23


フェルナンドの部屋に戻ると、フェルナンドは机の上の本を広げる。
柚は柚で、机を背もたれにし、自分の部屋から持ち込んだクッションの上に座り、漫画か雑誌を読む。

それがお約束のパターンになりつつある。

早速定位置である机の隣に座った柚に、フェルナンドは声を掛けた。

「宮、あの課題はやらなくていいのかい」
「えー、まだ期間があるし後で」
「後で?そういうものは先に終わらせてから、趣味の時間を持つべきじゃないのかい?」
「やだ、ママみたいなこと言わないで」
「僕はそもそも男だからママという表現は不適切であり、君のママなんてやってたら、いまごろ僕はストレスで血を吐いているよ」
「私もフェルナンドがママじゃ息が詰まるわ」

柚は開いたばかりの漫画から顔を上げ、肩越しにフェルナンドへと半眼を向ける。

「推測するに、君のご両親はよほど奔放に君を育てたんだろうね」
「さあ、どうなんだろう。私にとってはパパとママが普通の親に感じるけど、世間の親は違うのかな。比べてみたことがない」

嫌味であることを理解している為、柚は聞き流しながら漫画に視線を戻す。

父は少し威厳のない、ごくごく普通のサラリーマンだった。
ひょろりとした体で、父に怒られた記憶は母に怒られた記憶に比べればほとんどない。

それに比べれば母は怒る回数は多く怖いが、普段は優しいし鷹揚な専業主婦だ。
だが、柚が虐められたといえばやり返しなさいと教え、娘の前で夫ののろけ話をしてみたり、柚を女の子らしく飾ることが好きだったが、柚が何かを迷うとき、いつも最終的には柚のやりたいようにしなさいと諭す。

柚は漫画を閉じないまま再び、今度は上体を捻りフェルナンドへと振り返った。

「フェルナンドのパパとママってどんな人?」
「……別に。普通さ」
「ふーん。ねえ、普通って意味に凄く興味がある」
「……」

目を輝かせて顔を見上げてくる柚に、フェルナンドは顔を引き攣らせた。

「普通は普通だ」
「だって、私もパパとママのこと普通の親って思うけど、実際普通ってどういうことを指すんだ?もしかしたら、家のパパとママは普通じゃないかもしれないじゃないか、だとしたら私はどんな両親だった?って聞かれて普通って答えたら嘘吐きになっちゃうだろ」
「安心すればいいさ。君がすでに普通じゃないから、親は普通だったなんて言ったところで誰も信じやしないさ」
「ええー!なんだよ、それ。私の何処が普通じゃないって?」
「……そうだな。いろいろ思い当たるがとりあえず――…いや、やっぱりなんでもない」
「ちょっと、言い掛けて止めるのは止めようよ。すんごく気になるんですけど」
「なら、ずっと考えてれば良いさ」

フェルナンドはくつくつと忍ぶように笑う。

むすっとした面持ちで立ち上がった柚は、フェルナンドの机の上に視線を止めた。

てっきりいつものように、難しそうな経済関連の本を読んでいるのかと思えば、今日は地図が広げられている。
それも、書き込みが加えられている、使い古された印象のものだ。

「何してるんだ?」
「……レポートを纏めている」
「お仕事?」
「違う……趣味、のようなものだな」

柚は目を瞬かせてフェルナンドの手元を見た。

地図の他には、表が……。
彼らしい、丁寧な文字がびっしりと並んでいる。

パソコンのモニターには過去の新聞記事が映し出され、地図はよく見ればアジア帝國の詳細な地図だった。
その地図には赤いペンで丸印やバツ印が付け加えられている。

なんの為の印か、その意味を無言で考え込む柚に、フェルナンドは左手でパソコンのモニターに映し出された新聞を捲りながら、地図にまた印を書き込んだ。

「見ているのは別に構わないが、君、この意味が分かるのかい?」
「今考えてるとこ。教えてくれるの?」
「いいや。ま、君の普段働いていない頭を使ういい機会じゃないか」
「くっ……意地でも自分で読解してやる」

柚は悔しそうにフェルナンドを睨むと、地図を睨み付ける。
そんな柚を、フェルナンドは何処か機嫌の良い様子で見やり、くつくつと笑みを漏らした。

暫く地図を眺めていた柚は、小さく「あっ」と声を漏らす。

「これ、私が住んでたところの辺りだ」

フェルナンドは、ますます愉快そうに笑みを深める。
どうやらこの場所に意味があるらしいと察した柚は、更に地図を睨み付けたまま考え込む。

柚の住んでいた辺りには、赤い丸印。
地図上には、いくつも黒い丸印があるが、赤い丸はそのひとつのみだ。

恐らく赤い丸は柚が住んでいた場所を意味し、その他の黒い丸は他の仲間達が住んでいた場所なのだろうと推測する。

さらに、バツ印が描かれている場所もある。
柚を一番悩ませたのは、その印の意味だった。

柚は地図を指で辿りながら、ふと、ひとつのバツ印の上で指を止める。

「ここ……これって、遊園地。確か、相澤の家族が――…」

はっとした面持ちで、僅かばかり柚は目を見開き息を呑んだ。
真新しく記されたバツ印は、今日フランツ達がテロ処理に駆け付けた場所で、その他にもいくつか記憶に残る地名ばかりだった。

「神森が、テロを起こした場所か」
「そう。だが驚いた、君がこの事件を知っていたのかい?」
「……ここは、うん。同級生とその家族が、テロに巻き込まれた場所だから」
「なるほど」

柚は声のトーンを落とし、呟くように告げる。
頷くフェルナンドの顔を横目で見やり、柚は再び地図に視線を落とした。

少し躊躇うように考え込み、柚はひとつの結論を導き出す。

「これ、この赤い丸は私――っていうか、女の子の使徒が発見された場所。こっちの黒い丸は男の人の発見された、いや、住んでた場所だな」
「……」
「それで、このバツ印は神森がテロを起こした場所だ」
「その通り」

フェルナンドは深く頷き返した。
柚は顎に手を当て、フェルナンドの横顔を見やる。

「で、つまりどういう事なんだ?」
「僕にも調べられることには限界があるから、この印の全てが正しい情報とは限らないが、僕なりに神森が起こしたテロの目的を考えた結果だよ」
「神森が起こしたテロの目的?」

柚は眉を顰めた。

フェルナンドはより詳細な地図を机の上に広げ直す。
カサカサと耳に届く紙の音が、結論を求める気持ちを逸らせる。

「そう。君が住んでいた場所はここだったけど、実際君が胎児の時点で住んでいた大体の場所、分かるかい?」
「えーっと……詳しくは知らないけど、確かこっちの離島の方って聞いたことがあるような気がする」
「ならここ、いや、恐らく時期的にはこっちだな。君の母親は、君を体内に宿している時期にこの場所で起きたテロに巻き込まれたか、そのテロに対して何等かの脅威を感じる環境下に居たはずだ」
「え、そうなの?」
「そうだと推測してる。胎児はただ母親に愛情を貰うだけじゃあ、使徒にはならない。なるとすれば、両親のどちらかが使徒の場合だ。どちらも人間同士の親の場合は、愛情の他の主な要素として、母体が命の危機を感じて強いストレスを感じた際だ」

ペンの先が、地図の上のバツ印を叩いた。
目を瞬かせる柚に、フェルナンドは得意気に頷き返す。

そのまま数回目を瞬かせて考え込んでいた柚が、はっとした面持ちになりフェルナンドの顔を見る。

「ん?あれ?ちょっと待って。ってことは、神森のテロの目的って……使徒を創る為ってこと!?」
「恐らくはね」

フェルナンドは口元の笑みを深め、はっきりと柚の言葉を肯定した。

「ちょっと待って、でも、あ――いや、そうか。とりあえずこのこと、皆知ってるのか?」
「僕達には一切知らされていないが、この程度のことはすでに政府も見当を付けているはずだ」
「知ってるんならなんで!対策とか!」
「あくまでも僕の邪推だけど、便乗してるんじゃないのかな」
「そんな!犠牲になっている人がいるんだぞ!」
「僕に怒られてもね」

フェルナンドは呆れたように苦笑を浮かべ、足を組むと机に頬杖を付く。
柚は奥歯を噛み締め、悔しそうに押し黙った。

そんな理由で、相澤 慎也の家族は死んだのか……。
そのような、身勝手な賭けのような理由で……。

「この先は、本当にただの推測だけれど、神森は妊娠中の女性がいる場所を把握しているんじゃないだろうか。その上でテロを起こしていると、僕は考えている」
「それって、そういう個人的な情報が漏れてるってことじゃ……」
「漏れているか、あえて漏れやすくしているのか――…」
「し、信じられない。なんだそれ、腹立つ!」

地団駄を踏む柚に、フェルナンドはくすりと笑みを漏らす。

「あくまでも推測っての分かってても、もしそれが本当で、使徒を創る為にママを危険な目に遭わせたなら、ますます神森が許せない!危険な目に遭うと分かってて情報を流したなら政府も……」

柚は唇を噛んだ。

許せない。
信用ならない。

悔しそうにしている柚を見上げ、フェルナンドはふいに真剣な面持ちで柚の名を呼んだ。

「宮」
「何?」
「君は、デーヴァと会う以前に、アダム――とは言わない、神森らしき人物と接触した記憶はないのかい?」
「それって、どういう意味だ?」

柚が眉を顰めて問い返す。

「もし神森が母体に目星をつけてテロを起こしたとするなら、当然その後も監視が付くはずだ。四六時中というわけではないだろうから、数か月か半年に一回は調べに来ていてもおかしくはない。まあ、その間に対象が引っ越すとかして見失う事もあるだろうけど」
「……そうか。だとすると、ここに集まった使徒は見落とされた使徒ってことになるな」

考え込みながら答えを返し、最終的に柚は唸り声をあげて床に座り込んだ。

「全っ然、思い当たらない。ママからもそういう話は聞いてない」
「そうか……」
「フェルナンドはどうなんだ?」
「実はある」
「え!」

柚が目を見開いて身を乗り出した。
フェルナンドは肩を竦め、小さくため息を漏らす。

「僕が幼い頃の事で、実際僕も覚えていない。ただ不審な人物が僕に話掛けてきたことがあったらしくて、母が気味悪がって一度引っ越している。それ以降、母も僕もその不審な人物を見ていない」
「そ、それは単に、いわゆるショタコンという奴では……?」
「僕も半分はそう思っている……」

顔を引き攣らせるフェルナンドに、柚は「ぷっ」と吹き出した。
釣られる様に、フェルナンドも小さく笑い始める。

次第に二人の笑い声は部屋の中を見たし、柚は目尻の涙を拭いながら机に手を伸ばした。

「ねえ、なんで教えてくれたの?」
「深い意味はないさ。ただ僕は、君は馬鹿じゃないと思っている」
「そりゃあ光栄だけど……それはどうだろうな」

柚は苦笑を浮かべる。

冷房の涼しい風が机の上の地図を揺らしていた。
光が入り混じるフェルナンドの瞳が、今日はとても柔和に弧を描く。

「まあ、半々といったところだけどね」
「なんだよ、褒めたんなら最後まで褒めてよ」

フェルナンドはただ笑った。
柚もそれ以上は何も言わず、腰に手を当てて大きく息を吐く。

「さて、まあお利口さんだと褒められたんだから、覚悟を決めて課題でもやりますか」
「それは思いがけずいい心掛けだ。けど、あまり僕を当てにしないことだね」

そっけなく告げて机の上の地図と表を片付け始めるフェルナンド。

「いいや、頼りにしてる。この間勉強教えてくれたの、分かりやすかったもん」

無邪気な笑みを向けて隣に座る柚に、フェルナンドは苦笑交じりのため息を漏らす。

こんな生活も悪くはない。
むしろ楽しいと感じる自分を悟られないように抗うことも忘れ、今はただ、穏やかに流れる時間に溺れ始めようとしていた。

幸か不幸か……。
それが災いして、課題を終えた時にはすっかり夕方の六時を回っていた。

夏ということもありまだ外は明るいが、夕焼けが顔を出し始めている。

「なんでよりによってこんな時間に来るんだ!明日という選択肢もあるだろ!」
「だって、気付いたらこんな時間だったんだから仕方ないじゃないか!私の辞書に明日という文字はない!それにまだ明るいから、別に怖くないだろ!」
「べっ、別に僕は怖いなんて一言も言ってないだろ!」
「ふーん、あ、そう。じゃあ、怪談でも話しながら行く?」
「そんな暇があるなら、今日教えた公式でも繰り返してるんだな!」
「それは夏の日のことでした。夕暮れの森に迷い込んだ一台の車には、若い男と女が乗っていました。ちょうど日が沈んだ頃、突然車は――」
「やーめーろォオ!?」

病棟の前の衛兵達は、何やら遠くから聞こえてくるふたつの声に、眉を顰めつつ互いの顔を見合わせた。

カラスの鳴き声が響き渡り、森に囲まれて薄暗く陰鬱な空気を纏うこの場所に響いてくる、男の悲鳴のような声と女の笑い声。
二人の恐怖心を煽るには十分な条件だった。

「な、なんだ?この声は……」
「い、いや。俺に聞かれても……ま、まさか幽霊、なんてな」
「やめてくれよ。俺、昼間でさえここに立ってんのなんか気持ち悪いのに」
「お前もか?なんか、ここ薄暗くて気味が悪いよな!」
「なんだ、俺だけじゃないんだ。はは、は……なんか、さっきから、あの変な声」
「近付いてきてるようなぁ……」

けたたましい地響きとともに、正面の森から少し逸れた小道の草むらが揺れる。

「ひっ!」
「出たァァぁアアア!?」

衛兵の二人が悲鳴を上げた瞬間、草むらから勢いよく飛び出してきた二人の人影もまた、その声に驚いて同時に悲鳴を上げた。

目が合い相手を確認した瞬間、互いの悲鳴がぴたりと止まる。
沈黙の後、柚はけたけたと笑いながら抱き合って怯えている衛兵の二人に声を掛けた。

「なんだよいきなり、人を幽霊みたいに。びっくりしたなぁ、脅かさないでよ」

次にフェルナンドがすくりと立ち上がるなり、軍服に付いた汚れを落とし、何事もなかったかのように一直線に建物の中へと歩き出す。
その後に小走りで付いていく柚が消えると、抱き合う二人は顔を見合わせ、次に廊下へと顔を向ける。

「びっくりしたのはこっちだ!?」
「普通に来い、普通に!?」

薄暗い廊下を歩きながら、柚はエントランスの方へと振り返った。

「なんかあの人達叫んでるけど?」
「知るか!君のせいで大恥をかいた」
「ははは、ざまあみろ。ついでに古びた病棟の話でもしてやろうか?」
「結構だ!」
「そういえば、この間皆で観た映画の舞台って、廃坑になった学校だったけど、建物としては似てるよな」
「みィーやァあ!」

柚は笑いながら、明かりの洩れる一室のドアを潜る。

白が基調の病室の真ん中にはベッドがひとつ。
その上にはイカロスが千羽鶴に囲まれ、今日も静かに眠っている。

開けられたままの窓からさわさわと風が流れ込み、レースのカーテンを揺らしていた。





NEXT