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「嫌だ、違うよ、体が勝手に動くんだ!」

青褪めた顔で哀れに叫ぶハーデスに、ガルーダは風の翼をはためかせながら小さく息を吐く。

その瞬間、ハーデスの姿が消えて頭上から勢い良く鎌が振り下ろされた。

紙一重でかわしたガルーダに向けて、艦上から雷が走る。
風の翼を巧みに操りながらかわすガルーダを追い掛け、次々と放たれる雷をかわす。

その先にハーデスが現れて鎌を水平に薙ぎ払う。

慌てて上体を逸らせば、鎌が顔面に触れそうな距離を走り抜けていく。
上体を逸らした反動に空中で一回転したガルーダは、翼に力を込めて羽ばたきをすると、再び消えたハーデスが居た場所を躊躇いなく突き抜ける。

「避けて!」

耳にハーデスの悲鳴染みた声が届き、ガルーダは体に急ブレーキを掛けた。
目前に鎌を振り上げたハーデスが現れ、叩きつけるように振り下ろす。

ハーデスの声に救われたガルーダは、背後から雷を受けて海へと落下し掛けて踏み止まる。

「ああ、くそっ!」

ガルーダは空を飛びながら、悪態と共に軍服の上着を肌蹴た。

ただでさえ裾が長い作りの上に、ぐっしょりと海水に濡れて肌に張り付き、動き辛いことこの上ない。
海軍との共同戦線ということもあり、アスラに絶対に脱ぐな、気崩すなと念を押されている。

「着てられるか!」

ガルーダは軍服の上着を剥ぎ取ると、海へと投げ捨てた。
海水を吸った軍服は重力に引かれて海へと落下すると、ゆっくりと沈んでいく。

『ガルーダ』

途端に無線越しに、ひやりとするアスラの声が響き、ガルーダはぎくりと首を竦めた。
思わずアスラの方へと振り返ると、アスラが肩越しにこちらを睨み付けている。

『拾ってこい』
「い、いや。後で」
『絶対に回収しろ。必ずだ』
「はい、分かりました……」

有無を言わせぬ物言いに、ガルーダは涙ながらに頷いた。

そんなガルーダの影が薄く浮かび上がる海面が、沸騰したようにぽこぽこと気泡を上げ、次の瞬間水飛沫と共に水が伸びてガルーダの足に絡み付く。
水はガルーダを海中に引き摺りこむと、猛スピードで水深を下げ始めた。

(水属性!柚のコピー?嫌……確かゲシュペンストも水属性だ)

水圧がガルーダの体を圧迫し始める。
ガルーダはきつく瞼を噛み締めると、海面から差し込む太陽の光を睨み付けた。

風がガルーダの周囲に集い始め、次第に海中の中にガルーダを中心とした渦が描き始める。
渦は水を掻き分け、海面から巨大な水の竜巻が顔を現した。

柚が口を開けて竜巻を見上げていると、フェルナンドが柚の名を呼んだ。

「渦に護衛艦が引き寄せられてるぞ」
「あらあら、本当だ」

手摺に足を掛け、柚はひらりと手摺を飛び越える。

「ちょっとやり辛いから、下降りてくる」
「は?あ、おい!僕の目の届くところに居ろよ」
「はーい」

波打つ海面の上を二、三歩歩き、柚は自国の護衛艦のように激しく揺れているオーストラリアの艦を見た。
全体が見渡せるが細部までは確認出来ないほどに、双方の距離は開いている。

(要は、あの船を領海の外に出せばいいんだよな)

海面にしゃがみ、そっと右手の指先を海水に沈めた。

(近付いて、水を動かして、強引に方向転換させちゃ駄目かな)

船の重さや距離を考えると、スローンズの階級を持つ柚でもさすがに容易い事ではないだろう。
あの艦に水属性の使徒が乗っていれば、尚更妨害が入る。

(それに、それじゃあゲシュペンストを捕まえられないか)

いっそその方がいいと、心の中では思っている。

それはきっと、自分だけではない。
でなければアスラは、海兵隊の者達がいるブリッジで構わずにあの話をしたはずだ。

(うん、でも……)

恐らくアスラやフェルナンドは、柚が思い付く程度の方法は考えているのだろう。
そしてそれを柚に言わない――と言うことは、恐らくそういう事なのだろう。

(大人しく命令に従いましょ。私ってば、お利口になったもんだ)

しみじみと感慨を受けながら、柚は何度も自分自身に頷く。

海水に自分の力を満遍なく流し込み、辺り一帯の水を自分の支配下に置いた。

次第に波が収まると同時、海水に触れる指先には鎖を背負うように重い手応えがある。
成功した証だ。

『柚、艦に戻れ』
「あ、うん」

海面からぼんやりとオーストラリア艦を見ていると、アスラの声が無線機越しに降る。

空を見上げると、接近戦に持ち込んだカロウ・ヴの攻撃をかわしながら、アスラはインカム状の無線機に淡々と語り掛けた。
暑さで景色が歪むように、柚の瞳には空が所々捻じれて映る。

『全艦に下がるように告げた。お前はフェルナンドと艦のサポートをしろ』
「え、下がるって……良くない状況?」
『ガルーダの方も艦が気になって、思うように力が使えない。力を抑えて戦っていてはいつまで経っても決着がつかない』

納得する柚は、ふいにもう一度オーストラリアの艦へと振り返った。

先程は気が付かなかったが、艦のデッキの前列に立つ男達の影に隠れるように、小さな人影がある。

体中の血がざわめく。
顔の輪郭すら見えない距離ではあるが、揺れる長いプラチナピンクの髪だけははっきりと見て取れた。

「ヘレネス……」

柚は無意識のその名を呟き、ギリリと奥歯を噛み締める。
赤い瞳が憎しみを込めてオーストラリア艦を睨み据えた。

"ゆるせないの……"
"ママを侮辱した"

――殺して!ママを侮辱した奴、やっつけて!

「宮!何をしてるんだ、早く戻れ」
「!」

柚ははっとしたように、艦上から声を張り上げるフェルナンドを見上げた。
そして目を瞬かせる。

(あれ?)

頭に疑問符ばかりが浮かんだ。
自分でもよく分からない違和感が残っているのだが、違和感の正体どころか、ヘレネスを見た後のほんの一瞬前の出来事が思い出せず、ズキリと頭が痛む。

柚は府に落ちない思いを抱えながら、艦に戻った。

戻ったと伝えても、フェルナンドは双眼鏡を覗き込むことに夢中で返事がない。
気が付けばフェルナンドは眉を顰めていた。

「よく見えないが……尉官がハーデスに攻撃されてないか?」
「え?貸して」

柚は眉を顰め、フェルナンドから望遠鏡を借り受ける。
フェルナンドの言う通り、オーストラリアの使徒と共にハーデスがガルーダを攻撃していた。

「まさか、暴走……?」
「かもしれないな。元帥、ハーデスが暴走している可能性がありますがどうしますか?」

フェルナンドが、インカム状の無線機越しにアスラへと問い掛ける。
そこに柚が大きな声で割り込んだ。

「私!私が援護に行く」

無線機越しに大声を浴びたフェルナンドが耳を抑えて柚を睨む。

『柚は許可出来ない』
「なんで!」

自分の力不足だから、アスラがそう言ったのだと真っ先に思った。

焦ったように喰らい付く柚に、アスラはカロウ・ヴと力をぶつけ合いながらも淡々と返す。
激しい風の音がノイズとなり、アスラの声を聞き取りにくくさせるが、なんとかアスラの言葉を聞き取る。

『艦隊を速やかにさがらせるには、お前の力が不可欠だ』
「あ……」
『フェルナンド、援護に行けるか?』
「はい」
『ではフェルナンドに任せる』
「了解。もしハーデスが暴走していた場合はどうしますか?」
『……氷漬けにして頭でも冷やしてやれ』

アスラは素っ気なく告げ、通信を切った。
ほっと安堵のため息を漏らす柚を他所に、フェルナンドは「甘い」と文句を言っている。

「ハーデスの事、頼む」
「……一体なんだって君なんかに頼まれなきゃならないんだ。君は君の仕事を集中してやってればいいんだよ」
「はいはい、頑張ります」

柚は苦笑を浮かべ、デッキから飛び降りていくフェルナンドを見送った。





スールー諸島の浜辺で、アンジェはもの珍しそうに引いては打ち寄せる波を見ていた。
ライラはしゃがみ込み、じっと蟹を見下ろしている。

「ねえ、暇なんだけど」
「ここは最終防衛ラインだから、暇に越したことはないよ」

最終的に文句を言い出したライラに、イカロスは苦笑を浮かべた。
日陰で椅子に座り、握力を取り戻すためにハンドグリップを握りながら、イカロスは二人を呼び寄せる。

「あまり遠くに行かなければ近くを見てきてもいいよ」
「でも……任務中なのにいいの?」
「いいよ、どうせ任務が終わったら自由に歩けないからね。ただし、一般兵の人達に見付からないように」
「うん。ライラ行こう!」

アンジェはライラの手を引き、元気に森の方へと走り出す。
ライラはイカロスを気に掛けながらも、アンジェに手を引かれて走り去っていった。

イカロスはそんな双子達に穏やかな笑みと共に手を振り、二人の気配が完全に遠退くと、杖で体を支えながら椅子から立ち上がる。
二人が消えた森とは別方向へと向き直り、イカロスは「さて」と呟きを漏らした。

「もう出てきて頂いて結構ですよ」

波音が穏やかに響く。
それは緊張を感じている自分の心音によく似ていた。

「俺がご指名のようだけれど……どちら様かな?」

木の影から躊躇うように……。
すっと、男が一歩足を踏み出した。

亜麻色の髪に若葉色の瞳をした、柔和な印象の青年だ。

イカロスの瞳はゆっくりと見開かれていく。

心音が波の音よりも早くなった。
血がざわめき総毛立つ。

数秒か、一瞬か――完全に呼吸を忘れた。

「イカロス……」

自分の名を噛み締めるように呟く男の顔を見て、心に触れ、イカロスも驚きを隠せなかった。

「ああ……」

イカロスは小さく、何処か納得したようで、それでいて何かを諦めたかのように苦々しい声を、やっとの思いで漏らす。
胸の内にぽっかりと奈落への扉が開いたかのように、空虚な脱力感が襲う。

「いつか、こういう日が来るんじゃないかと思っていた」

誰にともなく、一人ごちる。
イカロスはただ目の前の男を見て、困ったように苦笑を浮かべた。

「初めまして、"兄さん"」

言葉にして後悔する。
何処かでぽとりと、水滴が落ちるような音が聞こえた気がした。





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