19


ふいに目の前に光が差し込む。

気付けば自分が最初に逃げ込んだ屋上の踊り場にいた。
玉裁もフランツもいない。

ただ前には、薄いドアがひとつあるのみだ。

床に倒れるハーデスの頭上からは、ガチャガチャとドアノブを回す音がした。
三回目で、鍵の掛っている筈のドアノブはあっさりと回り、ドアがゆっくりと開かれる。

「なっ……!」
(なんで!)

ドアの隙間から真っ先に見えたのはジャンだった。
車椅子姿のジャンではなく、二本の足で立つあの頃の、優しい微笑みを浮かべたジャンだ。

「ハーデス。怖かっただろう?」
「ジャ、ジャン……どうして?足は?」
「全て悪い夢なんだ。おいでハーデス」
「ジャン!」

ジャンに向けて、起き上がり駆け出そうとしたハーデスの手をドアの隙間から伸びた手が強く掴み、もの凄い力で引き摺り寄せる。

「いっ!?ジャン、痛い!」
「皆、捕まえたよ」

ジャンはハーデスを集まる仲間達の前に引き摺りだし、ガルーダとイカロスが意地の悪い静かな笑みを浮かべながらハーデスの腕を地面に押さえつけた。
すぐ目の前で足を止め、アスラがハーデスに――というよりは、仲間に、淡々と決定事項を伝え始める。

「上がハーデスの処分を決定した」

水色の瞳はハーデスを見下ろしていた。
だが、確かにアスラの目は自分を見ているのだが、本当の意味でハーデスを見ているような気はしない。

「どうにか助けられないのか?」

先ほど鎌で切りかかってきた柚とはまるで別人のように、柚が落ち着いた様子でアスラへと問い掛けた¥る。
返るのは、機械的な答えだった。

「俺の権限は及ばない」
「そうか。残念だけどさよならだ、ハーデス」

柚は静かに首を横に振ったが、それ以上は何も言おうとはしない。
そんなにあっさりと諦められるほど、柚の中で自分の存在は小さいのだろうかと、思わざるを得ない。

「俺達を恨むなよ?」
「仲間と離れた方がハーデスも気持ち的に楽だろう?大丈夫、死の恐怖なんて一瞬だよ」

ガルーダとイカロスが他人事のように宥めてくる。

「お、俺、死にたく、ない……」
「上の決定事項は曲げられない」
「アスラ、お願い、俺……」
「上の決定事項は覆らない」

まるで機械のようだと思った。
アスラは淡々と、同じような言葉を繰り返すのみだ。

アスラでは話にならない。
ハーデスは自分を見下ろす仲間達の中、ライアンズに目を止めて必死に叫んだ。

「ねえ、ライアン!俺死にたくない!」
「天国で元気にやれよ」
「死んでどう元気にやるっているんだい」

ライアンズは困ったように笑い、そんなライアンズの隣で腕を組むユリアが嘲笑を向ける。

「死にたくない、助けて!ヨハネス!」
「あなたのこと、忘れませんよ」
「お願いだよ!柚!お願い、なんでもするから!」
「寂しくなるな……」

柚は寂しそうに微笑んだ。

ハーデスの訴えはあっさりと聞き流されていく。
誰も助けてはくれない、誰も本気でハーデスを惜しんではくれない。

すると、何処からともなく幼い子供の声が割り込んできた。

「パパを殺さないで!」
「パーベル」

それはハーデスにとって見知らぬ子供で、四、五歳の子供だった。

自分に良く似た赤紫で癖のある髪で、ぼさぼさに伸ばされている。
肌の色も冴えず、目にも生気がない。

だが誰かがその子供をパーベルと呼ぶと、すんなりとその子供がパーベルなのだとハーデスは納得してしまう。

「パパ!大丈夫?」
「パーベル……」

自分に駆け寄り、怪我の具合を見て痛々しげに顔を顰める。
その間にも少年は、少しずつ成長を続けていた。

「パパ、死んじゃ嫌だ!パパ大好きだよ、死んだら許さないからね!」
「だい、じょうぶだよ……パーベル」

泣きそうな顔で訴えてくるパーベルに、嬉しさで涙が溢れる。
パーベルは柚へと向き直ると、柚に訴えた。

「お願い、ママ。パーベルのパパを殺さないで!」
「それは出来ないんだ、パーベル。あんまりママを困らせないでね」

柚はパーベルに言い聞かせる。
だが、パーベルの聞き分けは悪い。

「殺さないでって言ってるのに!どうして分かってくれないの?」
「いい加減にしないと怒るぞ、パーベル!」
「だったらママが死ねばいいんだ!」

声を荒げた柚に対し、パーベルはいつの間にかハーデスの鎌を手に、柚へと斬りかかる。

ハーデスの背筋が凍りついた。
喉が引き攣り、倒れたまま腕を伸ばす。

(ああ、こんな時になんで足が動かないんだろう……)

頭の中に思い描く染み付いた動作で、力がハーデスを包み、柚と斬りかかっていくパーベルの間に力を送る。
祈るように力の中に溶け込みながら、ハーデスは空間を跳んだ。

二人の間に着地したハーデスの足は体を支えられずに、体は柚に向けて倒れ込みながらも、ハーデスはパーベルに「止めて」と叫び、柚を庇うように腕を広げていた。

閃光のように、鎌が走り抜けた。
冷たい、まるで氷に触れたような感触を肌に感じた直後、熱が襲う。

ひゅう――と、喉が鳴った。

自分の体から噴き出る血を見ながら、ハーデスの体がゆっくりと地面の上に崩れ落ちていく。
自分の体が地面に倒れる音と、空気が漏れるような音が喉から漏れる。

不思議そうに目を瞬かせて自分を見下ろすパーベル。

(違う……この子は――)

先程までは子供だったパーベルは、いつの間にか少年にまで成長していた。

自分と同じ癖の強い赤紫の髪、生気を感じない瞳、不健康そうな肌の色をして鎌を手にする。
何故パーベルだと言われてそうだと思ったのか――この少年は、あの時のハーデスそのものだ。

「どうして……?いきなり飛び出すの?」

少年の姿をしたハーデスは、焦った様子もなく困ったように問い掛けてきた。

「ジャンが飛び出すから斬っちゃったじゃないか」

まるで飛び出したハーデスに非があるかのように……。

「早く診てもらわないと死んじゃうよ?」

まるで他人事のように……。

「ねえ、ジャンが怪我しちゃった。このままじゃ死んじゃうんじゃないの?皆?どうしてそんな遠くから見てるの?早くしないと」

痛みで気を失いそうな自分を遠巻きに見る仲間達は、恐らく少年のハーデスが恐ろしくて近付くことが出来なかったのだろう。
少年のハーデスは首を傾げた。

「それとももう、ジャンは廃棄処分なの?」


(嫌だな……本当、嫌になるな)


痛みがぼやけるように、意識が慢性的な痛みの中に溶けていく。
何処かで指を鳴らす音がして、ハーデスは静かに瞼を起こした。

「やあ、お目覚め?」
「ユリア……?」
「どうだった?」
「どう、って……?」
「途中から気付いてたでしょ?幻術だって」
「……」

ハーデスは無言でこくりと頷き、そでで涙を擦りながら倒れていた体を起こし、自分の体を見下ろした。

軍服はいつも通りの真っ白な生地で、血の跡や痛みなど全くない。
当然、骨など折れてはいない。

「ユリア……」
「なに?」
「いじわる。ちょっと、今は顔見たくない」

言い残し、一瞬にして闇の中に消えていくハーデス。

ユリアは一人残された屋上で肩を竦め、小さく苦笑を浮かべた。

すると、下の階からジョージが自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
返事を返すと、ジョージが窓から身を乗り出して声を張り上げてきた。

「ユリア。すまん、来てくれ。任務だ」
「はいはい」

まるで最初から知っていたかのように構えた様子もなく、のんびりとした口調で気のない返事を返し、梯子に手を掛ける。
思い出したように満天の星空を見上げ、ユリアはくつくつと愉快そうに笑みを漏らした。





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