25


(カロウ・ヴ!?)

銀の髪をひとつに結わえた十代か二十代そこそこの青年、世界中でも稀な第一階級の力を持つオーストラリアの使徒だ。
今自分は確実に驚いた表情をしているだろう……だが、鏡に映るカロウ・ヴの姿をした自分は笑っていた。

(これは――ハーデスの記憶を見せられた時と同じ……なら、今僕が見ているのはイカロスが見たカロウ・ヴの記憶、か?)

心臓が早鐘を打ち始める。

(だとすれば、これはイカロスがカロウ・ヴに刺された直前に見た記憶……ということになるのか?)

自分はその場にはいなかったが、聞いた話によれば、突入部隊とは別に後から合流したイカロスが、突然カロウ・ヴに詰め寄るなり掴み掛り、そして刺されたという。
イカロスが他国に使徒に掴み掛る――という行動自体、信じがたいものではあったが……。

考えているうちに、自分が宿るカロウ・ヴの腕は勝手に動き、少女の腰を抱き寄せる。
柚の赤い瞳を覗き込めば、そこに映るのはやはりカロウ・ヴ。

「脱いで、ヘレネス」

少女は頬を染め、こくりと小さく頷き返した。
恥じらいながらひとつひとつブラウスのボタンを外し、胸元を露わにしていく。

白いブラウスと見分けが付かないような白い肌を、部屋の窓から差し込む月明かりが柔らかに照らし出していた。
まだ何処か幼さと不慣れな印象を受ける。

カロウ・ヴの左手は少女の背中に回り、右手が隠すもののない肌に触れると、少女はぴくりと体を竦め、顔を隠すようにカロウ・ヴの肩に顔を埋めた。

「柚なんかよりずっと可愛いよ」

カロウ・ヴはくすくすと笑いながら、肩にしがみ付く少女の尖った奇形型の耳先を口に含む。

「ヘレネス、言って?」
「カロウ・ヴ……好き」

(この女は――…)

「愛してる、あなただけ」

(オーストラリアの使徒は――…)

「ははは、ざまあみろアジア!」

カロウ・ヴは高らかと、勝者のように笑っていた。


(狂っている!)


弾かれたように柚の肩から手を離し、フェルナンドはイカロスを見下ろした。
頬から冷たい汗が流れ落ちる。

「――ツィさん?リッツィさん!」
「!」

看護師が自分に向けて叫んでいた。

「大丈夫?どうしたんですか、いきなり二人ともぼうっとしちゃって!」
「っ……」

慌てて部屋の中を見回し、フェルナンドは元の病室であることに安堵する。

心臓が忙しなく鳴り響いていた。
少し眩暈がするし、気分も悪い……正直なところ、他人の記憶など、ましてやあのような場面ともなれば見て気持ちのいいものではない。

フェルナンドはイカロスを睨み付けてギリリと奥歯を噛み締めた。

当のイカロスは、眠っていた時の方が健康的に見えるほどに疲労が見える。
罵り文句を言ってやりたい気分だが、今はそれよりも事を急ぐ。

フェルナンドは看護師に向き直るなり叫んだ。

「大至急、デーヴァ元帥に繋いでくれ!」
「え?将官のことは、さっき報告しましたよ?」
「違うっ……!」

焦りと苛立ちが胸の内を焦がす。
柚と繋がる鎖が涼やかな音を立てる。

「オーストラリアの使徒が、宮のコピーを――」

言い掛けたフェルナンドは、ふと周囲の物がカタカタと小刻みに揺れていることに気が付き、眉を顰めて周囲を見回した。

「地震……か?」

隊員の一人が、部屋を見回しながら呟く。
その瞬間、フェルナンドははっと柚に視線を向け、看護師を部屋の隅に突き飛ばした。

「下がれ!」

フェルナンドが叫ぶと同時、柚が仰け反り、頭を抱えて悲鳴をあげる。

床に倒れた点滴のパックや花瓶が弾け、水分が雫となって宙を漂い始めた。
その声に共鳴した大気が震え、廊下から何かが吹き飛び破裂する音が響き、水が一斉に部屋の中に雪崩込んでくる。

「宮!止めろ!!」

フェルナンドは柚の肩に触れて強く揺さぶった。
その瞬間、柚は弾かれたようにフェルナンドの顔を見て、怯えた面持ちで強かにその手を振り払う。

「いっ、いやああああ!!」

うねりを上げた鉄砲水が病室の外壁を突き破り、外へと全てを押し流した

酷い豪雨の後のような水浸しの地面に倒れ込み、フェルナンドは咽て水を吐く。
周囲には外壁の木材が散乱し、医師や隊員達が倒れていたが、彼等もすぐに体を起こし、何が起きたのか分からない様子で頭を抱えていた。

「宮!なんてことを!」

叫び、いつも自分の右側にいた柚へと怒鳴る。
だがすぐに鎖の先が軽いことに気付き、手錠の鎖が千切れていることに気が付くと、フェルナンドは更に目を見開いた。

「将官!?」
「っ、ここだよ……殺されるかと思った」

フェルナンドが叫ぶと、少し離れた位置に倒れているイカロスが答える。

「宮がいません!暴走してます、あのままじゃ何をしでかすか分かりません!あなたなんてことをしてくれたんですか、あんなものを本人に見せればこうなることくらい予想が付いたでしょ!!」
「ごめん、本当ごめん。俺も伝えなきゃと思って焦ってて、考えなしだった」

筋肉が衰えて立ち上がることも出来ないイカロスが、申し訳なさそうにしながら医師達に起されていた。
フェルナンドはイカロスに舌打ちを放ち、柚の気配がする森へと振り返る。

イカロスは木で体を支えながら、大きく息を付く。

(ところで、なんで柚ちゃんとフェルナンドの組み合わせ?)

今更ながらの素朴な疑問を抱くイカロスの元に、ハーデスと共に空間を跨いで降り立った焔とライアンズ、フランツの三人が駆け寄る。

「イカロス将官!目が覚めたんすね!」
「大丈夫ですか?っていうか、これは一体どういう状況なんですか?」
「まあ、簡単に説明すると、俺のミスで柚ちゃんがショックを受けて大暴走してるんだ」
「ショックを受けてって……どんな落ち込み方だよ」

焔は引き攣った顔を、半壊した病棟に向けた。
もともと古びた建物だったせいもあり、抉られたように無残な姿になっている。

「イカロス、柚に何したの?」
「ハーデス……」
「俺、答えによってはイカロスを許さない!」
「ハーデス、止めろ」

イカロスは静かに瞼を伏せ、再びゆっくりと起した瞳で、拳を握りしめて立つハーデスを見上げた。

「カロウ・ヴが、柚ちゃんのコピーを抱いていた。それを見せた」
「なっ!?」
「あの野郎!」

フランツが目を見開き、ライアンズが唸る。
焔は無言でぎりりと奥歯を噛み締め、柚の気配のする方へと駆け出そうとして、ライアンズに引き戻された。

「待て、迂闊に近付くな」
「うるせえ!」

焔は刀の鞘を投げ捨てながら、ライアンズに目もくれずに返す。
刀が炎を纏い赤く染まると、焔は刀をライアンズと自分を繋ぐ鎖に突き立てて引き千切る。

「焔!お前なんてことを――!」
「ハーデス、柚んとこ連れてけ!あいつ止めるぞ」
「……ん」

むすっとした面持ちで、ハーデスが焔に手を差し出す。
焔はその手に掴まると、慌てて同行しようとしたフランツやライアンズの制止を振り切り、その場から一瞬にして姿を消した。



柚は自分でも、何をしているのかよく分からなかった。
よく分からないまま、泣きながら歩いていた。

踏みにじられた気持ちで、今は怒りよりもショックが大きい。

柚にとって親に貰ったこの顔と体は大切なものだ。
母の顔立ちに少しだけ父の面影を混ぜた顔も、母が気に入っていたこの髪も、今は前以上に大切に思う――両親との繋がり。

自分という入れ物であるこの体は、父と母に愛されて出来たものであり、それが柚にとっては誇りであり喜びであり、愛おしいものだ。
他の誰もが持たない、柚だけに与えられた、父と母の愛情からなる唯一のものなのだ。

言うなれば、今は意志に反し、勝手に自分を守るように取り巻いている水の力もそう。

両親から"柚"に贈られたこの姿が、本人や両親の知らないところで勝手にコピーされただけでも十分に腹立たしい。
その上、納得も愛してもいない男に抱かれるなど、おぞましいとしか言いようがない。

カロウ・ヴを通して見る自分の姿は、やはりどうしても他人には思えなかった。

まるで自分がカロウ・ヴに抱かれたようで震えが止まらない。
触れられてもいない体に、他人が触れたかのような感触が生々しく纏わりついている。

濡れた軍服から、水が滴り落ちた。

胃液が喉を競り上がり、柚は近くの木の前に膝を付いてしゃがみ込むと、嗚咽を漏らして吐いた。
涙か水か、頬を撫でるように水滴が伝う。

「柚」

声に柚ははっとして、弾かれたように振り返った。

アスラが一人、足早に歩み寄ってくる。
何故だろう……そう疑問を抱きながら、柚は次第に早くなっていく心臓の鼓動を確かめるように、胸元をきつく掴んだ。

自分の力がひどく不安定になっている。
使っているつもりもないのに、柚のいる地面の足元からは地下水がじわじわと溢れ出し始めた。
その水は大きな水の球となって次々と宙に浮かんでは空高くに登っていく。

「だ……ダメ。アスラ危ない」
「柚……力を抑えろ」
「出来ない!」

柚は頭を抱え込み、その場にしゃがみ込んだ。
周囲を飛び交う水が歪みながら、柚の周囲をぐるぐると回り始める。

「……俺もまだ、簡単な事情しか報告を受けていない。だがオーストラリアにお前のコピーが存在することは、クック首相の件であるだろうと薄々思ってはいた」

アスラの真剣な水色の眼差しが柚を映し出す。

「なんとかする」
「なんとかって……なんとかって、どうやって!」

柚は思わず声を荒げてアスラを見上げた。

「アスラだって命令がなきゃ動けないのにどうやって!私はアスラにこれ以上なにかをして欲しいなんて思ってない!」
「柚、落ち着け。こっちに来い」

アスラが手を差し出す。

アスラの指先が柚の手に触れた瞬間、柚は怯えたようにびくりと大きく体を揺らした。
水が我先にと柚を守るように包み込み、アスラの手を押し流す。

「!」

思わず手を引いた瞬間、自分でも驚いたような面持ちをした柚が唇を噛み、背を向けてアスラから走り去っていく。

「柚……」

アスラの濡れた手から、水がぽとりと落ちた。
熱気を含んだ風が濡れた手に沁みる。

「柚!」

アスラは背後から聞こえてくる声にはっとした面持ちで振り返った。

焔がアスラの横を躊躇いなく走り抜ける。
一陣の風はアスラの柔らかな金の髪を揺らし、その瞳をみはらせた。

奥へ奥へと、柚が走っていく音がした。
柚は焔の声を聞くと肩越しに振り返り、びくりと肩を揺らして走る速度を上げる。

(放っておいて!)

柚は逃げた。

「柚!」

木の根につまずき、柚は派手に地面を滑って転ぶ。

何故逃げるのか、何故追われているのか。
擦り剥けた膝が痛くて涙が滲んだ。

それでも、逃げなければという衝動を感じて立ち上がりかける。

「こっち見ろ!」

焔が吼えた。

反射的に振り返った柚の周囲を、先ほどのように水が包み込むと、焔は舌打ちを漏らして抜き身の刀を指先で撫でる。
刀身は熱を帯びて赤く染まり、夕日のように染まっていった。

焔が刀を振りかぶる。
赤い刀から音を立てて炎が噴き、焔は強く一歩を踏み出しながら、力強く刀を振り下ろした。

刃に触れた柚を包む水は激しい音を立てて蒸気となり、吹き出すように辺りを白く染める。
焔はそのまま炎を一振りにして剣圧で白い蒸気を吹き飛ばすと、乱暴に刀を地面に投げ捨てて、地面に座り込み呆気にとられてこちらを見ている柚の前で足を止めた。

「ほら、帰んぞ」
「……」
「戻ったら、いくらでも愚痴でも泣き言でも聞いてやる。カロウ・ヴって奴をどうやってぶん殴るかも一緒に考えてやるし」

焔の瞳が激しい憎悪と怒りに染まる。

「そいつのこと、お前の倍ぶん殴ってやる!」
「……焔」
「だから帰るぞ」

身を屈めた焔が、まるで落としたものを拾い上げるように柚の手を掴み、引き上げた。

不思議だった。
いつの間にか力の暴走が止まっている。

よろりと立ち上がった柚の瞳から一滴の涙が零れ落ち、その顔がくしゃりと歪めば、柚は大声を上げて空に向けて泣き始めた。

ぎょっとして柚を見た焔の背中に体当たりをするように抱き付き、柚はその背中に顔を埋める。
くぐもった声で、「おんぶ」と呟く。

「お前は……」

呆れたようにくしゃりと髪を掴みながら笑い、焔はしゃがんで背中を向ける。

それは、柚が精神的に弱っている時や甘えたい時のサインのように感じていた。
焔が少しだけ、優越感を感じられる瞬間だ。

背中に乗る柚は、何も話さずに大人しく背負われていた。
ただ時々しゃくりあげる声が聞こえてくるので、まだ泣いているのだと思う。

とぼとぼと長い道のりを、焔は出来るだけゆっくりと歩いて戻った。
木々が倒れて水浸しになった道は、歩くたびに水気を含んだ音を立てる。

空はすっかり日が暮れて、遠くには微かに人工的な光が見え始めていた。
無意識に足が重くなる。

もう完全に、しゃくり上げる声も聞こえなくなった頃にぽつりと、まるで機嫌を窺うようにおずおずと、柚が声を発した。

「……焔、怒ってる?」
「……カロウ・ヴって奴のことをな」

久しぶりに発せられた柚の言葉に、焔はそっけなく返し、落ちてきていた柚の体をもう一度抱え直す。

「……ありがと、焔」
「……別に」
「それと次にあいつに会ったら、焔が殴る分がないくらいぶん殴るから!」
「ちょっとは残しとけよ」

焔は苦笑を浮かべた。

「仕方がないな。じゃあ、残しとく……」

それきり、柚の声が途絶えた。
ほどなくして、微かに寝息が聞こえてくる。

焔は足を止めて地面を睨み付けた。

ギリリと歯を噛み締め、きつく瞼を閉ざす。
大きく息を吸い込み、胸の奥でチリチリと燻ぶる怒りをため息と共に吐き出した。

(泣かせやがって……)

抜き身のままの刀の柄が鳴る。

(ぜってーぶん殴る!)

殺伐とした眼差しで大きく足を踏み出す。
構わずに突き進んだ水溜りで、泥水が音を立てて飛び散り、小さな水の珠が闇の中で撥ね踊った。


アスラは戻ってきた二人の姿を確認すると、音もなく踵を返した。
磨き上げられた床に足跡を残し、建物の奥へと静かに静かに消えていった。





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