36


フェルナンドは一人、海の上を走っていた。
走って暫く経つ気がするが、すでに息切れを感じている。

海上で一時足を止め、フェルナンドは膝に手を乗せて体を支えながら、乱れた呼吸を整えた。

(と、遠い……)

いくら走っても、オーストラリア艦に近付いた気がしないのは、振り返った先で自国の艦隊が遠ざかっていくからかもしれない。

空を見上げると、ガルーダがハーデスを海へと投げ落としているところだった。

ガルーダはハーデスを海へと背負い投げ落とすと、翼が羽ばたき、一気に空に滑りだす。
艦から走る雷を小刻みに体を傾けてかわすと、右手を勢い良く振りかぶり、モアイに向けて突進する。

モアイは動じることなく笛を奏でながら後ろへと飛び、その間にムスターファが割り込むと、ガルーダの拳を掌で受け止めた。
ガルーダを受け止めたムスターファの両足がデッキを滑り、軍靴からゴムの焼けた匂いがほのかに漂う。

イエンが体の怪我を庇いながら走り、ガルーダにナイフの切っ先を向けた。
ぽつりぽつりとガルーダの周囲の空気が放電を始め、ムスターファに足止めされているガルーダを四方から囲む。
次の瞬間、雷は一斉に刃のようにガルーダへと伸び、ガルーダは力を込めていた右の拳を引くと、入れ替わりに左の拳を振りかぶり、ムスターファの体ごと吹き飛ばし雷の檻から飛び立った。

雷が床を叩き、黒く焦がす。

背中から倒れ込んだムスターファを飛び越えてモアイに迫ると、ガルーダは地面に左手を付いて体を反転させ、モアイに蹴りを打ち込んだ。
モアイはガルーダの攻撃に対して逃げるでもなく、上目遣いにガルーダを見据えると笛を吹き続ける。

ガルーダの蹴りがモアイに触れる直前、二人の間にノイズが走った。

はっと足の動きを鈍らせたが、止めることは叶わず……びしょぬれになったハーデスが現れ、モアイの盾となるや否や、ガルーダの蹴りをまともに体で受け止める。
ハーデスの体は弾かれたように跳び、床の上を転がった。

「うっ……」
「おわっ!悪い、ハーデス」

すとんと着地したガルーダは、床の上に大の字に倒れこんだハーデスに軽く手を上げた。

その隙を逃すまいと、真後ろからムスターファが飛び掛かり、無駄のない動きで左右交互に拳を繰り出す。
ガルーダは振り返り様にムスターファの拳をいなし、その頭上に軽く視線を走らせた。

ムスターファの影に隠れるように雷が放たれ、まるですばしっこい獣のような動きでムスターファの頭上を飛び越えてくる。

ガルーダは背後に跳んで腕を凪ぐ。
ガルーダが起こした小さな風が大きく唸り、鋭い風は雷を呑み込む勢いで吹き飛ばすと、手を翳したムスターファの顔や腕に裂傷を走らせながらデッキを走り抜けた。

思わず目を細めたムスターファは、拳に力を込めて飛び込んでくるガルーダに息を呑んだ。

両腕をクロスさせ、さらに自身の両腕に纏わせた風がガルーダの拳を受け止める。
風を含んだ重い突きに骨まで痺れが走り、ムスターファは思わず顔を歪めた。

身を捩ったガルーダが、反動と共にもう片方の拳をムスターファに叩き付ける。

「ぐァあ!?」

風を突き破り、骨が小気味のいい音を立て、ムスターファは思わず折れた腕を押さえて数歩よろめいた。

「もう一丁!」

ガルーダが軽く跳び、ムスターファに向けて空中で回し蹴りを繰り出す。
ムスターファは片腕を押さえながら、腰を屈めて蹴りをかわすと、落下してくるガルーダに向けて全身で飛び込んだ。

空中でガルーダは一瞬ふわりと浮くと、体当たりをしてきたムスターファの丸まった背を踏み台に跳び、雷を放とうとしていたイエンを見下ろす。
目があった瞬間、イエンは体を強張らせ、雷を纏ったナイフをガルーダへと投げ飛ばした。

ガルーダの両手が空気を薙ぎ、小さな風を起こした。
だがそれは実際には小さな風ではなく、轟音と共に竜巻がガルーダを包み込む。

ナイフが壁に当たったかのように弾き返される。
竜巻は間近にいたイエンとムスターファを弾き飛ばし、床や手摺に容赦なく叩き付けて霧散した。

ムスターファは必死に起き上ろうと腕に力を籠め、それも叶わずに悔しそうに唇を噛む。
イエンは意識こそあれど、すでに動ける状態ではなかった。

「よし、邪魔な奴はいなくなったな」

ガルーダは手摺の上に膝を曲げて着地をすると、大きく息を吐き出した。

「そうですね……役に立たない連中だ」

ゲシュペンストは床の上に倒れ込むムスターファとイエンに一瞥を向け、呟きを洩らす。
その後ろには、不安気な面持ちでゲシュペンストの背中に隠れるヘレネスがいた。

モアイは笛を奏でながらゲシュペンストの隣に並ぶと、倒れていたハーデスがぴくりと体を痙攣させ、立ち上がる。

「や、やだ……」

ハーデスの拒絶を他所に、床に転がる鎌をハーデスの手が拾い上げた。

「ハーデスを人質にでも取る?」
「それもいいですね」
「残念だけど、俺はハーデス相手でも容赦はしないよ?」

単なる脅しとは到底思えない真剣な面持ちできっぱりと言い放つガルーダに、ゲシュペンストはくつくつと肩を揺らして笑みを漏らす。
ハーデスは青褪めた面持ちでよろよろと三人の前に立つと、声なく「たすけて」と呟いた。

「ええ、そうでしょうね。人質に有効なのは彼じゃない」
「ま、さか!」
「見捨てるのか!?」

倒れるムスターファとイエンが顔色を変え、ゲシュペンストに叫んだ。
ゲシュペンストは彼等に一瞥を投げ、目を細めてただ笑む。

「!?」

ガルーダが相手の意図に気付き、手摺りを飛び降りて駆け出した。

ハーデスの周囲のノイズが走る。
笛の音が鮮明に鳴り響く。

駆けだしたガルーダの背後に、激しい波の音と巨大な影が掛った。
艦が吸い寄せられるように大きく傾く。

「待て!」

ハーデスを中心にゲシュペンストとモアイ、そしてヘレネスの姿が霞み、押し寄せた巨大な津波が艦を丸ごと呑み込んだ。
駆け出したガルーダは津波に呑み込まれると同時に、押し返され、艦は波の上を滑るように横に倒れデッキと船艇が反転する。

動けないムスターファとイエンが波に呑まれて海へと投げ出された。

ガルーダも同様に激しい激流に体を流されつつも、酸素を吐き出しながら目を開き、悪態を漏らした。

風が艦体を包み込み、ガルーダが海中で腕を上げようとすると、腕に血管が破裂するのではないかと思うほどにずしりとした重みが加わる。
ガルーダはさらに踏ん張りながら腕を空へと勢い良く押し上げると、逆さまの艦体が空に向けて浮き上がった。

「ぐぅうう、重たいっ!!」

艦から海水が滝のように流れ落ちてくる。
艦を反転させて海へと放り投げると、ふらふらになったガルーダもデッキの上に降り立ち、力尽きたように座り込んだ。

「ああっ、くそお……」

げほげほと海水を吐き出しながら、つかずにはいられない悪態を漏らす。

「アスラ、悪い。ハーデスがモアイって奴の力に操られてて、多分柚がいる艦に逃げ込んだと思う」

ガルーダの報告に、暫し返事はなかった。
思わず無線機が壊れたのかと疑っていると、アスラの声が悔いるように新たな指示を飛ばす。

『……フェルナンド、大至急引き返せ。ガルーダは人質にとられていた者達の安否と安全を確保してから援護に迎え。俺もすぐに行く』

アスラは重力を放つ手を止め、肩越しに振り返った。
自国の艦が、はるか遠くに見える。

アスラは空を軽く蹴ると、カロウ・ヴが薙いだ薙刀に踏み越えて、カロウ・ヴの横をすり抜けた。
途端にカロウ・ヴの薙刀に掛る重力が倍増し、その重みに引き摺られたカロウ・ヴの体が前のめりにガクリと沈む。

目を瞬かせたカロウ・ヴはふっと口角を上げ、重くなり沈んだ薙刀の切っ先を空中に作った氷に突き立てるなり、棒にしなりを付けてアスラの頭上を軽々と飛び越えた。

空中を舞うカロウ・ヴがアスラの背に向けて右手を翳す。
アスラも半身を返し、左手を翳した。

氷と重力が空中で膨れ上がり、接触した瞬間に互いを拒絶するように、密接した力と力が反発を始める。
それは相手にも力を押し返すように伝わり、互いの体はその余波に吹き飛びそうになった。

遠く離れた海面が小刻みに震え、幾重にも波紋を描いて波が散っていく。
波紋の中心で、海水は見えない力に押し潰されるように沈み始め、次第に海底が見え始める。

互いの髪が、毟れてしまうのではないかと思うほどに激しく揺れていた。
相反する力の衝突は目を開けていることが困難なほどの強風となり、風が吹き荒れる中、それでも互いに瞳だけは逸らさない。

風が頬を掠め、痛みはさほどないが深い裂傷が走る。
僅かに滲みだした血すら、赤い水滴となり吹き飛ばされていった。

瞳と掌にすべての意識を乗せ、ざわめく血の流れと早鐘を打ち始める心音を聞く。
アスラは鼻に皺を寄せた。

示し合わせたかのように腕を引き、新たに力をぶつけ合う。
それはあっさりと相殺し、風すら起こさずに霧散した。

その結果など互いに待つことはなく、新たに力を込めて互いの力をぶつける。

押さえつけられていた海面が跳ね上がり、二人の間を割くように、水柱を立てて空に虹を掛けた。
飛びのいた二人は水飛沫が目前から消え去ると同時、先程以上力を込めて、互いの力をぶつけ合った。

水柱が消えたかと思えば、水柱を中心に激しい津波が円を描くように広がり、その津波よりも速い速度で氷が海面を一瞬にして凍らせていく。

「うわぁあ、ちょっ!」

柚は護衛船の方へと飛び移ると、両手を突き出し、艦に接触する直前で氷の波を押し留めた。

「はぁ……びっくりした」

柚が安堵のため息を漏らした瞬間、柚は背後のデッキにハーデスの気配を感じ、ゆっくりと瞬きをしながら振り返ろうとした。

「柚!?」

だが、ハーデスの悲鳴染みた叫びが響く。
振り返ろうとした柚の耳には突如笛の音色が、振り返った柚の視線の先には、泣きそうな顔で自分に向けて大鎌を振り下ろすハーデスがいた。





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