27
その日、柚は夢を見た。
真っ白な、何もない世界の中にぽつりと座り込んでいる夢。
音も色もない、自分という存在すら希薄な世界だった。
とても疲れた記憶があり、虚無感と倦怠感が体の自由を奪っている。
まどろむようにぼんやりと座っている柚の耳に、少しずつ音が届いてきた。
とても覚束ない足取りで小さな子供が歩いてくる。
その後ろには、四つん這いで一生懸命歩いてくる赤ん坊がいた。
子供は柚の姿を確認すると、両手を広げて走りだす。
「ママ!」
「パーベル」
柚が足を踏み出すと、まるで何かから剥がれおちるように自分の姿が鮮明に浮き上がり、パーベルへと手を伸ばした。
柚はしゃがみ、パーベルを抱き止めると、パーベルは柚の首に腕を回して嬉しそうに笑い声をあげる。
そんな柚の足を、もう一人の赤ん坊が叩く。
「ソナン?」
「まあまぁ」
柚はパーベルを下ろすと、ソナンを抱き上げた。
(うわっ……)
褐色の肌に金色の瞳をした赤ん坊を見た瞬間、柚の脳裏には父親と思しき人物の顔が浮かんだ。
すると、ソナンが柚の顔にぺたぺたと触れてくる。
パーベルは座る柚の膝にしがみ付いて、柚の顔を覗き込んで首を傾げた。
「ママ、悲しい?」
「え?」
「でもパーベルはあの子、嫌いなの。ママのこと嫌う子は、パーベル嫌いなの」
「あの子って……」
「ニエお兄ちゃん」
にこりと笑顔で、パーベルは告げる。
柚は一瞬、ぞっとした。
「あの人も憎い?ね?パーベルの言った通り、良くないことが起きたでしょ?」
「パーベル……?」
明瞭な口調で、無邪気にパーベルが質問を投げ掛けてくる。
柚は思わず眉を顰め、パーベルを見た。
するとソナンが柚のそでを引く。
「まぁま、いじめた……」
「ママ、怒ってる」
「ゆるせないの……」
「ママを侮辱した」
「何、言ってるんだ……お前達、は?」
パーベルがお菓子を強請るように柚の腕を揺らす。
ソナンが純粋な瞳で見上げてくる。
「ねえ、ママ。ママを侮辱した奴、殺してよ」
「まぁまぁ、やっつけて」
くすくすと、笑い声が頭の中に直接響く。
――殺して!ママを侮辱した奴、やっつけて!
はっと目を覚まし、柚は目を見張った。
ぐっしょりと汗をかいており、気持ちが悪い。
無意識に止めていた呼吸に気付き、ため息のように息を吐き出す。
(夢、なのか……?)
嫌な夢だ。
ごろりと寝返りと打ちながら、柚は疲れた面持ちで瞼を閉ざした。
翌日、再びアース・ピースの基地は緊迫した空気に包まれた。
オーストラリア国籍の軍艦が四隻、アジア帝國に向けて進行中という情報が入った。
オーストラリア連邦に政府が確認したところ、一隻がジャックされたものであり、残りの三隻で追撃中という。
その数時間後、追撃中のオーストラリア艦隊から助勢要請が入り、事態は更に緊迫したものとなった。
逃走中の艦は追跡する艦二隻を沈め、尚もアジアに向けて侵攻している。
艦にはオーストラリアの兵が人質に取られているという報告があった。
そして艦を乗っ取っているのが、逃走した一部のアース・ピースの使徒である。
「現在オーストラリア国籍の駆逐艦は北北西に向けてバンナ海を進行中。このままの進路で来れば、マルク海、セレベス海を横断し、我が国の海域内に侵攻してくると思われる」
アジアとオーストラリアの中央に位置するインドネシアを中心とした島々は、現在人が住んでいない"非居住区エリア"だ。
戦争の爪跡が生々しく残り、復旧には多大な財源が必要となる為、手付かずの状態で放置されている。
「俺達は海軍と協力し、南シナ海に侵入される前にスールー諸島を最終防衛ラインとし、セレベス海で待ち構える」
ガルーダは、インドネシアとフィリピン南部に囲まれた海域を指す。
フィリピンの南東部に位置し、インドネシアとフィリピンを繋ぐ点線のような小さな島々がスールー諸島で、その中央に位置する島がホロ島だ。
スールー諸島の北はスールー海、南には島々に囲まれたセレベス海が広がる。
「柚お姉ちゃん?」
ぼうっとしていた柚は、隣からアンジェに声を掛けられ、はっとした。
「顔色悪いけど、大丈夫?」
「ごめん。大丈夫」
ズキリと頭が痛む。
声のようなものが聞こえた気がした。
だが、声とは分かるが言葉としては理解できない。
昨日の夢によく似ている気がするが、朝になると夢の内容はすっかり忘れていた。
「海上戦になる。対空戦が可能な者と水系の力を持つ者には前線に出てもらうことになる。各々そのつもりで準備をしておいて欲しい。以上、堅苦しい話は終了。んじゃ、解散!」
ガルーダは地図が表示されたボードを軽く叩き、明るく告げる。
ぞろぞろと部屋に戻っていく面々の中、焔が意気揚々と立ち上がり、廊下に向かった。
そんな焔に、晴れない面持ちのフランツが続く。
「よし」
「何がよしですか?」
「あ?」
「あ?じゃありませんよ。焔は自分も行く気満々のようですけど……あなた、今回の戦闘のフィールドが何処か理解してます?」
「それくらい分かってんに決まってんだろ」
「……はぁ。じゃあ、言ってみてください」
「海」
「そう、海ですよ。よく分かりましたねー」
「てめえ、馬鹿にしてんのか?喧嘩売ってんのか?カロウ・ヴの前にてめえで準備運動してやろうか、あァ?」
「やめてくださいよ、何処のチンピラですか。そうじゃなくて、そこまで分かっててなんで分からないのかこっちが聞きたいですよ」
フランツは廊下を歩きながらため息を漏らす。
焔は眉間に皺を寄せ、フランツを睨んだ。
「回りくどいな、何が言いてぇんだよ」
「だーから、あなた炎属性でしょう?炎属性は水の多い場所での戦闘は不利でしょーが。あなたとライアンは確実に外されてますよ」
「……は?」
「いや、は?じゃなくて……あなた本当に忘れてたんですか?」
「……忘れてた」
焔の顔が引き攣る。
「じゃあ何か?俺は今回留守番なのか?」
「そうでしょうね」
「それは困る」
「なんでですか?」
「あ、いや……それは」
フランツから顔を逸らし、焔は口籠った。
不思議そうに首を傾げているフランツに、焔はますます答えが返せなくなる。
(あいつに、カロウ・ヴぶん殴るって約束したのに……)
そこまで考えた焔は、柚がいないことに気が付いて足を止めた。
フランツも柚の不在に気付き、会議室へと振り返る。
すると目の前に影が掛り、顔を上げるとアスラと目が合った。
先程まで会議室にいなかったアスラが、無言で自分を見下ろしている。
焔は眉を顰めて無言で見上げ返す。
無表情なアスラと眉間に皺を寄せた焔の、まるで睨み合うかのような空気に耐えかねたフランツは、顔を引き攣らせて一歩足を引いた。
「え?何?なんですか?焔に何かお話があるなら、僕退席しますけど?」
「いや……」
アスラは静かに言葉を返し、踵を返す。
「確かに主な戦場は海になるが、最終防衛ラインのスールー諸島の中央に位置するホロ島には多くの火口が存在する」
「かこう?」
「火山のことですよ」
納得し掛けたフランツが、眉を顰めて尋ね返す焔に呆れ顔で耳打ちした。
アスラは肩越しに振り返り、淡々と告げる。
「配置によっては、あながち不利とは言えないかもしれないな」
「……」
焔は眉を顰めた。
アスラは会議室へと消えていく。
アスラは会議室のドアを潜ると、椅子にぼんやりと座っている柚に歩み寄った。
「柚」
「あ……アスラ」
「イカロスが少し話したいことがあるそうだ。時間の空いた時で構わない、行ってやってくれ」
「イ、イカロス将官が……?」
柚の顔が引き攣る。
アスラは首を傾け、柚の顔を見た。
「どうした?」
「いや、どうもしないんだけど……それより、あの、アスラ……一昨日は、ごめんなさい。すごく勝手なこと言ったと思う」
「……」
アスラは息を吐き、柚の隣の椅子に腰を下ろす。
パイプ椅子が小さく、軋んだ音を立てた。
「あのっ、あのね、別にアスラが何もしてくれないとか、そういうことを思ってるわけじゃないんだ」
「分かっている……」
静かにぽつりと、アスラの言葉は柚の言葉を遮る。
―NEXT―