21


「気のせいでは、ないかもしれないな。少し、考え事をしていた」
「そうか。解決出来そう?」
「それは分からないが、そうしたいな」

小さな苦笑が返る。
フェルナンドはぽかんと口を開いたまま、そんなアスラの顔を凝視していた。

空気が柔らかい、とても穏やかで優しい。
だが何処か慣れないぎこちなさの残る、そんなアスラの表情が、フェルナンドの中のアスラ・デーヴァという人物とどうしても重ならない。

「そう。お疲れ様、無理しないでね」
「ああ、有難う」

今度こそ本当に去っていくアスラに、フェルナンドは小さく呟きを洩らした。

「本当に……変わったな」
「それ聞き飽きた」

柚が小さく頷き返す。
そのまま柚は大きく背伸びをして、軽い足取りで跳ねるように一歩を踏み出した。

「さーて、今日もイカロス将官のお見舞いに行って、後は何しようかな」
「課題が出てるだろ」
「はいはい。やりますー」
「頑張るんじゃなかったのかい?」
「勉強と訓練は別でしょ」

口を尖らせた柚は、思い出したように両手を叩く。

「そうだ。パーベルが来たら、パーベルにも会いに行かなきゃな」

和みかけていた空気が凍りついた。
フェルナンドの言葉が止まり、視線がまっすぐに床へと吸い寄せられ、唇がかすかに震えて喘ぐ。

「……それは、行きたくない」
「……」

柚は思わず、フェルナンドの顔を見た。

俯くフェルナンドは、感情を押し殺すように唇を噛み締めていた。

苦い色が入り混じるその顔をじっと見詰め、瞬きをひとつ。
柚は「しょうがない」と、穏やかな声で告げた。

「じゃあパーベルにはちょっとの間、我慢してもらうとしよう」
「!」

驚いた面持ちで、弾かれたようにフェルナンドが柚の顔を見る。
そんなフェルナンドに、柚は苦笑を返した。

「なんだよ。でも将官のお見舞いは付き合ってよ?昨日も行けなかったんだからな」
「あ、いや……分かった」

柚がフェルナンドへと振り返り、そでを引く。
思わずその手を見下ろし、フェルナンドはおずおずと頷き返して柚に続いた。

互いに喧嘩をしていたことなどすっかり忘れ……。
二人は他愛もない会話をしながら、長い廊下に足を踏み出した。


取り残されたように動けない隣人は、その足音を聞いてた。
部屋のドアに凭れた体が、人知れずずるずると床に座り込む。

(私だって……)

膝を抱き寄せるように抱え、フョードルは顔を埋める。

決して泣いているわけではない。
泣くつもりもない。

(もっと普通に、皆と打ち解けたいのに……)

堅苦しい雰囲気だと嫌煙されている気がする。
フェルナンドの言う通り、頭が固くて融通が利かない。

昨夜揉めたハーデスの件も、ハーデスが嫌いなわけでもジョージを困らせたかったわけでもないのに、どうしても曲がったことが許せなかったのだ。

(柚殿はああ言ってくださるが、こんな私など、皆にとっては煙たいだけの存在)

こんな自分を気に掛けてくれる柚やフランツに申し訳がない。

(村で友人と接していたように……)

死んでしまった友人や祖父の顔が脳裏を過ぎり、上げ掛けた顔を再び膝に埋めた。

(……どうして出来ないんだろう)

陰鬱とした感情が塊となり、胸の内でもやもやと蠢く。

はあ……と、ため息を漏らし、フョードルは立ち上がると凭れていたドアに振り返った。
廊下と部屋を遮る扉。

この先には、仲間達がいる。
だがそこに入り込んでも、何処か馴染めずに浮いている自分。

そんな自分がフョードルにとってはコンプレックスとして、胸の内に暗い影を落としていた。



その廊下と対照的な研究所側の廊下で、恰幅の良い男は白衣の男に呼び止められ、静かに足を止めた。

「所長、ご連絡頂いたカルテをお持ちしましたよ」
「御苦労さま」

特殊能力国家研究所・所長"モリス・ドルチェ"は、医師のラン・メニーからカルテを受け取り、目を通す。
簡単に視線を走らせたモリスは、そのまま「失礼します」と去ろうとしたランを呼び止めた。

「医師の君の目から見て、どうかな?」
「ごく僅かな変化ではありますが、やっぱりいい影響とは言えませんねぇ」
「そうか……」

モリスは憂鬱そうにため息を漏らす。

そんなモリスを他所に、ランは口の中で飴玉を転がしながら他人事のように問い掛けた。
ランはマイペースで何処か飄々とした態度と子供染みた雰囲気を纏っているが、貴重な使徒の健康を維持する重要な役を担う医師達の責任者でもある。

「どうするんですか?」
「それを今から話し合うところだよ。君も参加してもらうからね」
「あ、やっぱり?」
「あまり、こういう内容の会議は気が進まないんだがね」

モリスはため息と共に部屋のドアを潜る。

カーテンが閉め切られた部屋の中には、大きな机とモニターがひとつずつ。
秘書のロバート・スティーヴンソンがモリスをモニターの前の席へと促した。

巨大なモニターは何分割かにされていたが、そこに顔が映し出されているのは三人だけだ。
そのうちの一人はアース・ピースの、人間で構成された一般兵部隊を纏める佐官"スミス・カルヴァン"だった。

「皆さん、お忙しい中お時間を割いて頂き感謝いたします」
『それで、例の子供の件だろう?能力クラスはどうなんだ?』

使徒関連の決定権を持つ大臣"朴"が、面倒だといった態度を隠しもせずに先へと促す。
もう一人、支部の新しい所長である男は、困り顔で軽く手を挙げて答えを返した。

『能力階級は、中級クラスの第六階級ポテンティアスです』
『ポテンティアスか……。少々惜しくはあるな』
『しかし、ここは宮 柚と西並 焔の精神面を考慮して処分すべきでしょう』

四十前半で貫録と威厳を備えたカルヴァンは、冷酷に言い放つ。
慌てたように、モリスは会話に加わった。

「しかしデーヴァ元帥から、二人とハーデスの精神面を考慮し、ジャン・ルネ・ヴィレームを含めた支部の面々は別棟に住まわせ、極力接触のないようにという提案もあります。まずは、元帥の提案通りの方法で様子を見てからでも構わないのではありませんかな?」
『なるほど……確かに、少々失うには惜しい。保険として残しておきたいからな』
『もしその子供が両名の命を狙いでもしたらどうしますか?正直、あの子はウラノスが死んでからというもの、我々の手に余っている状態です。そちらで何か問題を起こしてはと心配です』
『報告では、デーヴァー元帥と宮 柚の関係が落ち着きそうだというではないか。この大事な時期にいらぬ問題を増やされては困るぞ』

支部長の言葉を聞いて難色を示す大臣に、モリスは人知れずため息を漏らす。
口の中で飴を転がしながら、ランは持て余すように重心を左へと傾けた。

『ところで精神的影響、というのはどれくらい受けているんだ?』

その問い掛けに、モリスは後ろに立つランへと答えを促す。
ランは面倒くさそうに頭を掻くと、僅かに身を乗り出し、机に右手を付いてモニターへと顔を向けた。

「まあ、まだ報告を受けて一日目ですし、実際その子供と接触したわけではないので明確なことはなんとも。ただすでに昨夜の時点で宮、西並共に食欲、睡眠に影響が出ており、現在連繋訓練中にある双方のパートナーにも多少の影響を及ぼしています」

体を起こし、ランは肩を竦める。

「正直、その子供が来たら、二人にとってストレスが増すことは間違いないでしょうね。あー、それと、盗聴は今回限りにしてくださいよ?本人達にばれたらこちらへの不信感が増しますし、更なるストレスの原因になっちゃいますからね」
『分かっている』

僅かに鋭くなったランの視線の先で、カルヴァンが眉間に皺を寄せた。

二人の間で静かに火花が散っている気がする。
モリスがその場を空気を和ませるように、ふくよかな笑みで提案を挟んだ。

「では、別棟と言わず、その子供だけ支部に残してみてはいかがでしょう?」
『ご、ご冗談を!手に余っていると申し上げましたでしょう?今までは問題を起こしてもジャンが宥めてきましたし、ジャンの結界で脱走は免れてきましたが、ジャンがいなくなれば我々のみでは止められませんよ』

支部長は焦ったように首を横に振る。

支部長の態度からは、ニエに手を焼き疲れ切っている様子が窺えた。
カルヴァンと大臣からは、力を惜しむ反面、面倒事は持ち込みたくないといった雰囲気だ。

重苦しい空気が部屋を包み込む。

ランが飴玉を口の中で転がす度に、飴玉と歯が当たる音が耳に届く。
その度に秘書のスティーヴンソンがランを睨んでいるが、全く気にかけもしない。

最後に飴玉を噛み砕く音を最後に、全ての音が部屋の中から消えてしまうと、空気はますます重くなる。

モリスは精神的な要因と思しき頭痛を感じ、こめかみを押さえながら、何度目かのため息を漏らした。





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