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ぴちゃ……と、水の跳ねる音が響く。
気だるく顔を上げる耳に声が届いた。
"お誕生日、おめでとう"
いつからか、今日も何処か遠くで声がする。
それはとても明るく、優しい響きを含む。
だが声は四方に跳ね返るように木霊し、何処から聞こえてくるのか分からなかった。
そちらに行きたい、行かなければならない。
半分は使命感のようなもので、その使命感が足枷のように足取りを重くする。
もしかしたら、その声を発した相手はすぐ目の前にいるのかもしれない。
もしかしたら、もっと遠くで、別の誰かに向けて言っている言葉なのかもしれない。
自分に分かることは、一寸先も見えない闇の中に自分がいるということだけだ。
此処が何処なのか、何処から自分が来たのか、いつから此処に居るのか……。
闇に留まる時間があまりにも長過ぎて、すでに多くのものが麻痺している。
ぽとり、ぽとりと、絶え間なく降り注ぐ黒い雨雫。
落ちた雫は、コールタールのようなどろどろとした液体に埋め尽くされた地面に波紋を描く。
"イカロス"
低く、何処か寂しげな声が呟くように名を呼ぶ。
ただそれだけ、声が響いては消えていく。
たった一人、彷徨う青年の胸元にまで、黒い水は迫っていた。
踏み出す一歩に、服に、肌にねっとりと絡み付き、気力と体力を奪っていく。
(出口は……)
何処だろう?
(出口って……)
なんだ?
(なんで俺は、歩いているんだろう?)
疲れた……。
(何を捜していたんだっけ?)
いつからか、捜していたものすら分からなくなった。
だから今は、たまにぽつりと降り注ぐ十色の声を頼りにただ歩く。
足を止めて空を見上げる。
ぽつりと降り注ぐ黒い雫が、頬に当たり伝い落ちた。
世界中を巻き込み、大きな戦争が続いた時代があった。
その最中、母体が受けたストレスにより、アルビノや奇形方と呼ばれる子供が産まれるようになり、さらには自然を操るなど不可思議な力を持つ子供が誕生した。
冷戦状態にある世界情勢の中、政府は不可思議な力を持つ人間を新人類とし、新人類を"使徒"と名付けると、使徒で構成した特殊能力部隊"アース・ピース"を新たに創設し、次期戦争の主力戦力として、保護と言う名目の下に自己の管轄化に置いた。
深い森の奥にひっそりと、巨大な門と厳重なセキュリティーに守られ、アース・ピースの基地は存在する。
一度中に入れば長い一本道が続き、その両隣を深く平坦な森が覆う。
都会の喧騒を忘れさせるような静かな道をひたすら進むと、次第に象徴的な大きな建造物が姿を現す。
ビルのように突き出た中央塔を挟み、鏡に映したように同じ造りの建物が並んでいる。
中央塔にはアジア帝國の国章が刻まれ、そこに住まう者達を見下ろしていた。
向かうあう建造物にはさほど高さはないが、西館は主に人間、東館は使徒へと割り当てられている。
使徒達の居住区が置かれた東館には人影もなく、西館には使徒の研究を担う者達が慌しく行き交う。
ごくごく普段通りの光景が繰り広げられる中、東館の前に広がる森の中からヒステリックなフェルナンド・リッツィの怒声が飛ぶのは、比較的珍しい光景だった。
「この救いようのない馬鹿が!僕の指示を聞いていたのか!」
怒鳴られているのは、白い軍服に身を包んだ少女。
軍人には似つかわしくない長い髪を、ゆったりと編んで纏めている。
日焼けを知らない陶器のように真っ白な肌が、今はほんのりと赤く染まっていた。
少女の名を宮 柚。
使徒は女性の出生率が圧倒的に低い。
ここアジア帝國で現在二十名に満たない使徒が保護されている中で、唯一の女性使徒だ。
一見すれば、大人しそうな何処にでもいる少女だが……。
「聞いてたからちゃんとやったんだろ!それなのに、何だその言いよう!姑!冷血漢!貧弱色白!」
負けじと怒鳴り返している。
顔を盛大に引き攣らせたフェルナンドは、手を振りかぶって更に声を荒げた。
「だっ、誰が貧弱だ!そもそも君は右と左の区別もつかないのか!?」
「そりゃこっちのセリフだ!私からすれば右はこっちだ!」
「右といったら、普通僕から見てだろう!」
「いいや、普通私から見てだ!教える側なら、そこ等辺考えて指示するべきだろ!もっと分かりやく指示しろよ!」
「君がよく分からないというから単純に言い換えているというのに、これ以上分かりやすく出来るか!?」
口論を暫し見守っていた小柄で筋肉質な男、教官のジョージ・ローウィーは、今日何度目かの光景に頭を抱え、項垂れるようにただただため息を漏らす。
それに見兼ねたのが、ライアンズ・ブリュールだ。
「おい、お前ら止めろよ。教官が呆れて言葉もないってさ」
白髪に炎のようなメッシュが入ったライアンズは、呆れ気味に口論をする柚とフェルナンドの間に入った。
途端にフェルナンドが更に目を吊り上げ、止めに入ったライアンズを睨み返す。
「うるさい、今作戦会議中だ!こっちに来るな!」
「作戦会議ならもっと静かにやれよ。つーかさっきから作戦会議ばっかで訓練になんねぇよ」
ライアンズは、呆れた面持ちで腕を組み反論した。
フェルナンドはますます気に入らないようにライアンズを睨み返す。
そしてすぐにわざとらしく大きく息を吐きながら、落ち着いているといわんばかりに暗めの金髪を撫で付けると、嫌味な笑みをその顔に張り付けた。
「僕は落ち着いている、君は本当にお節介が好きだな。さっさとそちらの陣地に戻ったらどうだい?」
「一々なんだその見下した態度は。喧嘩売ってんのか?もうちょっと素直に、ごめんなさいとか詫びの言葉はねぇのかよ」
「何故詫びる必要があるんだろうね、君が詫びるならまだ理解できるよ?ちょっとのことで変に勘繰るのはやめてもらおうか。僕がいつ、どのようにして喧嘩を売ったって言うんだろうね?君も少し発言には気をつけたらどうだい?顔を見ただけでも分かる育ちの悪さを、自ら更に露呈することもない」
「んだとォ!ベラベラベラベラと良く口が回るじゃねぇか、てめぇの口には油でも塗ってあんのか?あァ?その調子で後輩の指導くらいまともにやれってーんだよ」
「聞き捨てならないぞ!君の言い草じゃあ、まるで僕が指導出来ていないみたいじゃないか。あれは宮の方のミスだ」
フェルナンドの指が、見物に来ていたハーデスと勝手に切り株に座り、和やかに話している柚を指す。
「なんでも人のせいにするのはよくない」
柚は口を尖らせ、人事のように反論した。
ハーデスは長い前髪の間から瞳を覗かせてこくりと頷く。
「うん、俺もそう思う。柚は悪くない」
結果としてそれは火に油を注ぐことになる。
フェルナンドの頭の中で、何かが切れる音が聞こえてくる気がした。
「部外者が口を出すな!?宮、君は黙って僕の言うことを聞いていればいいんだ!ブリュールは死ね!」
「なっ、てめえ!何で俺だけ!?」
「あー、あー、お前等、それくらいに……」
さすがに止めに入ったジョージを退け、ライアンズが掴み掛かった瞬間、ライアンズの爪がフェルナンドの顔に当たる。
フェルナンドは憎しみの篭った目でライアンズを睨み返し、「この野蛮人が!」と叫びながら武器を手に取る。
「お、おお、お前等っ!」
森に破壊音が響き渡る中、ジョージの悲鳴が轟く。
「おい、再開したのかよ?だったら一言言ってからにしろよな」
「ううん。ライアンとフェルナンドが喧嘩してるだけ」
ライアンズとペアを組み奥で待機していた西並 焔が、文句を言いながら駆け寄ってくる。
典型的なアルビノである柚やライアンズとは対極に、漆黒の髪と瞳に、健康的に日に焼けた肌。
やや釣り目がちな少年の顔には、いつも通り不機嫌そうな愛嬌のない表情が浮かんでいた。
そんな彼の白い軍服の肩で、三枚の腕章が揺れる。
焔は爆音と爆風から頭を庇いながら、呆気にとられた面持ちで破壊されていく森を見た。
「喧嘩って……いい大人がなに考えてんだ、あいつ等。訓練中だぞ」
「そりゃこっちが聞きたい!ハーデス、あいつ等をなんとかしろ!」
爆音に負けじと、ジョージはハーデスに向けて怒鳴る。
ハーデスは煌々と燃え上がる森をぼんやりと見上げると、肩を竦めた。
「俺入ったら、フェルナンドもっと怒ると思う……」
「ほっとけば、そのうち飽きるって」
「付き合いきれねぇ……もう、今日の訓練終わりでいいか?そもそも俺、こういうの向いてねぇし……」
「ぐっ……お前等ァ、いい加減に――」
ジョージが大きく息を吸い込み、怒声を上げようとした瞬間、空気がビリビリと振動するように震え始める。
振り返った柚と焔が「げっ」と、呟きを漏らす。
次の瞬間、辺り一帯の木がみしみしと軋む音を立ててしなったかと思うと、踏みつけられたかのように太い幹が割れて横倒しに倒れ込む。
木々が倒れた衝撃音は耳をつんざく轟音だが、倒れた拍子に青々と茂る葉が舞い上がるでもなく、ましてや砂埃が立つわけでもない。
上から見えない何かに押さえつけられたかのように地面に押しつけられたまま、ぴたりと動きを止めている。
それと同時、森を包んでいた炎が水を掛けるよりも迅速に、ロウソクの火を消すかのように消失した。
その中央で、木と同様に地面に押し潰されて倒れこんでいるライアンズとフェルナンドが、まるで蛙のようだ。
「随分とくだらんことをしているようだな」
砂を踏む静かな足音が二人の前で止まり、涼やかな声音が二人の頭上に冷ややかに降り注ぐ。
声の主である青年の右肩にはやはり三枚の腕章、そして反対の肩には軍での位で最も高い地位を示す腕章が三枚。
ガラス玉のように澄んだ水色の瞳と、光に溶け込みそうな金の髪、身に纏う軍服は他の者と同じ白なのだが、色素の薄い彼が纏うと心なしかより色をなくして感じる。
感情の起伏など滅多に見せはしない端正な顔立ちは、静かな怒りを湛えていた。
「げ、元帥!あ、あの、これは、その……」
青褪めたジョージが、おろおろと自分よりも若い青年の背中に声を掛ける。
アース・ピースの若き元帥"アスラ・デーヴァ"は、肩越しに視線のみでジョージへと振り返った。
長い付き合いであるジョージは、その視線に口を挟む余地がないことを察すると、申し訳ない面持ちで口を閉ざす。
水色の瞳は素っ気なく、再び地面の這い蹲るライアンズとフェルナンドへと向けられた。
「お前達の馬鹿騒ぎは、俺の執務室にまでよく聞こえたぞ」
顔を起こしたライアンズが慌てて弁解をしようとしたが、一帯を覆う重力が極端に増し、ライアンズはやっと起こした顔を再び地面に埋もれさせる。
そのとばっちりを受けたフェルナンドが、小さくうめき声を漏らした。
「気が弛んでいるにも程がある。後輩の見本となるべきお前達がその調子では、能力クラスが上の者に取って代わられるのも時間の問題だな」
アスラは焔と柚に一瞥を投げると、ライアンズとフェルナンドに背を向け、踵を返す。
まるで氷のような冷たさを纏いながら吐き捨てるアスラに、柚がぼそりと「言い過ぎなんじゃ……」と呟きを漏らすが、誰も否定も肯定もしない。
政府は使徒の能力を九階級に分け、さらに三クラスにランクを付けている。
あくまでも能力値によるランク分けで、潜在能力が大きかろうと、使い手によって戦闘能力は上下する。
柚と焔、そして元帥であるアスラの肩には最高クラスである三枚の腕章。
ライアンズとフェルナンドの肩には、中級クラスを示す二枚の腕章が存在を主張しているが、現在士官を除いた戦闘能力のトップはライアンズとハーデスを始めとした中級クラスの者達だ。
「うっ……く、申し訳ありません」
骨格から臓器まで押し潰す重圧の中、声を絞り出すことも容易ではない。
やっとのことでライアンズが謝罪を口にすると、体中に圧し掛かる重力が消え去る。
体が浮くとすら錯覚するほどの軽く感じ、ライアンズは息を吐き出す。
ライアンズが体を起こすよりも早く、フェルナンドがギリリと奥歯を噛み締め、勢い良く体を起こした。
「冗談じゃない!なんで僕がこんな目に遭わなければならないんだ!そもそもの宮、君が僕の指示を聞いていればこんなことにはならなかったんだぞ!」
「えー……」
柚に詰め寄るフェルナンドに、柚がたじろぐ。
途端にアスラが足を止め、フェルナンドへと振り返った。
「それがどうした」
さらに声を荒げかけたフェルナンドの声を遮るように、アスラの声が静かに響く。
フェルナンドの視線のみならず、その場にいた全員の視線がアスラへと向けられ、誰もが口を閉ざした。
「戦場では言い訳など通用しないと、お前は教わらなかったのか?」
静観していたハーデスが、「機嫌悪いなぁ」と小声で呟く。
「お言葉ですが、デーヴァ元帥。あなたは最初からこの場にいたわけでもなければ、随分と宮にご執心のご様子ですし、公平に物事を判断しているとは思えないのですが?」
「お、おい、フェルナンド……」
慌てたようにライアンズが片手を腰に当てて反論するフェルナンドを止めようとする。
アスラの眉がぴくりと釣りあげられ、周囲の空気が凍りついた。
砂を踏む音と共に、アスラが柚へと向き直る。
柚がびくりと肩を揺らし、静観していたハーデスがおろおろとするのを他所に、焔が柚に半眼を向ける。
「柚」
「は、はい?」
「お前は何故フェルナンドの指示に従わなかった」
「……だって、よく分からないんだもん。指示待つより、自分で動く方が早いし、体が勝手に動いちゃうし」
柚はばつが悪そうに、アスラから顔を逸らして口を尖らせた。
焔とライアンズは共に炎を操る使徒で、柚は水の力を持ち、フェルナンドは氷を操る。
能力属性の近い者同士で共に闘うことを想定しての訓練なのだが、自己主張の激しい者同士の集まりのせいか自滅や喧嘩が絶えず、怒鳴り過ぎたジョージの喉はすっかり枯れ果てていた。
アスラは柚と焔の前に歩を進める。
「柚に限ったことではないが、お前達は当初からスタンドプレーが目立つ。そもそもこれは相手との連繋を強化する訓練ではないのか?お前も少しは訓練内容を考えろ」
「うっ……」
柚が言葉に詰まると、アスラは建物の方へと戻りながらジョージに声を掛けた。
「ローウィー教官、訓練内容の変更だ。あれをやってやれ」
「え!?あ、あれですか?ですが……」
「ちょっ!?待ってくださいよ、まだ連繋訓練初日ですよ?酌量の余地ありでしょ?」
慌てて飛び起きたライアンズが、おろおろと手をまごつかせながら、早々に立ち去ろうとするアスラに必死に追い縋る。
フェルナンドがショックのあまり、口を開いたまま青褪めていた。
「どこに酌量の余地があるのか聞かせてもらおうか?使徒同士の力を使った喧嘩は禁止されているにも関わらず大声で恥を晒し、挙句には建物への被害はなかったもののこれだけ森を破壊しておいて、独房行きめ命じないだけマシだと思わないか?」
淡々と、何処までも淡々と感情を感じさせない声で告げるアスラに、ライアンズが引き攣った顔で言葉を飲み込む。
フェルナンドが今にも倒れそうな面持ちで立ち尽くしている。
「教官、ついでに玉裁に森の修復指示を。大至急だ」
「は、はいっ!」
何事もなかったように去っていくアスラと、引き攣った顔で教え子たちに振り返るジョージ。
「あれってなんだ?」と首を傾げる焔と柚を他所に、フェルナンドが頭を抱え込み、その場に座り込む。
「こっ、この僕が!この僕があんなおちこぼれコースを体験する羽目になるなんて!この僕がッ!?一生の恥だ!」
「うっぜーな!誰のせいだと思ってるんだ、まずはこの俺に詫び入れろ、侘び!」
「はァ?君のせいだろ。君と宮のせいだ!」
「てめぇ、いい加減少しは――」
「ちょっと、また喧嘩?もうそれはいいよ」
「それよりあれってなんだよ」
第二ラウンドが始まりそうなライアンズとフェルナンドに冷めたまなざしを向け、柚が二人の間に入って引き剥がした。
焔が疑問を口にすると、ジョージが哀れむような目を向けて焔の肩を叩く。
「まあ、今回ばかりは……お前が一番の被害者だな」
「はァ?」
「なんでそんなに嫌がるのかな?俺は柚とやってみたかったな」
ハーデスが残念そうに呟きを漏らす。
次の瞬間には、喧嘩を中断させられたばかりの二人も思わず言葉を失くすような低い声音で……。
「ま、フェルナンドとだったら、独房のほうがマシだけど」
と、吐き捨てながら、どこか陰のある笑みを浮かべる。
「そっ……それはこっちのセリフだ!?」
鳥肌が立った腕を擦りながら、フェルナンドが怒鳴り返す。
ハーデスはにこりと無垢な笑みを浮かべ、朗らかに笑う。
「ふふ、冗談だよ。俺、皆と仲良ししたいもん」
「嘘を付け!?」
フェルナンドの怒声から逃れるように、ハーデスの周囲にノイズが走り、姿が一瞬にしてその場から掻き消される。
空間を跨いで近くの木の上にふわりと舞い降りたハーデスは、見上げてくる柚に向けて小さく手を振り、再び姿を消す。
すると、その場から完全にハーデスの気配が消えた。
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