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艦の姿が肉眼でも確認できる距離に近付きつつあった。

広い海の上には比較するものがない為に、その艦がどれほど大きいものかは分からない。
防衛線を張るアジアの艦隊の姿を確認しても、オーストラリアの艦は一向に止まる気配を見せずに直進してくる。

「威嚇射撃、用意!撃てー!」

耳宛をしても聞こえてくる轟音に、柚は首を竦めながら、砲撃がオーストラリアの艦に向かっていく光景を見上げた。

見慣れている使徒同士の攻撃よりも、ミサイルや銃の方が恐ろしく感じる。
柚は不安な面持ちでミサイルの軌道を見守った。

ミサイルは放射線を描き、オーストラリアの艦に向けて落下を始める。
ミサイルが艦の方へと落下を始めた瞬間、遠く離れたデッキには、肉眼では確認できないほど小さな人影がいくつか姿を現した。

海面がうねりながら揺れ始め、水柱が空に向けて噴き上がる。
吹き上がった水は一瞬にして氷り付き、水はミサイルを呑み込むと音を立ててミサイルごと氷り付く。

氷はオーストラリア艦の周囲までをも凍らせながら、一瞬にしてミサイルを空中で氷漬けにして氷の柱に閉じ込めてしまった。

それにとどまらず、空中に散った海水は海面から空に向けて蜘蛛の糸のように広がり、網を張ったような状態で制止する。
太陽の光を浴び、まばゆい宝石のように一帯が光り輝く様は、純粋に美しい――空中に浮くミサイルがなければの話ではあるのだが。

「うわぁ……」

柚は口をぽかんと開けたまま、思わず声を漏らした。
途端に、「何を感心してるんだ」と言いたげなフェルナンドに睨まれる。

「ねえねえ、フェルナンドあれ出来る?」
「うるさい、喋るなみっともない」

フェルナンドに舌打ちをされ、柚は口を尖らせながら押し黙った。

オーストラリア艦のデッキから人影が降り立つ。
銀の髪を尾のように纏めた、若い青年だ。

唖然とするアジアの海兵隊達は、思わずおののき、喉を鳴らした。

「僕達、亡命を希望してるのにね……残念だなぁ」

艦を離れ、空中に氷の足場を作りながら一歩一歩、カロウ・ヴと思しき人物がこちらへと向かってくる。

「アスラ、攻撃していい?」
「……」

大鎌を構えたハーデスが、無線機越しにアスラに問い掛けた。
アスラはそれを手で遮り、カロウ・ヴの動きをじっと見据える。

「やっぱりあんたが出てきた。アスラ・デーヴァ」

カロウ・ヴは笑いながら右手を空に翳し、振り下ろした。

海中で爆ぜたように海面が隆起し、盛り上がった海水が音を立てて凍り付けば、それは氷柱のような刃の凶器となる。
アジアの軍艦に向けて隆起した氷達が、せめぎ合うように襲い来る。

「柚」
「うん!」
「フェルナンドはサポートを」
「了解」

アスラの指示に柚はデッキに立ち、手を翳す。

意志を持った氷と水が正面からぶつかり合い、水飛沫が空に舞い散る。
激しい衝撃を物語るように、艦が大きく揺れて船員達がデッキを転がった。

柚の体が一瞬浮き、翳す腕は見えない力に押され、柚は片手で手摺りに掴まりながら、歯を食いしばり踏みとどまる。

(力負けしてる!)

滅多に味わう感覚ではない。
自分の力を押し潰されて侵略されるような感覚に焦る柚に、落ち着いた様子のフェルナンドが並びながら手を翳した。

「凍らせる、持ちこたえろ」
「はーやく、してぇーっ!」

体ごと押されそうになりながら、柚は必至に声を絞り出す。

フェルナンドが左手を軽く握ると、パキパキと音を立てて氷の弓が生まれ、弦を絞る五本の指先から氷の矢が伸びて的を射た。
指先に繋がる五本の氷の弓が一斉に空気を裂いて放たれる。

弓はせめぎ合う氷と水の狭間に突き刺さり、柚の水を凍らせていく。
交わり合う氷は空に向けてオブジェのように登り、ひとつの巨大な柱を創りだして空に砕け散った。

氷の結晶が雪のように舞い落ちてくる。
柚は転がるようにデッキを尻餅を付くと、大きく息を吐いた。

(セラフィムとスローンズは……こんなに違うんだ)

頬を汗が伝い落ちる。

ふいに、耳に笑い声が届く。
それは遠く微かなものであったが、顔を上げた柚の視線の先に、空に氷の道を敷きながらまっすぐと駆けてくるカロウ・ヴが映る。

カロウ・ヴが手を振りかぶり、横に薙ぐ。
その動きに合わせて海面が隆起し、広範囲に氷柱が津波となって走る。

「うっ!?」

柚は焦りながら態勢を建て直し、手を翳した。
カロウ・ヴの力と柚の力がまるで剣を交えたように衝突し合い、弾かれては再びぶつかり合う。

カロウ・ヴの力は重い。
柚は圧倒的に押されながら、必死に抵抗した。

「耐えろ、宮!」

フェルナンドが柚を援護するものの、カロウ・ヴは次から次へと氷の津波で圧倒してくる。

必死に堪える柚の隣を、すっと白い影が過った。
思わずそちらに視線を向けた柚の視界に、デッキを歩くアスラの背中が映る。

アスラはデッキの手摺りに足を掛けて、ふわりと宙に舞いだすと、まるで道を歩くように空中を歩き始めた。

その歩調が少しずつ速くなる。
軍靴は規則正しく空を踏む。

走るカロウ・ヴが手を振りかぶった。
アスラも右手を軽く翳す。

同時に振り下ろされた手の動きに合わせ、対峙する二人の中央で、目に見えない重力の力と氷が渦を巻いて衝突した。
空中に立つ二人は風を全身に浴びながら、その場で歩を止めて足を踏みしめる。
互いの力は決して譲らずに押し合うと、破裂するように弾け飛び、かつてない衝撃波を起こして相殺した。

冷気が衝撃波と共に空一帯を白く染める。

アスラは揺れる自分の髪を抑えるでもなく、淡々とした眼差しで正面を見据えた。

白煙の中にぽつりと、染みのように黒点が浮かび上がる。
煙を切り裂き、カロウ・ヴの体が凶器と共に踊り出た。

アスラへと柄の長い氷の刃が斬り掛る。
半歩身を引いたアスラの真横を氷の薙刀と共にカロウ・ヴの体がすり抜けた。

氷のような何処までも冷たいアスラの眼差しと、この状況を楽しむ無邪気なカロウ・ヴの目が合い、カロウ・ヴは口角を釣り上げ、アスラの背後で滑るように身を翻して氷の刃を薙いだ。

上体を捩り、アスラは腕を上げる。
翳した腕を纏う重力が盾の役割となり、刃が弾かれる音と重みが走った。

その直後、カロウ・ヴの頭上の空間が歪み、重力が何十倍にも跳ね上がり、カロウ・ヴへと降り注ぐ。
カロウ・ヴは重力が掛る前にすり抜けると、手を叩いて笑い声をあげた。

「はぁーいいねいいね。僕、セラフィム同士で戦うの初めてだけど、あんたは?」
「……」

アスラは無言で返す。

「にしてもこっちは亡命希望してんだけど?見捨てるんだ。随分薄情な使徒がいたもんだね」
「我々が決断を下すものではない。そもそも自国の首相のコピーを創りだして操っていた輩を、何処の誰が好き好んで招き入れるというのか……少し考えれば分かると思うことだが、まるで自分達が被害者と言わんばかりの態度と言動の方が、よほど理解しがたい」

目を細め、アスラはカロウ・ヴを見下ろした。
その顔には、嘲笑と思しき笑みが滲む。

すく開いた唇は、片端を吊り上げる。

「むしろ滑稽な話だ」
「……」

カロウ・ヴがぴくりと眉を吊り上げ、その瞳から無邪気さが消えた。

「偉そうに。前から気に食わなかったんだ、あんたの偉そうな態度」
「……」

ゆっくりと、アスラが瞬きをする。
太陽に溶け込んでしまいそうな金の髪が穏やかな風に揺れていた。

カロウ・ヴは思い付いたように、再び無邪気な笑みを浮かべて身を乗り出す。

「そうだ、いいこと思い付いた。同じセラフィムのあんたを僕があっさり倒して、そっちの使徒も何人か殺してやれば、アジアの連中も僕の方が凄いって分かるよね」

無邪気な笑みと無邪気な声で、カロウ・ヴは名案に対する同意を求めてくる。
アスラはもう一度、静かに瞬きをした。

「そしたら、アジアの連中だって僕を大歓迎でしょ?じゃあ、早速どっちが強いか試してみようよ」

アスラはカロウ・ヴから顔を背ける。
さも憂鬱気に、目の前をそよぐ髪を片方耳に掛けた。

そんなアスラに、カロウ・ヴは不思議そうに無邪気な瞳を瞬かせる。

「あれ?あんまり乗り気じゃない?それとも――あ、そうか!」

口角を吊り上げ、カロウ・ヴは笑った。

「なんだ、僕に負けるのが怖いんだ。そりゃ、今まで一番だった奴が僕より格下だって周りに知られるんは屈辱だろうね。あはは、気の毒ー」

カロウ・ヴの笑い声が響く。

空を雲が流れていった。
潮の音が静かに耳に届く。

アスラは深々とため息を漏し、ゆっくりとカロウ・ヴへと顔を向けた。

「よく喋る口だ」

見下すように向けられた眼差しは氷のように……。
柔らかな金の髪がさらさらと揺れるが、今はその動きすら冷やかに映った。

「その程度の挑発に僕が乗ると思っているのか?」

むっとした面持ちになるカロウ・ヴの銀の髪が風に靡く。
その手の中にある薙刀は、透明な色をしていた。

「同じ使徒というならば、ひとつ……今後の貴様の為に言っておいてやろう」

眉を顰めてアスラの言葉に耳を傾けるカロウ・ヴの周囲を、パキパキと氷の枝が腕を伸ばしていく。
アスラの周囲もまた、波打つように歪み始めていた。

「そのよく回る口は、貴様がいかに軽薄で愚かな人物であるかを周りに教えるだけだ。あまりしゃべらない方が身の為だと言っておこう」

柚は艦の手摺に掴まりながら顔を引き攣らせ、淡々と喋るアスラを見上げていた。
イカロスならば笑顔で言いそうな嫌味の羅列だが、尊大な態度で語られるアスラの言葉は暴力だ。

極めつけにアスラはふっと口角を吊り上げ、鬱陶しく揺れる髪を払い除けた。
その手は流れるように動き始める。

「それともうひとつ。貴様は俺が偉そうだと言っていたが、それは貴様が俺よりも格下だという自覚があるからそう感じるのだろう。実に気の毒なことだ」

言葉と共に翳されるアスラの手。
怒りに顔を真っ赤に染め上げて飛び込むカロウ・ヴ。

二人のセラフィムが衝突すると、轟音が響き渡り、空は再び激しい戦場と化した。

「……根に持ってる」

柚はアスラの力とカロウ・ヴの力が衝突した余波の風を浴びながら、呆れた面持ちで呟く。
フェルナンドも手摺に掴まりながら、呆れたように空へと半眼を向けた。





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