28


「お前が俺からの特別な扱いを嫌うことを理解している」

アスラは前を見据えたまま、柚と目を合わせずに告げた。

「だが俺はお前を愛しているから守りたいと思う。それは俺自身の問題だ」

柚が大きく瞬きをする気配がする。
柚は顔を俯かせた。

「俺はそうしないようにいつも自分自身を戒め、判断してきたつもりだ……あの時俺は、自分に負けた」

目を合わせようとしないのは、アスラ自身、気まずい思いがあるかのようで……。
言葉の端々に、悔いるような苦々しい想いが滲んでいるように思えた。

柚は俯いたまま、小さく唇を噛む。

(ならやっぱり、ニエを……殺すことを決めたのは、アスラなんだろうか?)

喉まで出掛った言葉を聞く勇気はなかった。

昨日、部屋でフランツにニエが処分されたことを聞いた。
その瞬間から、アスラが自分の為にその決定を下したのではないかという考えが過り、そんなはずはないと思いつつも信じ切れていない自分がいた。

「お前の言う通り、俺は命令がなければ動けない。なんとかする……などと言ったところで、それはただのその場しのぎの気休めだった。実際に俺が道理を捻じ曲げて何かをしたところで、お前はそれを喜ばない」

柚は俯いたまま、僅かに目を見張る。
心臓が一度だけ、大きく撥ねた。

思わず顔を上げてアスラの顔を見ると、アスラから小さく、息を吸い込む音が響く。
彷徨うように頼りない迷子の眼差しで、アスラは吸い込んだ息を吐き出した。

そしてはっきりと嫌悪に表情を歪め、言葉を吐き出す。

「だから俺は、悔しかった……」

そんな壁を簡単に超えてしまえる焔が、あの芯の強い眼差しが羨ましかった。

眉間に皺を寄せた難しい顔は、何処か泣き出しそうに――…。
アスラは自分を責めていた。

「……アスラ」

柚は無意識にそっと、アスラの左手に手を伸ばす。
自分よりもずっと大きな手と自分の手が重なり、並んだ。

「大きな手だな」
「……そうか?」
「うん……」

指先が触れると、アスラの手が柚の手を交わし、指先を包み込むように触れ返してくる。

「こういう時いつも、アスラは私が思ってる以上に私のことを考えてくれてるんだなって、思うんだ」

そしていつも思う。
いつか自分はアスラの気持ちに応え、今まで与えられたモノを返していけるだろうか?

ニエの処分を決めたのは、彼ではないのだと……はっきりと感じた。
もしその決定にアスラが関わっていたとしても、アスラには恐らく、どうすることも出来なかった。

どうしてこうも容易く、アスラを疑ったのだろう?

「ありがとう」
(ごめんね……)

自分の口から発せられる言葉が胸を締め付ける。

こんな風に想ってもらえる自分は、本当に幸せ者だと思う。
アスラと同じくらいの気持ちを持って彼を愛することが、唯一の恩返しに思える。

アスラの想いの大きさに気付けば気付くほど、胸が苦しい。

(きっと私は、焦ってるんだな……)

静かに瞼を閉ざし、思い通りにならない自分の心にため息を漏らした。

ひどく無気力で、憂鬱な気分だ。
そのままの足でイカロスのいる病棟へと向かったものの、部屋の中に入るにもなかなか決心が付かず、時間が掛かった。

やっとのことで病室に入った柚に、イカロスは懐かしさすら感じる穏やかな微笑みを向けてきた。
イカロスが笑うと、穏やかに弧を描く若葉色の瞳が綺麗で、とても落ち着いた気分になる――それは、普段はの話なのだが……。

「呼び出して悪かったね」
「ううん」
「それと申し訳ないんだけど、もう少しこっちに来てくれないかな。非常に話辛いんだけど……」
「無理」

即答が返ってくる。
柚は病棟の個室のベッドの隣に立てかけられた布製の衝立の陰からは出てこようとせず、じっとこちらを見ていた。

イカロスは引き攣った笑顔で、それ以上の行動を諦める。

「あのね柚ちゃん。一昨日見せたのは、俺としては見たっていうか、頭に直接その映像が流れたって感じだから、別にそんなに映像を観るようにまじまじと意識してみたわけじゃないというか、なんて言うんだろうね。説明に困るけど、断片的に一瞬一瞬が強調されてすぐに消えてくけど、大体なんとなく理解したっていうような――」
「いやあああ!もういい、もういいからそれ以上言わないでぇええ!?」
「あ、いや……」
「恥ずかしさで死ねる……」
「ご、ごめん……」

衝立のカーテンの陰で、柚のシルエットが悶絶している。
イカロスは顔を引き攣らせたまま、萎れた声で項垂れた。

すると衝立から、柚の手が「待って」と言わんばかりにびしりと突き出される。

「いや、謝ってくれることは何一つないんだ。ただ、私の個人的な感情の問題であって、えっとね、つまりね……そう、例えるならそういうシーンをうっかりママに見られちゃった的な気まずさで」
(柚ちゃんの中の位置付けでは、ママなんだ……自分ではお兄さんくらいに思われてるつもりだったんだけど……)
「イカロス将官の顔が見れませんっ!!」
(手違いでフェルナンドも見てたとか、あの後アスラにも見せたって言ったら、俺殺されるな……)

心の中で相槌を打ちながら、イカロスは密かにため息を漏らした。

「イカロス将官は、あ、"あれ"を見て怒ってくれて、カロウ・ヴと揉めてあんな大怪我したわけで、それなのにこんな態度しか取れないでごめん。ついでに暴走して巻き込んでごめんなさい」
「ああ、うん。あれは本当死ぬかと思った」
「ごご、ごめんなさい」
「責めてるわけじゃないよ。死ぬかと思ったのは本当だけど」
「うっ!?」

柚が衝立からおずおずと顔を半分出して、じとりとイカロスを見上げてくる。
イカロスが小さく噴出し、声を上げて笑い始めると、柚は複雑そうに口を尖らせていた。

「俺も、いくらなんでもあんな記憶を本人に見せるつもりはなかったんだ。なんでもう少し冷静に考えて行動しなかったんだって反省してる」
「……いや、よく分からない。知りたくなかったけど、知らないのもちょっと。あれを見た上で感じたショックや怒りは、中途半端じゃいけないと思うんだ」
「ご両親の為にも?」
「うん……」

(そして、その時感じた感情の大きさが分かるのは本人だけ、なんだろうね)

その壁をすんなりと乗り越えてしまえる焔は、アスラを応援する自分としては複雑だが称賛に値すると思う。

アスラは超えられなかった。
柚の気持ちを、今でも何処か疑問に感じている。

アスラにとって柚とヘレネスはあくまでも別人であり、いくらコピーとはいえ、柚とカロウ・ヴの間にそういった関係があったとは決して繋がらない。
女という生き物が、想う相手のみに拘る気持ちがどれほど大きなものかも、あまり理解出来ていない。

結局のところ、アスラは柚がコピーを創られたことに対して腹を立てている――だが柚の態度ではそれだけではない気がする、それが何かが分からない……という考えに留まっていた。

(相手と同じくらい強い気持ちでなければ、その言葉は届かない……か)

イカロスは小さなため息と共に考えを遮り、話を切り替える。

「ところで、柚ちゃんを呼んだ用件なんだけど、これのお礼がいいたかったんだ」

イカロスはベッドの隣の机から、歪んで潰れた小さな箱を取り出し、柚の方に向けた。

イカロスの誕生日プレゼントにとラッピングされていた小箱は水に濡れてふやけてしまい、乾かした後も原型を保っていない。
泥に汚れたせいで薄く茶色に染まり、リボンなどどこにも見当たらなかった。

「あ!あ、あー……う、私のせいだな。ごめん」
「そうじゃなくて……」
「最初はちゃんとプレゼントっぽくリボンが付いてたんだ。皆で選んだんだよ」
「うん、分かるよ。目に見えるものが全てじゃないからね」
「え?」

イカロスは静かに目を細め、箱に触れる。

「俺のことを想って贈られたものだって分かる。温かくて優しい感じがするんだ」

柚は不思議そうに目を瞬かせていた。
そんな柚に、イカロスは穏やかな微笑みと共に問い掛ける。

「開けてもいいかな?」
「え、開けてないの?」
「一応、断ってからと思って」
「中身大丈夫かな……怖いけど、どうぞ」
「うん」

イカロスはそっと、箱の蓋を開けた。

パラパラと、乾いた砂が零れ落ちる。
中は箱の外観ほど汚れておらず、緑色の天然石のピアスが出てくる。
太陽の光を受けて澄んだ若葉のように輝く石は、何処か優しい光を宿していた。

「壊れてない、よかった」

いつの間にか隣で箱の中を見下ろす柚は、ほっと安堵のため息を漏らす。

「あのね、ペリドットっていう石なんだ。イカロス将官の目と同じ色だと思ったから」
「そっか。綺麗だね」
「イカロス将官、いつも片方だけ髪を耳に掛けてるでしょ?お見舞いの時、髪を掛けてない方の耳にピアスが見えたから……なんで片方だけなんだろうって思ったら、なんとなくピアスが頭から離れなくなって」

そこまで言った柚は、慌てて手を横に振った。

「あ、でも!無理に付けてとは言わないから。いつも付けてるピアスには、何か意味がある大切なものなんだろうなって思ったから」
「ああ……これはね」

イカロスは苦々しく苦笑を浮かべ、指先で耳朶に触れる。
普段は髪に隠れたピアスが、控えめに姿を現す。

ピアスと同じ色の瞳を細め、イカロスは静かに言葉を発した。

「母の物なんだ」
「え?」
「ある日、研究員にこれだけ渡されたんだ。多分、実験的な意味で渡したんだろうな……それから、捨てられない」
「なっ、なんで捨てるの!」
「うーん……こんなこと言うと引かれちゃうかな。でも、まあ……一言でいえば、愛してくれなかったから」
「将官……」

くすくすと、懐かしそうに笑う。
その代わりとばかりに、柚の顔が悲しげに歪んでいた。

「いいんだよ、俺は今十分幸せだからね」

イカロスは苦笑を浮かべる。

「俺からすれば、母親と過ごした時間よりも仲間と過ごした時間の方が長い。嫌われていることもこの力のせいではっきりと理解していたから、割り切りも付いたし」

ぽんっと、手のひらが柚の頭を撫でた。

まるで、柚が悲しむことは何一つないのだと、柚を励ますかのように。
イカロスは幸せそうに微笑んだ。

「自分でもよく覚えてないけどね、眠っていた間、ずっと暗闇のようなところを彷徨っていたんだ」

柚が目を瞬かせる。

「何処が出口か分からなかったけど、たまに声が聞こえてくるんだ。その声は多分、お見舞いに来てくれてた柚ちゃん達のものだったんだなって、話を聞いて思ったよ。いつからか分からないけど、その声が聞こえる感覚が狭くなってきて、俺はその声を頼りに戻ってきたんだ」

コールタールのような黒い水の中で溺れながら、光に惹かれる虫のように……。
今はそんな自分のしぶとさが可笑しくもあった。

だが、仲間の声や想いは抗えない温かさを持ち、黒い水の中よりもずっと溺れていたくなる。

「ここから、俺が寝ている間にずっと聞いていた皆の声が聞こえる」
「あ、うん!全員にイカロス将官へのメッセージを込めてもらったんだ」
「皆って、よく玉裁やフェルナンドが協力してくれたね」
「頑張った!」

鼻息も荒く胸を張る柚に、イカロスがくすくすと笑みを漏らした。

「これのおかげで戻って来られたよ、有難う」

そこで柚が、はっとイカロスを見る。
火を吹くように顔を赤く染め、慌てて衝立の後ろに逃げ帰っていく柚に、イカロスは「柚ちゃんは相変わらずだね」と腹を抱えて笑い声を上げた。

「それと、今回の出撃。俺も行くよ」
「え、え!だって、イカロス将官、体は?まだリハビリの途中でしょ?」

柚が心配そうにイカロスを見上げる。
イカロスは頷き返すと、悪戯染みた笑みを返した。

「ちょっと、ライラに協力して貰うけどね。俺もやられっぱなしじゃあ、終われないからね」





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