ハーデスは空間を自由に移動することが出来る。
壁などを通り抜けることは出来ないが、微弱ながら進行方向にある障害を見通す目を持つ。

踊るように空間を跨ぎ、跳び、ハーデスが着地した木がしなる。
木の頂上近くに休んでいたカラスが驚いて飛び立っていくので、ハーデスは笑みを浮かべながら「ごめんね」とカラスに声を掛けたがカラスは振り返らない。

枝に手を掛けて、体を固定して自分が自由に行動できる基地内に広がる緑の森を見渡す。

風が気持ちいい、空気も澄んでいる。
喜びに溢れる愛しい世界。

ハーデスは木の上から姿を消し、いつもの定位置で眠る仲間の元へと跳んだ。

そして今日も、柚の話をする。

彼女は恋人という対象で自分を愛してはくれないが、家族のように愛してくれている。
その喜びを自分の中に留め置くことは困難で、誰かに語らずにはいられない。

そんなハーデスにとって、ユリア・クリステヴァは良き話し相手だ。
同時に、ユリアは聞けばハーデスが抱く疑問に答えをくれる。

「ってかんじで……フェルナンドが顔を真っ赤にして怒ってた」
「へえ、それはそれは気の毒に」

夏の日差しから隠れるように、屋上の日陰に寝転がるユリアは、くすくすと斜に構えた笑みを漏らした。
ことの顛末を語り聞かせたハーデスは、長い前髪の間から、そんなユリアの反応に首を傾げる。

「ユリアは、ライアンとフェルナンドのどっちが悪いと思う?」
「ハーデス、喧嘩っていうのは一人じゃ出来ないものさ。つまり、誰にも非はあると思うけどね。僕を除いて」
「どうしてユリアは除くの?」
「何故って、世界は僕を中心に回ってるからだよ」
「そうなんだ」

ハーデスにとって、ユリアの言葉は全て正しい。
ライアンズがここに居れば、即座にユリアの言葉を否定したであろうが、惜しまれることにライアンズはここに居ない。

そのライアンズはというと、ライアンズは遊戯室のソファに焔と共に、ぶすっとした不機嫌な面持ちで座っていた。
二人で座っても十分に余裕のあるソファにも関わらず、二人は互いに十分過ぎるほど距離を置いて座っている。

その前には、やはり不機嫌を露わにしたフェルナンドが腕を組んで立ち、そんなフェルナンドから距離を置き、素知らぬ面持ちで口を尖らせている柚。

ライアンズは額に手を当て、長々とため息を漏らした。

「最ッ悪だ、お前等」
「お前等だって!?まるで僕達が全面的に悪いみたいな言い方じゃないか!先に手を出してきたのはそっちだろう!」
「てめえが人様の神経を逆撫でするような事ばっかり言ってやがるからじゃねーか!」
「あー、もうやめろよ。耳が痛ぇ……」

焔がうんざりした面持ちで耳を塞ぐ。

そんな焔の左手には手錠が掛けられ、ライアンズの右手に掛けられた手錠に繋がっている。
そして同じく、柚の左手にも手錠が掛けられ、フェルナンドの右手に掛けられた手錠に鎖で繋がっていた。

「この訓練方法は、落ちこぼれの為に用意されたメニューだぞ。よりにもよってこのっ、この僕がッ……」

フェルナンドはわなわなと体を震わせる。
今にも屈辱のあまりに泣き出しそうな顔だ。

そんなフェルナンドを引き攣った顔で見上げた柚だが、柚が口を開くよりも早く、ライアンズが大いに不満そうに肩を竦める。

「うるっせぇな。お前はいいじゃねーか。一応、そいつ女だぞ?下手すりゃタダで覗き放題だろ。俺なんてこの可愛げがない仏頂面の後輩だぜ?」
「タダじゃなくても覗かせてたまるか。一応ってところが気に掛かるが……まあ、ライアンと焔は悲惨だな。うーん、でも確かにこれ、トイレとかお風呂とかどうするんだ?」

柚がはっとした面持ちで顔を上げた。

「そりゃ決まってんだろ。まあ、フェルナンドとよろしくやれよ」

ライアンズが他人事のように柚に笑い、フェルナンドの肩を叩く。

「お前もうっかり襲うなよ?」

前科があることを知らずに冗談のつもりで言ったライアンズだが、残りの三人は全く笑うことが出来ない。
当人である柚を差し置いて、心なしか青褪めた焔がおろおろとソファから立ち上がる。

「おっ、おい、本当に大丈夫なのか?やっぱり、まずいんじゃ……」
「何慌ててんだよ!お前って、結構分かりやすい奴だよなー。いくらなんだって大丈夫だって」
「い、いや、けど。ほら、一応、なあ?配慮というか、その」
「お前、相手はフェルナンドだぜ?逆立ちしたって柚に欲情するかっての。いいからお前は自分の訓練に集中しろ。覚悟しろよ、ついでにこき使ってやる」
「いやいや、だから――」

焔を引き摺るようにライアンズが遊戯室を出ると、思い出したように顔のみをだし、「喧嘩すんなよ」と念を押して去っていく。

「焔は心配性だな」

柚は腕を組み、苦笑混じりに呟く。
フェルナンドは柚を見下ろし、顔を背けた。

「君は呑気だな。彼の反応が正しいよ。君は心配じゃないのかい?」
「え?何々?フェルナンド、私を襲うのか?」
「はぁ……」
「嫌そうな顔でこっち見ないでもらえますー?」

柚が口を尖らせ、不服そうに文句を言う。

「君は、本気なのか、冗談で言っているんだか……時々よく分からないよ」
「……」
「第一、普通はあんなことをされた相手に近寄らないものだ」

フェルナンドは柚に背を向けて呟くと、柚に振り返らないまま出口へと歩き出す。
不機嫌を露骨に晒す背中は、柚の答えどころか喋る事すら許さないかのようだ。

「まあ、安心すればいいよ。君のがさつな性格を知ってしまった今となっては、とてもそういう気分になれやしないさ」
「そりゃあー、どうも」
「なんだい、不満そうじゃないか。ま、少しは女らしくしてみればマシになるんじゃないのかい?」
「……」
「まあ、今は君の外見に騙されて勝手に幻想を抱いた連中にちやほやされてるようだけど、せいぜいボロを出さないように気をつけることだね。君の性格を知った上で君みたいな女を好きになるような奴は、世間知らずな研究所育ちの連中くらいさ」
「……」
「君の本性を知れば、ファンだのなんだのと騒いでる人間達も、騙されたと怒るだろうよ。全く、最初はこんな女だとは思わなかったよ。とんだ詐欺だ。ああ、勘違いしないでくれよ?僕は別に君に好意をもってあんなことをしたわけではなく、あくまでも利用する為に――ふぐっ!?」

ぽんっと肩に手を置かれ、振り返った瞬間、フェルナンドの顔に柚の拳がめり込み、フェルナンドの体が軽く地面から浮いた。

「なっ?は?」

突然の暴力に、フェルナンドは痛む顔を抑えながらも理解出来ないかのように、頭の上に疑問符を浮かべる。
フェルナンドの前に、怒りの形相を浮かべた柚が拳を戦慄かせた。

「どいつもこいつも、顔と中味が違うだのガッカリ詐欺だのと、余計なお世話だ!私がこういう性格でお前にいつ迷惑を掛けた!」
「今、まさに迷惑こうむってるだろ!?なんで君達はすぐそう手が出るんだ、野蛮にも程がある!」
「ふんっ、言葉だって十分暴力だ」
「君は言葉も手も出てるじゃないか!?」

怒声を上げたフェルナンドは咳き込み、ようやく落ち着くと深いため息を漏らす。

「もう疲れた。最悪だ、一人になりたい」
「残念。もれなく、可愛い柚ちゃんが付いてきます」
「僕の耳はおかしくなったのだろうか……怒鳴りすぎて喉が痛い、頭も痛い、君に殴られた顔も痛い」
「はいはいごめんね。ところで部屋に戻りたいのは私も同じくなんだけど、どっちの部屋に戻ればいいんだ?」
「……」

柚は床の上に座り込んでいるフェルナンドの隣にしゃがみ込み、首を傾げた。
フェルナンドが憂鬱そうにため息を漏らし、軍服の埃を払う。

「僕は君の部屋なんて嫌だ。だからといって、君に僕の部屋をずかずかと踏み荒らされるのも嫌だ」
「私をなんだと思ってるんだ……まあ、いいけど。私はどっちでもいいからフェルナンドが決めてくれ。でもフェルナンドの部屋にするなら、必要なもの持ってくるから、一応私の部屋にも寄ってね」
「……はぁ。君、お泊り会か何かだと勘違いしてないかい?」
「安心しろ。勘違いしてたら、少なからずお前の部屋じゃなくフランとか双子の部屋に行ってる」

痛む頭を押さえ、フェルナンドは再び大きく長いため息を漏らし、項垂れる。

「君、馬鹿じゃないのかい?いや、馬鹿なのは知っていたけどね」
「本っ当、フェルナンドは性格が悪いな。いや、前から知ってたけど」

投げれば次から次へと返ってくる憎まれ口。
顔を引き攣らせるフェルナンドに、柚はにっこりと微笑みを向けた。



その頃、東館を離れた中央塔の階段では、階段を上るアスラを呼び止める声が反響して響いた。

「元っ帥!ローウィー教官から聞きましたよ!フェルナンド君と柚君に共同生活を強いたそうですね!」
「……それがどうした」

アスラは階段を上りながら、ヨハネス・マテジウスへと振り返りもせずに返事を返す。

ヨハネスは眼鏡を押し上げながら、アスラに追い付こうと必死に小走りについて来る。
いつもは遠慮がちに意見をするヨハネスの怒った様子を、アスラは軽く流す。

「いくら訓練とはいえ、男女ですよ?プライバシーや配慮はないんですか?」
「そんなものはない」
「で、ですが!もし何か間違いでもあったらどうなさるおつもりですか?失礼ながら、元帥はその、柚君のことを想ってらっしゃるのでしょう?それでいいんですか」
「ヨハネス……」

アスラが踊り場で足を止め、ため息交じりの名前を呼ぶ。
初めて振り返ったアスラの顔に浮かぶ微かな不安に気付き、感情的になって抗議に走ったヨハネスも、冷静さを取り戻す。

「常に誰かが一緒にいて守ってやれるわけでもない。本人もそれを望まない。自分の身は自分で守らなければならない、戦場に出る者の最低限の心得だ。個人的な感情や女だからという理由で特別扱いし、後から後悔はしたくない」
「元帥……」

ヨハネスが感動した面持ちでアスラの顔を見上げた。
だがその感激も一瞬で覚めやり、ヨハネスの顔から眼鏡がずり落ちる。

「まあ、柚に何かしようものならば力と権力を余すことなく使い、二度とそんな気が起きないよう去勢してやる」

冗談なのか本気なのか――確かめるまでもなく本気だとは思うが――アスラはくつくつと薄く笑みを漏らす。

(ああ、いつも感情に乏しかった元帥が笑っているのに、笑っているのに……)

顔が邪悪だ……と、ヨハネスは心の中で呟いた。





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