18


「私達はジャンとハーデス、どちらを求めているか……」
「ゆ、ず……?」

「嘘でしょう?」と問い掛けるように、名を呼ぶ。
だが、返事はなかった。

柚がユリアに掌を差し出した。
ユリアは笑みを崩さないまま、柚に大鎌を手渡す。

柚の手に重みが加わり、刃が下を向いた。
艶めかしく揺らめく銀色の刃は、そのまま時計の針のように大きな弧を描いていく。

ぐるりと大きく一回転した刃の柄は柚の両手にしっかりと握られ、柚は小柄な体よりも長さのある鎌を大きく振りかぶり、ハーデスに向けて振り下ろした。

はらはらと、前髪が数本散っていく。
よろめくように半歩の差でかわしたハーデスの背後から、勢いよく足を踏み込んだ音とともに、焔の刀がハーデスの体がある場所を真横に容赦なく切り裂いた。

ハーデスは瞬時にその瞳に着地地点の目標を定め、焔の刃が触れる直前に空間を跳び、その場から五メートル程離れた地点に姿を現して柚と焔の方へと振り向いた。

振り向いた瞬間、炎の弾丸がハーデスの腕に当たり、ハーデスの体が地面に向けて傾く。
ライアンズが構える二丁の銃は、さらに引き金を絞り込み、倒れるハーデスに追い打ちをかけようとしていた。

そちらに気を取られていたハーデスの耳に、空気を切る何かの音が入り込む。

「う゛っ!?」

背後から背中を叩き付けるような衝撃と共に、反射的に漏れた声と、開いた口から吐き出される血。
コンクリートの地面にぽつぽつと血が飛び散り、ハーデスは自分の胸元を見下ろして恐怖した。

体を貫く氷の矢が赤く染まり、胸の辺りから顔を出している。
恐怖に駆られたハーデスが矢に触れた瞬間、氷の矢は蒸発して消えた。

「やるじゃん、フェルナンド」
「ふん、いつかこうしてやりたいと思っていたのさ」

ライアンズが笑いながらフェルナンドを称え、フェルナンドが満更でもない様子で返す。
痛みで頭が朦朧としていたが、それ以上に疎外感による孤独を強く感じていた。

「やめ、てっ……」
(なんでっ、なんで?)

痛みにきつく閉じる瞼を抉じ開け、瞳が障害や人の気配のない場所を捜し捉えると、ハーデスは倒れる直前に姿を消してその場所に逃げ込み、足に力を込めて踏み留まる。

「痛い、死んじゃう……」
(逃げなきゃ、殺される――柚まで、俺のこと、殺そうとした)

傷を押さえる手は恐怖に震えていた。
自分が誰からも必要とされていない――そう理解していても、やはり生への執着は捨てられない。

建物を離れて森の方へと、そこから基地の外に出て逃げるしかない。

一度に移動できる距離には限りがある。
外への外壁まで、ハーデスの力を持ってしても少なくて五回。
しかし、外に出た後がどうなるか分からない。

(でも、死にたくないっ)

一歩踏み出そうとしたハーデスの足を、ぐいっと何かが引き寄せる。
ぎくりとして足元に視線を向けたハーデスの視界には、足に巻き付く蔦が見て取れた。

手で引き千切ろうとするハーデスの手にまで蔦が絡み付き、増殖していく。
毟れば毟るほどに蔦は増え、足と腕を絞め上げる力が強くなってくる。

みしみしと骨の鳴る音が聞こえ始め、ハーデスが震えあがった。

「ぁ、あ……やだ!」
「粉々に砕けちまえ」
「やめてェ!?」

そうだ、鎌で……と、周囲を探るが、生憎武器はない。
先程何故かユリアがハーデスの大鎌を持ち、それを柚に渡していたことを思い出す。

「誰か助けて!」

遠巻きにこちらを見下ろす仲間達に、縋るように視線を向ける。
足と腕の骨が砕ける鈍い音が耳に届いたのは、それと同時だった。

ハーデスは悲鳴と共に、建物の中へと空間を跨いで逃げ込む。
蔦が毟れる音と、足に激痛が襲い、体も心も引き裂かれたかのようだ。

屋上へと繋がる踊り場に転がるように降りた瞬間、愛嬌のある笑顔と共にフランツがハーデスを出迎えた。

心臓が飛び出るかと思うほどに驚き、ハーデスは床に尻餅をつく。
恐怖に歯がガチガチと音を立てていた。

今まで一度も感じたことはなかったが、今はフランツの笑みが恐怖以外の何物にも感じないことがまた恐ろしかった。

「ここに来ると思って、待っていたんですよ」
「フ、フラン!?お願い、助けて……お、俺は――」

フランツはにこりと微笑み、地面に手を付くハーデスの指を軍靴で踏み付ける。

「あははは、気持ちがいいですね。自分より強い人をいたぶるってのは!」

フランツは高々と笑い、手を踏みつけていた足でハーデスの顔を蹴りあげた。
地面に転がるハーデスの腹をボールのように蹴り飛ばし、フランツはハーデスの目の前にしゃがみ込んだ。

「知ってます?爪の間に針を通すのって、もの凄く痛いそうですよ」
「やっ、やめ……」

声が震え、「やめて」の一言すら言えない。
力を使いたくても、恐怖のあまり集中力が霧のように散ってしまう。

フランツはにこりと微笑み、ハーデスの手をそっと丁寧に取った。

「ちょっと、興味あるんで実験させてくださいよ」
「あ、ぁ……」
「いいでしょう?どうせあなた、死ぬんですから」
「!?」

咄嗟に体が動く。
ハーデスは折れていないもう片方の手でフランツの足首を掴むと、力任せに引き寄せる。

フランツが声を上げ、床に尻餅をついて転がると、ハーデスは左足と腕を引き摺りながら、這って階段の方へと逃げだした。
起き上がったフランツが、低い声で自分の名を叫んでいる。

(怖い、フラン怖い、誰か!助けて、嫌だ、死にたくない!)

足に叩きつけるような衝撃が襲い、ハーデスは叫び声をあげて階段から転がり落ちた。

全身が痛く、何が何だか全く理解出来ない。
何処に怪我を負っているのかすら分からない中で、ただはっきりと恐怖を感じていることは確かだ。

太腿やふくらはぎに細長い針が何本も突き刺さっていた。
貫通しているものまである。

ただの針ではない、フランツの力が練り込まれているものだ。
針とフランツの間には見えない繋がりがあり、下手な刃物などよりもよっぽど殺傷能力が高い。

ハーデスは獣のように咆哮を上げながら、針を振り払い、周囲を見渡す。
講義室や会議室など、公共の部屋が点在する。

部屋の中を見通し、人がいないことを確認した。
その中に空間を跨ぎ、移動するイメージを頭に描く。

体を力が包み込む。
力に体を溶かし込む……というべきか、力で体を包み込みまるで力そのものであるかのように偽装するというべきか――本能的な動作で、ハーデス自身もよく考えたことはない。
千里眼ほどの力はないが、瞳で周囲を透かし見た上で瞳に定めた移動場所に力の一部を移す。
すると体を浮遊感が襲い、その場所へと磁石のように引き寄せられる。

それがハーデスが移動する一連の過程だ。

だが、体が浮遊する感覚は訪れず、周囲の風景も変わらない。
ハーデスは目を瞬かせ、困惑した面持ちで小さく疑問の声を漏らした。

(なんで?)

何故?と、何度目かの問い掛け。

何度試しても、体が目的地に移動しない。
頭の中で力が使えなくなっているという結論に至った瞬間、ハーデスは冷や汗を流しながら階段の上へと振り返った。

薄暗い踊り場に立つフランツは、ただ無言で自分を見下ろしている。

その後ろのドア――屋上へと繋がるそのドアは鍵が掛けられているが、ドアノブが数回、ガチャガチャと回る音が、階段の下にいるハーデスの耳にも届いた。
簡単に壊れ、すぐにでも入って来られる、扉一枚の距離しかない。

立ち上がろうとして足に激痛が走り、ハーデスは地面に倒れ込んだ。

足から血が流れ出ており、ズキンズキンと痛みの波が規則正しく押し寄せてくる。
白い軍服は最初からその色であったかのように真っ赤に染まり、肌にぴたりと張り付く感触が気色悪い。

(逃げなきゃ……)

喉からヒュウヒュウと、空気の抜けるような音がしていた。
目頭が熱い。

足を引き摺り、ハーデスは必死に廊下を這った。

(廊下って、こんなに長かったっけ?)

痛みに耐えていくら進もうと、全く進んだ気がしない。
片腕でなんとか床を這うハーデスの腕が痺れ、力尽きそうになってようやく、一部屋分ほどの距離だ。

足というよりは下半身がひどく重かった。
まるで砂袋を引き摺っているかのようだ。
いっそ切り捨ててしまえば楽なのだろうかと思うほどに、動かないことに焦り、苛立つ。

「ねえ、まぁだ?」

すぐ隣を、いつの間にかアンジェが歩いている。
アンジェは首を傾げ、憐れみに満ちたまなざしでハーデスへと問い掛けた。

「ハーデス、足が動かないの?可哀想」
「もう一生そのままだね、可哀想」

ハーデスを挟むように立つライラが、同じく憐れみの眼差しを向けてくる。

「ハーデスを生んだ母親や父親が生きていたら、怪我の具合を心配しただろうね」
「そうだね。でも、安心させてあげられることも出来ないんだ……外の人と連絡は取れないものね」
「でも、研究所で育った僕達には、まったく理解出来ないけどね」
「うん、理解出来ない」

頭の上で交わされる会話に、ハーデスの心臓の鼓動が交じった。

「ところで足が不自由ってことは、もう任務には使えないんだ。生きてる意味がないね」
「そうだよ。子供も残せないハーデスは、本当に無意味な存在だよね。いよいよ殺処分決定じゃないの?」

双子は顔を見合わせ、冷や汗を流すハーデスを見下ろす。
その場で息を殺すように、ハーデスは体を強張らせた。

「でも、仕方がないよねぇ」

双子の声は気持ちが悪くなるほどぴたりとはもり、双子は互いの手を取り、無邪気に笑いながら廊下を走り去っていく。
ハーデスは片腕で僅かに上体を起こした姿勢のまま、動けずにカタカタと震え、床を無意味に見つめていた。

(俺、殺処分、なの?でも価値がないなら、死ぬしかなくて……で、でも、俺、死にたくない)

「ぅ……」
(仕方がないと思ってたのに、自分の番になるとこんなに怖い。でも俺だけ例外で助かるなんてアスラが許さない)

頬を涙が零れた。

(アスラは、きっと俺を庇ってくれない……)

使い道のない使徒には、いつ処分宣告が下されてもおかしくない。
アスラとよく意見の食い違いを見せ、日頃から折り合いが悪かったジャンも恐らく、アスラに対して同じことを考えたのだろう。

もし処分が決定されればアスラは間違いなくその命令に従い、自分の処分に同意する――そう確信が持てた。

ジャンはベッドの上でその恐怖を感じていたのかもしれない。
だが、どんなに恐怖を感じていても足が不自由でどうすることも出来なかった。

今のハーデスも同じことだ。

何処かの部屋に逃げ込もうとしても、ドアにも窓にも手が届かない。
これほどまでに違うのかと絶望する程に、今まで当たり前に出来ていたことが出来ないことはストレスとして募る。
こんな状態がいつまで続くのか、ただ終わりの見えない絶望があるのみだ。

そう考えると、無性に泣きたくて堪らない。

「よお、ハーデス。痛そうだな、その腕と足。変な方向に曲がってんぞ、大丈夫なのか?」
「痛々しいですね。痛みませんか?」

突如しゃがみ込む気配と共に、玉裁とフランツが目の前に現れる。
まるで他人事のような態度に、ハーデスは呆気に取られるばかりだ。

「でも玉裁ひどいですね。あなたがやったんじゃないですか」
「あ?そうだっけ?俺よく覚えてねーんだよな。それ、本当に俺がやったのかよ?つーかお前だってやったんじゃねぇの?」
「そうでしたっけ?僕もよく覚えてなくて……ごめんなさいね、ハーデス」
「悪かったな、ハーデス」

フランツと玉裁は苦笑を浮かべながらハーデスに謝った。
ハーデスは小さく口を開いたまま、ただただ二人の顔を見ているしかない。

「許してくれるだろ?」
「謝ったんだから、もういいですよね?」

悪びれた様子もなく謝る二人に、ハーデスが愕然とした。

「良くない……良くないよ!全然良くない!!」
「なんだよ、謝っただろ?その内車椅子生活も慣れるだろ?」
「心が狭いですね。僕、ちゃんと謝ったのに……傷付きました」
「どうして!俺はもう二度と歩けないかもしれないのに!その意味、本当に分かってるの!僕は――」

処分されてしまうかもしれないのに。

同じ目に遭わせてやりたいと思うのは、いけないことだろうか?
どうして仲間にこのような目に遭わせられなければならないのか。

謝って許されることではない。
例えどんなに心を込めて謝られても、到底許す気にはなれない。

ハーデスは声を上げて泣き始めた。

心が痛い。
体の痛みなど、忘れてしまえるほどに心が乾き、ぼろぼろに砕けている。

(こういうことだったんだ)

漠然と理解した。

そう感じると、一層涙が溢れ出す。
酸欠になりそうなほど嗚咽を繰り返し、どこに行けばいいのか分からない迷子のような絶望に襲われていた。





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