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「イカロス将官、こんばんは。今日はフェルナンドも一緒だよ」

ベッドを回り込み、柚は置かれている椅子に触れる。
椅子に温もりはなく、誰かが来た痕跡はない。

「もう誰かに聞いた?明日、ジャン達がこっちに帰ってくるんだよ。パーベル、きっと大きくなったよね」

イカロスの腕に繋がれた栄養剤の点滴から、ぽつりと命を注ぐ音が響く。
サイドテーブルに置かれた小さなプレゼントの箱に掛けられたリボンが、外から吹き込んでくる風に揺れていた。

椅子に座り、最近の出来事を、柚はひとつひとつ思い出しながら語っている。
流れるような声が、今は質素な病室に華を添えていた。

「それでね、今日はフェルナンドに教官に出された課題を手伝って貰ってたら遅くなっちゃったんだ」

返事のない相手にめげずに語り掛ける柚を通し、フェルナンドはイカロスの顔を見ていた。

初めて病室に足を運んだが、思っていた以上にひどい場所だと感じる。

(保護されたばかりの玉裁は、ここにいたのか……)

鉄格子が嵌められた刑務所のような場所。
人々に避けられる寂しい場所。

イカロスは、眠っている状態だからまだマシなのかもしれない。
正気の状態でずっとこのような場所にいれば、気が狂いそうだ。

イカロスの柔らかな亜麻色の髪は少し伸び、肌もハーデスなどよりよっぽど健康的に見える。
寝息は聞こえてこない、だが死んでいるのとはまた違う、生気があった。

ふいにフェルナンドは、肩を揺らす。
柚に繋がる鎖が音を立て、それは思いの外大きな音となり、柚が不思議そうにフェルナンドへと振り返る。

「どうした?」
「あ、いや……今、睫毛が少し動いたような……」
「え、うそ!」

柚は慌てて椅子から立ち上がり、ベッドに身を乗り出してイカロスの顔を覗き込んだ。

ぎしりと、ベッドの軋む音が耳に届く。
点滴がまた一滴、落ちた。
カーテンは水が流れるように泳いでいる。

暫し無言でじっとイカロスの顔を見詰めていた柚は、ため息を漏らしながらフェルナンドへと振り返った。

「全然動かないけど」
「あ、ああ」
「ぬか喜びさせないでよ」
「すまない……見間違いだと思う」

素直に謝罪が口から出る。

最近では皆、イカロスが目を覚まさないことに慣れてきてしまっていた。
このままイカロスが死ぬとは思っていないが、目を覚まさないことへの諦めが心の何処かにある気がする。

すると柚が一瞬体を震わせ、片手で耳を押さえた。
驚いたように柚はフェルナンドを見上げる。

「あれ?今……フェルナンド、じゃないか」
「は?」
「いや、今、なんか声したでしょ?誰かお見舞いに来たのかな?」
「な、何を言っているんだ、君は。声なんて聞こえなかったぞ」

ぽとり――と、廊下の水道から水が落ちる音がした。

背筋をゾクリとうそ寒いものが走り抜けていく。
柚とフェルナンドの顔に、心なしかぎこちなく引き攣った笑みが浮かぶ。

「く、暗くなっちゃうし、そろそろ戻ろうか」
「あ、ああ」

柚の言葉に反対する理由がない。
フェルナンドは頷きながらも、引っ掛かるものを感じててもう一度イカロスの顔に視線を向けた。

本当に見間違いだったのか……自分の記憶に問い掛ける。

確かにはっきりと、亜麻色の睫毛が揺れたように思えたのだ。
窓から吹き込む風で睫毛が揺れるとは思えない、ならばやはり見間違いだろうか。

(ま、まあ、見間違いだろう)

これ以上考えても無駄だという考えに至り、肩から力を抜く。
その瞬間、点滴の針が刺さるイカロスの左手の指先が、一瞬、ほんの一瞬ではあったが、フェルナンドの目にはっきりと動いて見え、フェルナンドは思わず飛び上がった。

「宮!い、今、手が――!」
「はァ?」
「今度こそ本当だ!今将官の左手の指先が少し動いた!」
「ま、また見間違いじゃないのか?っていうか、この間見たホラー映画でこういうシーンあったよな。脅かそうとしてるのか?」
「そうじゃなくて――!」

フェルナンドが声を荒げた瞬間。
イカロスの瞼が明確な意思を持って開かれた。

あまりにも突然な動きに、フェルナンドは反射的に思わず声を漏らしながら一歩後ずさる。

「うわ!?な、なんだよ。脅かそうとしたって、フェルナンドと違って私そこまで怖がりじゃないからな!」

さすがの柚も、ビクビクしながらフェルナンドに文句を言う。
フェルナンドは金魚さながらに口をぱくぱくと喘がせながら、必死に現状を伝えようと柚の背後に指を向ける。

柚の目の前に立つ腰が引けたフェルナンドは、青褪めながら震える指先で自分の背後を指差していた。

柚は、まさに先日見た映画の中のワンシーンで、悪霊に嵌められて殺された主人公の仲間がゾンビとして復活する場面を克明に思い出す。
フェルナンドの動きは、主人公に背後で死んだ仲間がゾンビとして生き返っていることを知らせようとする緊迫した仲間の反応そのものだが、あのフェルナンドに限ってそんな体を這った悪質な冗談をするだろうか?――とは思うものの、次第に恐怖が頭の中を支配し始めて何も考えられなくなっていた。

「み、宮!」
「ひっ!?」

ベッドに付いて体を支える柚の手に、温かい何かが微かに触れた。
ゾッと総毛立ち、喉の奥から「ひっ!」と空気が漏れるような声が出る。

反射的にベッドに付く手を引っ込めようとした柚よりも早く、手首を温かい何かがガシリと包み込んだかと思うと、力強く引き寄せられ、柚の体はベッドに向けて斜めに傾いた。

点滴のスタンドが床に倒れて派手な音を立てる。
ガクリとバランスを崩しながら、怖くないと言っていた柚の顔は一瞬にして青褪めた。

「ぎゃぁぁあああああ!!いやー、ゾンビー!?」
「お、おお、落ち着け、宮!それは将官の手だ!とりあえず、ナースコール!」

ナースコールを押すまでもなく、柚の悲鳴とスタンドが倒れた大きな物音に、奥の部屋で監視をしていた一般兵部隊の隊員が駆け込んでくる。

「いやァー!ゾンビ嫌ー!?」
「だから、落ち着け!イカロス将官が目を覚ましたんだ!」

大声で叫びながら、イカロスに掴まれた手をぶんぶんと振り回す柚に、フェルナンドが柚以上に大きな声で柚を宥めた。

柚の動きがぴたりと止まり、大きく瞬きをしてフェルナンドの顔を見上げる。
そして、ドアの外で銃を手に、何を騒いでいるんだと言いたげな面持ちで硬直している一般兵部隊の面々を見ると、今度はゆっくりと、ひどく緩慢な動きでベッドへと振り返った。

「イ、イカロス将官……?嘘、本当に?」
「……ス……」

振り払われたイカロスの手が、ぎこちなくベッドの上で動く。
数か月ぶりに見た若葉色の瞳まだ焦点の合わない虚ろなものではあったが、イカロスの唇が微かに動いた。

「とりあえず、医者を。それとデーヴァ元帥にイカロス将官が目を覚ましたと大至急知らせるんだ」

すっかり落ち着きを取り戻したフェルナンドが、てきぱきと隊員に指示を出している。

柚はへなへなと床に座り込むと、深く項垂れながら次第にくつくつと笑い始めた。
そんな柚に、フェルナンドがぎょっとして歩み寄り、声を掛ける。

「宮、どうした?」
「いや、なんか、安心しちゃって。よかった、本当に……よかった」

柚の瞳に涙が滲んでいた。
ベッドに淵に額を宛がい、しみじみと呟く柚に、フェルナンドは無言で目を細める。

「っていうかゾンビって何。凄く恥ずかしい、穴があったら入りたい。もう、フェルナンドのせいだっ」
「なんで僕のせいになるっていうんだ。ほら、医者が来た。邪魔になるからそこを退け」
「あ、うん。そうだな。イカロス将官、じゃあまた後でね」
「ぁ……ヘレ――ス」

掠れた声と共に、イカロスの手がベッドから僅かに浮き、筋肉の衰えた腕は再びベッドの上に力なく落ちた。
立ち上がった柚は思わず足を止めて振り返り、苦笑を浮かべる。

「え?何?私は柚だよ?」
「カロ――げほっ、ごほっ」

イカロスが縋るような面持ちで柚に何かを伝えようとしていた。
だが掠れた声は、咳き込む声に消えていく。

「なんだろう。とりあえず、お医者さんに診てもらってからゆっくり聞くから。今は無理しないで、ね?」
「っ……」

咳き込んでいたイカロスは、尚も何かを伝えようと口を開き掛ける。
だが声の代わりに、柚の頭に直接イカロスの声が響いた。

"待って"
「イカロス将官……?」
"手を……"
「……こ、こう?」

柚が、躊躇うようにイカロスの手に触れる。

「おい、さっきから何を一人で喋っているんだ。そこにいたら邪魔になると――」

フェルナンドは柚の肩に手を掛けた。
その瞬間、ふっと体が投げ出されるような浮遊感が全身を襲い、思わず閉じた瞼を起こしてフェルナンドは困惑する。

見知らぬ部屋の中に、否、すぐ目の前に柚がいた。
あまりにも近過ぎる距離に、思わずその体を突き飛ばそうとして気が付く。

柚のはず……。
だがその少女が纏う軍服は、恐らくデザインが似ていることから察するに、オーストラリアのアース・ピースの軍服だ。

少女が離れていくと、唇から感触が消える。

(み、宮?)

そこで初めて、自分が柚とキスをしていたのだと気付く。
それも、柚の方から積極的にであり、彼女は今、上着を肌蹴た状態で自分の膝の上に座っている。

それは自分の目を通して見る光景そのものだが、柚の後ろの鏡に映る自分らしき男の姿にぎょっとした。





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