29


晴天の空と蒼い海は決して溶けて交わることはなく、目前に広がっていた。

青く澄み渡る穏やかなセレベス海は、右を見ても左を見ても何も見えてこない。
鳥の姿すらないほど沖に出ると、後はひたすら海しか存在しなかった。

そんな中を、アジア帝國海軍の艦隊が波を立てて進んでいく。
イージス艦とそれを囲む四隻の護衛艦は物々しく、穏やかな海を我が物顔で闊歩する様は嵐の前の静けさを感じさせた。

「うわぁ、早い」

柚はイージス艦のデッキを歩きながら、感嘆の声を漏らした。
すると、マストの頂上から声が降ってくる。

「柚、こっちこっち」
「え、そんなとこ上っていいのー?」

声のする方を見上げた柚は、マストに腰掛けるガルーダを見て問い返す。
返事はなかったが、小さく見えるガルーダに手招きをされ、好奇心に負けた柚はマストを登った。

「風強いっー」

スカートを押さえて柚は、歯をガチガチと鳴らす。

ガルーダは笑いながら柚に手を伸ばした。
柚はその手に掴まり、マストの上に降りる。

「他の皆は?」
「フェルナンドは船酔い中。アスラは偉い人と話してて忙しそうだし、ハーデスは何処かふらふらしてるみたい。誘ってくれればいいのに」
「あれ、それって俺に言ってる?」
「言ってる」

柚は口を尖らせ、ガルーダをねめつけた。

「だって一応海軍の人達も同じ軍人さんなのに、私達なんか観光に来た一般人みたいに浮いてるし。すごーく邪魔ってオーラを感じるし、さすがの私も一人じゃ歩き回り辛い」
「戦闘になれば逆転するって」
「それもあまり嬉しくないけどな」

柚はため息を漏らして、頬に掛る髪を指で払う。
元気には見えるが何処か元気のない、愁いを帯びた赤い眼差しは、地平線を見つめている。

そんな柚に視線を落としたガルーダは、目尻に涙を溜めて柚を抱きしめた。

「柚ー、ごめんよー!」
「え!?何!いきなり何!?っていうか落ちるから!」
「だってさー、イカロスに怒られたんだよー。俺がしっかり見てなかったから柚のコピーなんて創らせたんだって!」
「え、そっ、そうなの?」
「オーストラリアに行った時、柚がゲシュペンストって使徒に一瞬触られたでしょ?多分、それが原因だって……」
「そう、だったんだ……でもそれって私の不注意だよな。尉官のせいじゃないよ、尉官はちゃんと注意してくれてたもん」

柚は改めて大きくため息を漏らし、さも憂鬱そうに頬杖を付く。

指先で髪をいじりながら、柚は海の向こうを見やった。
使徒を乗せたオーストラリア艦の姿は、まだ見えてこない。

「そう言われると、ものすごーく油断してたんだなって思う」

猫のような目を瞬かせるガルーダに、柚は力のない苦笑を向けた。

「油断っていうのもあるけど……信じてたんだよ。だからこんなことになって、そういう意味でもショック」
「そっかそっか。やっぱりごめんな」
「ううん。でも、もしかして尉官はそれずっと気にしてたの?」

柚の問い掛けに、「それだけって訳じゃないけど」と呟く。
いつもの無邪気さは何処へやら、ガルーダはよほど責任を感じているのか、萎れていた。

「最近俺だめなんだ、なんかもうこういうのスランプって言うのかな」
「デスクワークばっかりしてたからじゃない?」
「そうかな?やっぱ俺、そういうの向かないんだよなぁ。そもそもそういうのはイカロス向きなんだよ。だから俺尉官にしてもらったのに……」
「え!?そうだったの?」
「うん、知らなかった?」

あっさりと頷くガルーダに、柚は驚いたようにしみじみとガルーダの顔を見る。

尉官のガルーダは現場に派遣されて直接指揮をとるなどの任務が多いが、将官のイカロスは主に組織内の指令や参謀的な役割を担っていた。
どちらかといえば、イカロスの役割はアスラのサポートに近い。

「言われてみれば、尉官にはイカロス将官みたいなのは向かないかも……」

イカロスが倒れてからの数ヶ月間、イカロスの代わりを務めたガルーダを、いつもライアンズやフェルナンド、ジョージが怒りながら追い立てていた。
その三人の補佐がなければ、アスラが過労で倒れていたかもしれない。

納得する柚の言葉に、ガルーダは怒るでもなくしみじみと、「柚もそう思うよな」とため息を漏らす。

「俺ってさ、実はすごぉーく役立たずなんじゃないかと気付いた」
「えぇ!?ちょっと、尉官どうしちゃったんだ?」

ため息と共に呟かれた思いがけない言葉に、柚はおろおろとしながらガルーダの顔を見た。

体温の高いガルーダの体が密着しており、寒さも薄れつつある。
いつもと全く違うガルーダの雰囲気に、柚は戸惑うばかりだ。

「だって、デスクワークやっても皆にここは違うとか、いい加減にしろとか散々怒られるし」
「主にフェルナンドに?」
「そう、フェルナンドに。皆が不安な時とか、俺イカロスのように皆の気持ちを宥められないし、結局イカロスに泣き言言いに言っちゃったし、起きたら起きたでイカロスに早速怒られたし」
「うわぁ……尉官が落ち込んでるの初めて見た」
「うう、柚ってば他人事だと思って」
「ごめん。つい」

柚は慌てて苦笑を向ける。

「尉官でも落ち込むんなら、私なんて尚更落ち込むこと沢山だよな。なんか安心した」

そんな柚は腕を組み、納得したようにしみじみと頷いた。

編まれたおさげが風に靡いている。
まるで、ガルーダに抱かれて初めて空を飛んだ時を思い出す。

柚の目に映る彼は強く堂々としており、自由で奔放で天真爛漫……まるでトラやヒョウのようだった。

「尉官のように前向きに、いつも堂々としていられたらなって思うよ」
「柚だってそうだと思うけど?」
「そうかな?でもやっぱり、何処かで弱音を吐いてたり、一人で落ち込んでる時もあるんだ。そのたびに周りの人達に励まされてるけどね」

柚は苦笑を浮かべ、拗ねた口調で返すガルーダにを笑う。

「尉官とかになると、そういう弱音も周りに言えなくて大変だよな」

ガルーダの弱音など、一度も見たことはない。
それはきっと、イカロスにしか見せないのだろうと思っていた。

それが何故自分に、弱音をみせてくれたのは分からない。
だが、伝えられることは確かにそこにあった。

「皆別に、尉官のこと役立たずなんて思ってないよ。むしろ、尉官がデスクワークしてたことに同情してたと思うけどな?」

戦場では誰もがガルーダを頼りにしている。
ガルーダが大人しく椅子に座り書面と向き合う性格でないことなど、皆理解している。

「得意なことや苦手なことがあるのは当たり前なんだし、そういうのを生かしてガルーダ尉官が尉官になったんなら、尉官の見せ場はここからでしょ?」

柚は普段ガルーダが笑うように、にっと口角を上げた笑みを向けた。

ガルーダには似合わないデスクワークなどして欲しくないのかもしれない。
周囲を巻き込む無邪気さは時に迷惑ではあるものの、やはりいつものように生き生きと笑っていてほしいと思う。

「ゆずー!」
「痛い痛い」

力を込めて抱きしめてくるガルーダに痛いと言いながら、柚は笑い声を上げる。

すると、ガルーダがぴくりと動きを止め、柚の隣に視線を向けた。
空間にノイズが走り、ふわりとハーデスの足がマストに付く。

「ガルーダ、柚」
「あ、ハーデス」
「レーダーがオーストラリアの機影を捉えたって」

ハーデスの言葉に柚の体が緊張に強張り、ガルーダが「ふっ」と口角を釣り上げた。
狩りを楽しむような瞳が弧を描き、のそりと緩慢な動きでガルーダは立ち上がる。

「ん、リョーカイ。さーて、はりきってオーストラリアの連中にお灸をすえに行きますか」
「頼もしいな」

柚は苦笑を浮かべて立ち上がった。
そんな二人に、聞いている者など誰もいないが、ハーデスは声を落として告げる。

「その前に、アスラが話があるって。部屋の方に来てって言ってる」

ガルーダと柚は顔を見合わせた。

待機室に向かうと、心なしかげっそりとした顔色の悪いフェルナンドが、開口一番に「遅い」と吐き捨てる。
そんなフェルナンドに、柚は呆れた顔を向けた。

「まだ船酔い治らないの?」
「うるさい。僕は誰かさんと違って繊細に出来てるんだ」
「繊細だろうがなんだろうが、いざというときにそんなんじゃ意味ないよね……」
「んァ?何か言ったか、死神」

ぼそりと呟いたハーデスを、眼光を光らせたフェルナンドが睨み返す。
アスラがため息を漏らし、部屋に入ってきた三人の顔を見回した。

「やめろ」
「で、オーストラリアは?」
「亡命したいから保護しろと言ってきているらしい」

アスラは凭れていた壁から背中を浮かせると、淡々とガルーダの問いに返す。

部屋の中央へと足を進めると、自然に残りの四人はアスラの周りに集う。
広い部屋の中、四人は楕円を作り、アスラの話に耳を傾けた。

「亡命って……どうするんだ?」
「無論、受け入れるわけがない」

柚の問いにきっぱりと返したアスラは、「と言いたいところだが」と、付け加えた。

「オーストラリアから寄せられた情報によると、逃亡した使徒は全部で五名。中にはカロウ・ヴとコピー能力者と思われるゲシュペンストがいる。コピー能力者のみ捕える、上からの命令だ」
「殺したり引き渡したりしないの?ところでコピー能力者って、本当にゲシュペンストって人?」
「恐らく間違いない。コピー能力者の捕縛はあくまでも極秘に行う」

首を傾げるハーデスに、アスラは視線のみを向けて返す。

「コピーの力が欲しいんだ……」
「当然、魅力だろうね。"ヘレネス"の出来にもよるだろうけど」

柚の呟きに、フェルナンドは肩を竦めた。

ゲシュペンストの力があれば、柚一人に頼らずに子供を増やすことも可能になる。
上級クラスの使徒を量産することも可能かもしれない。

ただし特種な力であればあるほど、その力の発動等に条件が付きものになるのが一般的だ。

柚が複雑そうに眉間に皺を寄せて押し黙る。

「ヘレネスは……乗ってるのかな?」
「恐らくな」
「私と同じ力、持ってるんだろうか」
「それは分からない。もし持っていたとすれば……こちらに不利になる」

アスラははっきりと告げ、ここに集まる者達の顔を見た。

土地によって、生まれやすい能力属性が変わってくる。
アジアは主に火系が多く、ユーラシアは風系の能力者が、そしてオーストラリアは水系の能力者が多い。

海が戦場になる以上、水属性が多くいればその分脅威となってくる。

「それともうひとつ、オーストラリアの艦を絶対に攻撃するな」
「え?」
「攻撃しないでどうするの?」
「下手に艦を沈め、兵とはいえ人質に何かあれば、オーストラリアとの関係が悪化する可能性もある。それを政府は望まない」

柚が首を傾げ、ハーデスが不満そうに眉を顰めた。

「あくまでも領海に入れず、転針させるだけでいい。いいな、柚?」
「えっ、なんで私だけ名指しなの?」
「お前が一番の不安要素だ」
「何それ、反論出来る言葉がないんだけど!?」

柚がショックを受けていると、部屋の通信機が鳴る。
近くに居たガルーダが答えると、アスラへと振り返った。

「オーストラリア艦を肉眼で確認したって。転針要請には応じる気配がないから威嚇射撃に入るってさ」
「了解したと伝えてくれ。ブリッジに寄ってから俺も行く、お前達は先にデッキで待機しろ」

空気が引き締まる。

柚は自分の心臓の鼓動を聞いた。
微かに手が震える。

(ヘレネス……)

唇を真一文字に引き結び、震える拳を強く握り締めた。
柚はデッキに向けて、大きく足を踏み出した。





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