35


「っ!」

兄さんと言われた男は、僅かに肩を強張らせる。

「出来ればお会いしたくなかったですよ」
「イカロス……」
「お名前は"トドリス"?ああ、"エデン"なんですね、残念だ」
「あ……」

トドリスは、手にしている銃に躊躇うような視線を落とす。
イカロスは構わず、杖で体を支えながら前へと一歩、足を踏み出した。

「母を殺した俺に復讐をする為にエデンに?随分と人生を捨てたものですね」
「お、お前のせいで俺達は母を失ったんだ……憎む権利がある」

一歩、トドリスの足が退ける。

「それは違う。母はあなた達兄弟を食べさせる為に身を売ったんですよ。悪いのは、母と子供を養いきれなかったあなた方の父親と、無力だったあなた方ではないのかな?」
「そうだ。だから父を殺した。次はお前だ」

トドリスは何処かに迷いを秘めた様子で、イカロスを見据えた。
イカロスはそんなトドリスの心の内を知りながら、口角を吊り上げ、トドリスに皮肉に満ちた笑みを向ける。

「その考えで行くと、母が身を売った元凶であるあなた方も、最後には死ぬことになるね?それこそ母は無駄死にだ」
「貴様ァ!?」

トドリスの頬がさっと赤く染まった。
銃をイカロスに向け、トドリスは声を張り上げた。

トドリスの足元の土が生き物のように這い上がり、足に絡み付く。
思わずそちらに気を取られ、振りほどこうともがいていたトドリスは、人の気配にはっと顔を上げた。

「ちょっと失礼」
「!?」

トドリスの肩がビクリと震える。

一瞬、頭を握り潰されるのかと思った。
イカロスの手に顔を鷲掴みにされ、指の隙間から若葉色の瞳と目が合う。

「怖い?ああ、これは別に力を使うまでもなく、あなたの顔を見れば分かりますよ、兄さん」

くすくすと笑うイカロスの瞳が、深く深く染まって行く。
目が笑っていない――その表情が、一番上の兄にそっくりだと思い戦慄を覚える。

「や、やめろ……!」

瞳を通し、何かが自分の内側に侵入してくるかのような不気味な感覚に肌がざわめいた。
イカロスの手に爪を立てることも忘れ、自分の体を血が出るほどに掻き毟る。

「何故母が死んだか知りたかった?」

はっと振り返ると、イカロスが闇の中に立っていた。

景色が消え、ただ不気味な闇だけが広がる世界の中心に、イカロスと自分だけが存在する。
音もない、気配もない、呼吸も鼓動も聞こえない。
ただ頭に直接、声が響く。

闇にまぎれるように、イカロスの姿が消える。

「俺が殺したんですよ。母は途中から狂っていました、俺を産みたくないってね」

先程までイカロスの姿があった方とは別の方向からイカロスの声が響き、男は慌ててそちらに振り返った。

「傷付くでしょう?愛する人にそんなことを言われたら……俺も一応、使徒だからね」

再び背後から声が響き、男は混乱を通り越して恐怖を覚える。

「止めろ!」

男は闇の中、耳を塞ぎ、逃げるように走り出した。
だが走っても走っても光は見えず、声が鮮明に頭上から降り注ぐ。

「母はね、あなた方兄弟を本当に愛していた」
「俺も、同じようにとは言わない……けど」
「ほんの少しでもいい、愛して欲しかったんだ」
「愛されているあなた方兄弟が憎かった、俺を愛さない母が憎かった」
「だから母を独り占めするために殺したんですよ」

四方八方から、浴びせられる声に男は声にならない悲鳴をあげて地面に座り込んだ。

白い軍靴の爪先が、地面を踏む。
ぽつりぽつりと足跡が光となり、ほのかに辺りを照らし出した。

光に吸い寄せられるようにトドリスが恐る恐る顔を上げると、光はほのかにイカロスの姿を照らし出す。

イカロスは腰を折り、地面に座り込むトドリスに顔を寄せて穏やかに笑った。

「納得して頂けましたか?兄さん」
「……イ、イカロス」
「哀れな人だ……」

イカロスは片耳から何かを外すと、トドリスの前に膝を付き、その手にそっと小さい物を握らせた。
トドリスは掌の中に視線を落とし、それが女物のピアスだと認識すると、困惑した面持ちをイカロスに向ける。

「持って帰ってください。捨てても構いませんが、母の遺品です」
「!」

目を見開き、トドリスはイカロスの顔を見た。
まだイカロスの熱が冷めないピアスを、トドリスは握り締めて唇を震わせる。

「俺は……お前が、アース・ピースに捕らわれているんじゃないかと……お前を助けたいと思っていたんだ」
「余計なお世話と言うものです。俺が兄弟と思うのは、母でもあなた方兄弟でもない、アスラとガルーダだけですよ」
「っ……!」

喉を震わせるトドリスの、柔らかな亜麻色の髪が揺れた。

何を期待しているのか、トドリス自身にもよく分からない。
だが自分はイカロスに何かを期待していたことは確かで、裏切られた、だがそれを信じようとしない心がある。

「それでも、お前は使徒なのか!!」
「間違いなく、使徒ですよ」

何処か寂しげに……。
イカロスは小さく笑い、立ち上がった。

「さあ、帰りなさい。そして他の兄弟共々エデンから足を洗い隠れて暮らすことです」

座り込むトドリスに覆い被さるイカロスの影。
若葉色の瞳を隠す亜麻色の髪と落ち着いた声音。

次の瞬間、トドリスは目を見開くことになる。

先程まで目の前で会話していたイカロスが驚くほど遠くにいた。
太陽を背にするイカロスの顔には影が掛り、表情すら窺うことも出来ない。

「それがあなたの為だ」
「!」
「さようなら、トドリス兄さん。見逃すのは今回だけです」

夢か幻か、良く分からないままぼんやりとその姿を見詰めるトドリスの横から腕が伸び、黒光りする鉄の塊が向けられる。

「イカロス!」
「!」

トドリスがそれをライフルだと認識した瞬間には、シリンダーが回転し、銃弾が吐き出されていた。

咄嗟に身を捩ったイカロスの頬を掠め、弾丸が背後の木に穴を開ける。
焼け千切れた髪がはらはらと地面に落ちていく。

イカロスはトドリスの隣に立つ男を見やり、舌打ちを漏らした。

まるで鍛え上げられた軍人だ。
広い肩幅と筋肉質で大柄の体をした男は、三十代後半に差し掛かったあたりだろうか……暗い目に険しい面持ちを浮かべ、声なくイカロスに語り掛けた。

(私はデニス、私もお前の兄の一人だ)

声に出すことなく名乗ったデニスは、淡々とした面持ちで銃弾を入れ替え、口元に三日月を描く。
冷たい瞳が浮き立つように、不気味さを浮かべている。

(さあイカロス、使徒であるお前が半分とはいえ血の繋がっている私を殺せるか?)

イカロスの頬を汗が伝い落ちた。

杖で体を支えてやっと歩いている状態でも、迷いのあるトドリス相手ならばなんとかできる自信があったのだが、この男は違う。
電磁波発生装置を内蔵している弾丸を彼らが所持していたら、自分はただの的になる。

トドリスはデニスを見上げ、「どうして」と叫んだ。

「デニス兄さん!今回は俺に任せてくれるって約束じゃ――」
「お前に任せた結果がこれだ。下がっていろ、役立たず」

トドリスが顔を歪め、唇を噛んで俯いた。

(こっちの兄は、俺を標的としか見ていないな)

憎しみなど感じない、鍛えられているのは体のみならず精神までもだ。

考えなど読ませない。
プロでも、滅多に出来る芸当ではない。

イカロスは穴の開いた木に凭れながら、小さくため息を漏らした。



「ねえ、今……何か音がしなかった?」

アンジェは小高い丘を歩いていた足を止め、後ろのライラに問い掛けた。
ライラも気付いたのか、すでに足を止め、耳に神経を集中させている。

「した……イカロス兄に何かあったのかも」
「でも、だったら無線機で連絡をくれるはずだよね?」
「……最悪、出来ない状態、とか?」
「え!?」

目に見えてアンジェが青褪めた。

「ちょっと様子を見てくる。アンジェはここにいて」
「僕も!」
「駄目だ!」

共に戻ろうとするアンジェをライラが鋭く遮る。
それは自分でも思った以上に突き放す冷たいものとなり、ライラは押し黙るアンジェの顔を見て唇を喘がせたが、結局何も言わずにアンジェから顔を背けた。

すると、アンジェの方から提案を持ち出す。

「じゃ、じゃあ、僕が力を使うよ。そうすれば、少しでも早く着くでしょ?」
「……うん。じゃあ、頼むよ」

ライラがおずおずと頷くと、アンジェはほっとしたように儚く微笑み、ライラに両手を差し出した。
ライラは軍服の襟を寛げてから、差し出されたアンジェの手に自分の両手を乗せる。

二人を薄い絹のようなオーラが包み込み、二人の髪を揺らし始めた。
パキパキと、指を鳴らすような音が互いの体から鳴り始める。

ライラの姿が早送りをするように、少しずつ成長を始めた。
それに合わせ、アンジェの顔の輪郭が丸くなり、みるみると幼さを増し、同じだった二人の身長が開き始めた。

二人の成長と退化が完全に止まると、アンジェは弟であるライラに兄の顔を向けて微笑む。

「はい。気を付けてね?何かあったらすぐに呼んでね?」
「ん……」

五歳ほど若返ったアンジェが、穏やかに微笑みを向けてくる。
五歳ほど成長したライラが、小さく頷き返した。

「アンジェも……一応俺が戻るまでは何処か人目のつかないところに隠れてなよ?」
「うん、有難う。じゃあ、本当に気を付けてね?」
「うん」

ライラは頷き返し、アンジェに背を向けて走り出す。

いつもよりも長い脚は、大きな一歩を……。
いつもより発達した筋肉は、より強く大地を蹴り、体を前へと推し進める。

体いっぱいに風を切りながら、ライラは元来た道を走り始めた。

それは後悔への第一歩。
そして決断への足掛かりだった。





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