32


手は首筋から頬へと上り、ふう……と息を吹きかけてくる。

敵の口から吐き出された息は不気味な色をしており、開いた口から思わず息を吸い込んだ。

途端に体はまるで静電気を浴びたような痺れが走り、手足の感覚が遠退いていく。

「モアイ!?」

雷が走り、ハーデスがモアイの背後から数歩下がり、そのまま音もなく姿を消す。
イエンが喉を抑えるモアイに駆け寄ると、二人から数メートル程先にハーデスが現れて首を傾げた。

「貴様ァ!」

イエンがハーデスに向けて叫ぶ。
モアイは痺れていく手を見下ろすと、イエンを止めて笛を構える。

「神経系の毒か。あんたハーデスって奴だろ?俺も同じようなこと、出来るぜ?」

笛の音色が波音の合間を縫って鳴り響いた。

痺れる指先で奏でる音色は途切れ途切れにたどたどしい。
だが次第に音色は流れるように美しい音へと姿を変えていく。

指先は何事もなかったかのように滑らかに踊り、次第に曲調が変わり始めた。

違和感を覚えたハーデスは不思議そうに片耳を押さえると、次の瞬間顔を顰めてその場から姿を消す。
モアイが素早く反応し、背後に向けて向き直ると、笛が鎌を受け止めた。

ハーデスは力を込めてぎりぎりと笛に鎌の刃を押し当てる。

「その音、不愉快……」
「芸術が分からない奴はこれだから」

モアイが足でハーデスを蹴り飛ばそうとするよりも早く、ハーデスが後ろに飛びのいて姿を消そうとした。
だがふいに膝から力が抜け、ハーデスはその場に膝をつく。

ハーデスはきょとんとした面持ちで、思わず呟きを漏らした。

「え……?」
「平衡感覚ってやつを刺激してやったんだよ」

視界がぐらぐらと回る。
今自分が、床の上にいるのかもよく分からなくなってきた。

小さく息を吸い込み、モアイは勝ち誇った笑みと共に再び笛を口元に運ぶ。

「っ!」

ハーデスが膝に力を込めると、イエンがナイフをハーデスに向ける。

ハーデスは焦った。
空間転移の力に視力は必要なものだ。
だが、目に見える光景が定まらずにぐらぐらと揺れ動く。

逃げなければと周囲に瞳を走らせれば走らせるほどに酔う。
そんなハーデスの視界に、ガルーダの影が遠く映り込んだ。

「こらこら。お前はまだ、俺の担当だってーの!」
「!?」

イエンの背後から、空中でしなやかに体を捻るガルーダの蹴りがイエンを襲う。
空中で放たれた蹴りが空気を斬り裂きイエンを襲い、咄嗟に腕で庇ったイエンの体は、数メートル程跳んでデッキを転がり手摺に叩きつけられる。

とんっと、片足で軽やかに着地したガルーダの足元にムスターファが滑り込んだ。
ムスターファの蹴りが触れる直前にガルーダは地面を蹴り風と共に空へと高く跳ぶ。

跳んだガルーダの体から、翼が花びらを開くように広がり、空で大きく翼を広げてガルーダは飛んだ。

ガルーダは空中で身を捩り、腕を引き寄せ拳を構えて風を集める。
デッキの上では同様に拳に風を集めるムスターファの姿があった。

風が旋回をしながら拳から腕に掛けて集う。

「せーのっ!」

ガルーダは上空で拳を振り下ろした。
それと同時、ムスターファも空に向けて拳を振り上げる。

互いの手を離れた風が空中で衝突し、休む暇もなく二撃目がぶつかり合い破裂音を立てた。

ガルーダは右へ左へと攻撃の手を替え、まるでボールを投げるように軽やかに、次々と風の弾を降らせていく。
次第にムスターファは防戦一方に追い込まれ、ガルーダの風が何度もデッキを打ち付け始めた。

「くっ……!」

ムスターファから汗が伝い落ちる。

一瞬の瞬きの瞬間、上空に掛った影にムスターファははっと息を呑んだ。
ガルーダの指先で獣のように伸びた風の爪が振り下ろされ、ムスターファの頭を掠める。

足を後ろへと退いてかわしたムスターファの頭上に、風を操り空中で体を反転させたガルーダの横蹴りが横顔を襲った。
咄嗟に庇おうとした腕は間に合わず、首がもげそうなほどの強打を受けながら、ムスターファは床を転がり体勢を立て直して起き上る。

着地したガルーダはすでに地面を蹴り、目前に迫っていた。

ムスターファは地面に風を纏った拳を叩き付ける。
一瞬にして風が膨れ上がり、ムスターファの周囲を風が囲み、ガルーダを阻む。

ガルーダは爪を凪ぎ風を切り裂くと、修復しようとする風の壁へと飛び込んだ。
途端に壁の隙間からムスターファの寡黙な瞳がガルーダを一直線に睨み上げ、下方から閃光のような蹴りが跳ぶ。

体を後方に逸らしたガルーダの顎を軽く掠めた。

ガルーダの左足は後方へと滑り力を込め、バネのように体を起こして拳を振り被る。
ムスターファは目にも留まらぬ速さで突き出された拳をかわし、背中を丸めながら足を一歩踏み出し、ガルーダに連続で拳を繰り出した。

紙一重で拳をかわしながら、ふいにガルーダの体が沈む。
傾いたガルーダの足が滑り込むようにムスターファの足をすくい上げ、ムスターファの体勢が傾き崩れた。

ガルーダの両手が地面に付き、足はデッキを叩きつけた反動を利用し、崩れ落ちるムスターファの腰に蹴りを叩き付ける。
ムスターファの体が叩き上げられ、デッキに転がり落ちた。

「とうっ!」

風の瞬発力を利用し、ガルーダは無邪気な掛け声と共に数メートル程の高さへと軽やかに跳び上がるなり、倒れるムスターファに向けて体重を掛けた蹴りを振り下ろす。

「ぐっ!?」

上体を起こし掛けたムスターファが、手を翳して迎え撃つ。
風は鋭い刃となり、落下してくるガルーダの体を切り裂いた。

(なんだ、こいつは!?)

ムスターファは困惑と畏怖を覚える。

落下してくるガルーダは、自分が傷付こうが全く痛みを感じていない様子だ。
飢えた獣のようなギラギラとした瞳は、欲を満たすと同時に狩りを楽しんでいるように思えてならない。

血だらけのガルーダの蹴りがデッキを抉り、艦が前倒しに大きく傾く。
艦を囲んでいた氷が音を立てて割れ、砕け散る。

「ん?」

アスラと切り結んでいたカロウ・ヴは艦へと振り返り、眉を顰めた。

「あんたんとこの尉官だっけ?こっちの人質まで殺すつもり?」
「さあな」

アスラが手を引き、カロウ・ヴも薙刀を引いて構える。

軽く振り下ろされた手に合わせ、カロウ・ヴの頭上で空間が歪んだ。
ほんの一瞬、一秒にも満たない時間を掛け、カロウ・ヴの頭上に重力が降る。

カロウ・ヴは薙刀を一振りに重力を切り裂くと、更に一振りにして風を起こす。
風が触れた空気中の水分が音を立てて凍り、杭のような刃となってアスラに飛び掛かる。

アスラは向かってくる氷の杭を見やり、掌を差し出す。
差し出した掌の上に指先がゆっくりと曲げられると、杭の動きが押し戻されるように止まり、アスラが力を込めて掌を握ると、氷は音を立てて粉々に砕け散った。

氷の破片が海に、さらさらと音もなく降り注いでいく。

空中を蹴る音と空気を割く音が響いた。

無数の氷の結晶がカロウ・ヴと共に飛び込んでくる。
結晶は回転しながらノコギリのような凶器となり、揺れるようにして空中を駆けて次々とアスラに斬り掛った。

左右からアスラを襲う刃に、アスラは自身の周囲から完全に重力を消し去る。
氷はアスラに触れそうな距離で緩慢に動きを止め、鋭利さを欠いて宙に漂った。

その正面から、氷の薙刀が力強くアスラを突く。
アスラも握っていた掌を解き、掌を翳して切っ先を受け止め返した。

重力と氷の切っ先が、まるで同じ極同士の磁石のように反発し合い、風を生み出す。
風は冷気を周囲に撒き散らし、アスラの髪と軍服を激しく揺らした。

氷の粒が髪や肌に付着し、アスラがぴくりと眉を顰める。
薙刀を突き出した姿勢のまま、カロウ・ヴがふっと口角を吊り上げて笑う。

氷の粒は次第にアスラの体に面積を広げ、アスラを氷で覆っていく。
軍服が霜に覆われ、凍り付き始めた。

凍り付いていく体に淡々とした視線を向け、アスラは姿勢を崩すことなくもう片方の腕を軽く真横に滑らせる。
カロウ・ヴも姿勢を崩すことなく、薙刀を突き出す腕の上から軽く真横に掌を向けた。

カロウ・ヴの真横から重力が塊となって襲う。

まるで巨大な金槌を振り下ろしたかのような音が骨にまで響き渡った。
ビリビリと肌を刺す音に、アスラを覆う氷の粒が微かにはらはらと落ちていく。

叩き込まれた重力の塊を氷が覆い受け止め、中央ががらんどうになったオブジェのような造形の氷が空中に造り出された。

重力はただの氷の塊となり、海上に水飛沫を上げて落下した。
海面から数メートル程立ち上った水飛沫すらその形のままに凍り付く。

笑い声と共に、カロウ・ヴの力が増した。

「あはははは、さあ!どうする!」

吹雪が勢いを増し、カロウ・ヴの笑い声を遠退かせる。

氷の杭が、間近から再びアスラを襲う。
ひとつを重力で叩き落とすと、次から次へと空中に氷の杭が生み出されていく。

アスラは杭を横目で見やり、広範囲の重力を操った。
重力を消し去る。

カロウ・ヴの体からも重力が消えて浮き上がるが、カロウ・ヴは一切動じることはなく、口笛を鳴らした。

無重力の空間にふつふつと氷の粒が浮き上がり、雪のように漂う。

氷の粒は次々とアスラの体に付着し、アスラの足が完全な氷の塊となり、じわじわと体を昇り蝕み始めた。
揺れていた金の髪も霜に覆われ、睫毛が結晶を乗せて微かに揺れる。
吐く息が白く流れていく。
白い頬を氷の結晶が少しずつ覆い始めた。
力が集中する手にまで、じわじわと氷が這い登っていく。

アスラが僅かに眉間に皺を刻み、白い息を噛み殺す。

それを最後に、アスラは時を止めたかのように……。
氷の中で完全に動きを止めた。





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