20


蝉の声も静まり、真夏の太陽が顔を顰めた深夜。

研究所側からは、はっきりと部屋の明かりが漏れている。
だが、使徒の宿舎は消灯の時間を迎えて暫く経ち、完全に寝静まっていた。

だがフェルナンドは眠れず、これで何度目か――ベッドの傍の電子時計で時間を確認する。
他人の気配にも慣れ、疲れも溜まり、最初はベッドに入り数分で眠ってしまったのだが、夜中に目が覚めて以降、フェルナンドは瞼を閉じたまま無駄な時間を過ごしていた。

柚の部屋はさっぱりとしているが、いかもに少女らしいと思うものがちらほらと部屋を飾っている。
ピンクを基調としたベッドだが、特別自分の部屋のベッドと寝心地が変わるわけでもない。

クーラーの音が静かに聞こえる部屋の中で、隣人は魘されていた。

このままでは、その声が気になって眠ることが出来ない。
そう判断したフェルナンドは、眠りから完全に覚めていない体を起し、背を向けて眠っている柚の肩を揺さぶった。

「宮?宮、起きろ」
「ぅ……ん?何?」

思いの外あっさりと目を覚ました柚が、肩越しに振り返り、虚ろな目でフェルナンドを見上げてくる。

「何じゃない、魘されていたぞ。煩くて眠っていられない」
「……ごめん」

ベッドの傍の青白いライトが、柚の頬を照らす。
頬の上で反射する一筋の光に気付き、フェルナンドは眉を顰めて柚を見た。

「君……大丈夫なのか?」
「うん、ごめん」
「謝られても困る。本当に大丈夫なのかい?」

しおらしく謝る柚に、フェルナンドはため息混じりに問い返す。

柚は寝がえりを打ってぼんやりと天井を見上げると、小さく頷き、そでで目元を拭った。
そこで初めて涙に気付いたのか、柚の動きが一瞬止まる。

「はは、フェルナンドのこと笑えないな。ホラー映画のせいかな、ちょっと怖い夢見てただけ。ごめん、もう大丈夫。寝よう?」
「……ああ」

それ以上何も言えず、フェルナンドは柚に背を向けて体を横たえた。

小さく鎖が音を立てる。
それはひどく寂しい音に感じた。

(僕じゃなければ、本当のことを言ったんだろうか)

考えを遮るように、ブランケットを引き寄せる。

ニエという子供の存在が柚の負担になっていることは、フェルナンドにも検討がつく。

ハーデスにはそのことを話す癖に、やむを得ずとは言えあそこまで事情を知っている自分に今更隠し事をするなど……。
自分が気付かないとでも思っているのだろか?

(侮らないでもらいたいものだ……)

憮然とした面持ちでシーツを睨むフェルナンドに背を向け、柚もまたぼんやりと壁を見詰めていたことを知らないまま、夜は深く更けていった。

隣人もまた、同様に眠れない夜を過ごしていることなど考えもせずに……。
何も知らずに、知らせられずに――…。





翌朝、部屋を出た柚とフェルナンドは隣の部屋に戻ろうとしているフョードルに声を掛けられた。

「おはようございます。柚殿、フェルナンド殿」
「おはよう、フョードル」

部屋は基本的に、収容された順番で並んでいる。
ついこの間まで柚の部屋の隣は焔のみだったが、フョードルが来てからは焔とは反対の部屋にフョードルが住まい、焔とフョードルの部屋に挟まれている状態だった。

フェルナンドからすれば、時間をずらしている為に自分の部屋の隣人ともあまり顔は合わせないが、隣人がいつもと違う人物ということが不思議な感じだ。
言い加えれば、十代ばかりの住人が多い為、なんとなく自分の居場所ではないところに紛れ込んでしまったかのようで居心地が悪い。

「ところで柚殿、顔色が優れないようですか、何処かお加減でも?」
「え、そうなの?顔色悪い?」

柚があわてて隣のフェルナンドへと尋ねる。
フェルナンドは柚の顔を見下ろし、「さあ」と返してふいっと顔を背けた。

すると、フョードルが考え込むように顎に手を当てる。

「焔殿もそうでしたが……もしや皆さんで秘密の特訓でも?」
「あ、それは一昨日やった」
「!今後の参考までに、どのような訓練か是非教えて頂けませんか?」
「いや、大層なもんじゃないんだよなー、フェルナンド」
「まったく、遊びと言った方が正しかったな」

同意を求める柚に、フェルナンドがため息混じりを返し、腰に手を当てた。

「ではその"遊び"のような訓練で、柚殿とフェルナンド殿はより一層打ち解けたわけですよね?」
「打ち解けた?」
「うわっ、何その嫌そうな顔」

フェルナンドが無遠慮に顔を顰めると、柚が口を尖らせてフェルナンドを睨む。
今にも口論を始めそうな二人だったが、最初のぎこちない様子はすっかり鳴りをひそめていた。

フョードルはくすくすと笑い、柚を見やる。

「柚殿は本当に、誰とでも簡単に打ち解けてしまうんですね。少し……羨ましいです」
「彼女の場合は頭の中が至極単純なせいだろう」
「ははは、嫌だなフェルナンドは。これでも結構人見知りはしてたりするんだぞ」
「い゛!?」

柚がぐりぐりとフェルナンドの足を踏みつけながら、にこやかに笑い返した。
フェルナンドが悲鳴を呑み込む替わりに怒声を上げる。

「みぃーやァ!」
「それでフョードルはどうかしたのか?何か悩み事?」
「いえ!そんなことは。私の悩みなど努力すれば必ず伴うものと信じているので、ひたすら努力あるのみです!」

怒声を上げるフェルナンドを押しのけながら、何事もなかったかのように尋ねる柚に、フョードルは意気込んだ様子で返した。

柚はそんなフョードルに、感動して目を輝かせている。
フェルナンドも感心した面持ちで腕を組むと、柚に目もくれずに呟いた。

「……いい心掛けじゃないか。怠け者な誰かさんと違って」
「そうだな、いい心掛けだ。誰かさんと違って素直で」
「僕のことか!僕がいつ素直じゃなかったっていうんだ!」
「ああ、そうだ!お前がいつ素直だった時があるってーんだ!」

淡白な目で、互いを遠まわしに貶し合った直後、爆発したように顔を突き合わせて喧嘩を始める柚とフェルナンド。
フョードルは朗らかに笑いながら、「失礼します」と告げて部屋に戻っていく。

二人はぴたりと喧嘩を止め、柚は肘でフェルナンドを小突いた。

「フェルナンド、フョードルが仲良くして欲しいってさ。どうせそんなツンツンした態度でフョードルを突き放すようなことでも言ったんだろ」
「失敬な。第一僕となんて一言も言っていないだろう。僕は余計な面倒事は避けて通りたいんだ。よって、彼には用事以外極力話しかけないようにしている」
「なんだよ、それ!まるであいつのこと面倒だって言ってるみたいじゃないか!まさか、本人にそんなこと言ってないだろーな!」
「いくら僕だって、そんなことを本人に直接言うか!実際面倒なんだよ、頭が固くて融通が利かない、扱いづらくて堪らない!あれはデーヴァよりもタチが悪いぞ」
「最っ低ー。信じられん、よくそんな無神経なことが言えるな。真面目なんだよ、それがあいつのいい処じゃないか」

冷ややかにフェルナンドを横目で睨み、柚はふんっとそっぽを向く。
そんな柚の態度にむっとしたフェルナンドはひくりと顔を引き攣らせ、同じくそっぽを向いてしまう。

その背後に影が掛り、二人が同時に目を瞬かせた時だ。

「俺よりもタチが悪いとは、どういうことだ?」

頭上から降るアスラの声に二人はびくりと跳び上がり、背後で首を傾げているアスラに振り返った。

「とても気になるのだが?」
「い、いえ。大したことでは」
「……そうか。大したことではないのか。だが、やはり気になるな」
「だから、頭が固くて融通が利かないんだってさ、アスラが」

誤魔化そうとするフェルナンドを他所に、柚があっさりと会話の内容を暴露する。
フェルナンドが声にならない声で柚を咎めるように名を呼ぶが、柚は再びつんとそっぽを向いてしまう。

フェルナンドはそれ以上なにも言えず、ギリギリと奥歯を噛み締めた。
手が早ければ口も悪い、おまけに下手に機嫌を損ねると仕返しがひどい。

アスラはさほど気に掛けた様子もなく、小さく唸った。

「そうか。俺は頭が固く融通が利かないのか」
「そうでもないと思うぞ。融通はどちらかというと効かないかもだけど」
「ではそれを直せばいいのだろうか?」
「私はそのままでいいと思うけどな。それも個性のひとつだろ?」
「そうか。お前がそう言うならそれでいい」

穏やかに微笑むアスラを他所に、フェルナンドは苦虫を噛み潰したかのような面持ちで顔を顰めながら、苛々とつま先で床を叩き時間を持て余している。
会話が途切れると、フェルナンドはここぞとばかりに刺々しい声音と共にアスラを見上げた。

「それで、何のご用でしょうか?」
「用はないが、柚に会いたいと思ったから来た。駄目か?」
「だ、駄目じゃないけど。仕事は?」
「少しの間ならば問題ない」
「そっか。じゃあ、少し散歩にでも行く?」
「そうだな」
「ちょっ!宮、勝手に話を進めるな!あなたも今は訓練中です、少しは自重してください!」

はにかんだように返す柚と、完全にフェルナンドの存在など眼中にないアスラに、フェルナンドが声を張り上げて間に入る。

アスラは横目でフェルナンドを見やり、少しの間考え込んだ。
その結果として、アスラは首を傾ける。

「自重、とは具体的に?」
「えっ、それは……」
「フェルナンド、今の流れからしてお前と柚の間に必要なものは、お前の譲歩であり、お前が俺と柚の為に空気としてその存在感を消すことではないのか?」
「んなわけないでしょ!?」

明らかに苛立ちが増した面持ちで怒声を上げるフェルナンドに、アスラは納得したかのように小さく頷いた。

「なるほど、フェルナンドは俺達の間を引き裂こうと言うんだな」
「そんなことは一言も言ってませんよ。勝手にイチャついてください、僕がいないときにでもねッ!」
「俺は、邪魔者がいようと一向に構わんが?」
「邪魔者とはっきり言われた上で、誰が好き好んで同席しますか」

冷静さを取り戻したフェルナンドが、アスラに冷めたまなざしを向ける。

アスラはため息を漏らし、身を屈めて黙って聞いている柚の顔を覗きこんだ。
きょとんとした面持ちで目を瞬かせる柚の顔をじっと見詰め、アスラは小さく息を吐いて姿勢を正す。

「まあいい。お前と焔は大丈夫だろうかと思い足を運んだのもあるんだ」
「……ニエのこと?」

アスラは小さく頷いた。

柚は僅かに俯き、「そっか」と小さく呟きを漏らす。
その顔には悲しみと喜びが混じり合うような、不思議な苦笑が浮かんでいた。

「心配掛けてごめんな。私達は大丈夫、ありがと」
「そうか……ならばいい。昨夜、ガルーダとユリア、玉裁の三人に護衛の任を任せた。明日の朝には戻るだろう」
「そうなんだ……。本当に有難う、心配してくれて」

柚の言葉に、アスラは小さく小さく、目を見開く。
一瞬の驚きは安堵のような微笑みに変わり、アスラはそのまま踵を返す。

その背中に向け、柚は思い出したように声を掛けた。

「アスラ!アスラは大丈夫?疲れてない?」
「俺が?」
「あ、いや。気のせいかもしれないけど、ちょっと元気がないような気がして……気のせい、かな。はは」

以前、出掛ける前に部屋に立ち寄ったアスラの、落ち込んでいるような雰囲気に何処か似ている。
根拠もなくそう思ったのだが、苛立ちを覚えるほどにアスラの表情は変化に乏しいのだ。





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