった。
懇願するように、泣き出しそうな声をハーデスが絞り出す。

「もう、仲間を傷付けたくないんだ……」

自分とジャンを重ねているのだろうか……。

柚はゆっくりと瞬きをした。
次第に、少しだけ苛立ちを覚える。

攻撃の手を休めないゲシュペンストに向けて手を翳したまま、柚は毅然とした瞳でハーデスを睨み付けた。

「本気でそう思うなら、自分でなんとかすればいい」

静かに響く柚の低い声音を、ハーデスは突き放されたような痛みに感じる。
柚はまっすぐにハーデスを見上げたまま、小さく微笑んだ。

「私達の力は心に応えてくれる。自分の心を信じればいい、それだけだ」

第六階級の使徒が、肉親を守る為にアスラの力を跳ね返したこともある。

真に願うならば、この愛しい力は絶対に自分の気持ちを裏切らないと、柚は信じている。
正確には、この力を与えてくれた両親を信じているのかもしれないが……。

ゲシュペンストの水がハーデスの腕に当たり、氷が砕け散った。

それは終わりを告げるかのように、はらはらと舞う氷の結晶が、ハーデスの目の前に散っていく。
ハーデスは、ゾワリと総毛立つ。

ハーデスの時が動き出し、鎌を持つ手が柚に振り下ろされる。
柚は水でハーデスの鎌を弾き返すと、スカートに刺さる水の刃を砕く。

ハーデスの体は、再び柚に向けて大鎌を振りかぶった。
同時に、ゲシュペンストの水の刃が飛んでくる。

柚は濡れた床に手で触れて水を含ませると、ゲシュペンストとモアイに向けて水滴を飛ばし、ハーデスに背中を向けて走り出す。
ハーデスの刃が柚の軍靴すれすれに突き刺さった。

ゲシュペンストとモアイに向けて放たれた水滴が細長いクナイのような刃となり、ゲシュペンストが攻撃を防ぐ為に、一度攻撃の手を止めた。

だが、ゲシュペンストに守られたモアイによるハーデスの攻撃は止まらない。
柚はハーデスの攻撃を何度かかわす内に、デッキの端へと追いやられていく。

柚の背中が手摺に当たった。
肩越しに波打つ海面を見下ろし、鎌を水平に構えてまさに振りかぶろうとするハーデスへと振り返る。

「逃げて!?」
「ハーデスを信じる」
「だ、ダメ!柚っ!かわして!!」
「信じるよ」

赤い瞳がいつもと変わらぬ柔和な弧を描き、突如手放しの信頼が投げられた。
無防備に両手を下げた柚に、ハーデスの心臓がドクリと大きな鼓動を刻む。

空に向けて振り上げられた鎌が、太陽の光を反射させる。
心臓が大きく跳ねた。

腕に感じる筋肉の軋み、重力に引き摺られるように落下する大鎌の刃。
ハーデスは目を閉じ、柚から顔を背けた。





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