17


ハーデスは柚とフェルナンドを宿舎に送り届けると、すぐさま踵を返してその場から姿を消した。

空は薄暗くなっている。
それでもハーデスの目は不自由を感じない。

空間移転の力の付属のようなものであり、壁などの障害物がぼんやりと透けて見えたり、人の気配を大体の感覚ではあるが掴むことが出来る。

「ユリア!ユリアいるの!」
「うるさいな、ここにいるよ」

騒がしい声と共に姿を現したハーデスに、いつもの定位置である屋上で涼んでいたユリアは瞼を起こした。

「ユリア、俺、ジャンの気持ちを理解したい!」
「……は?」
「俺、ジャンがどんな気持ちだったか知りたい。ユリア教えて!」
「そうだね、まず落ち着きなよ」

ユリアは上体を起こすと、迷惑そうに欠伸を漏らす。
ハーデスは落ち着かない様子でユリアの正面に正座をすると、そわそわとユリアの反応を待った。

「で?理解したいってどういうこと?」
「俺、俺ね、自分のしたことと向き合わなきゃならないんだ」
「……へぇ、なんでまた?」

目を瞬かせたユリアは興味がわいたのか、すぐに口角を吊り上げ、斜に構えた笑みを浮かべてハーデスに顔を寄せる。
ハニーブラウンの柔らかく細い髪が、ユリアの一挙一動にふわりふわりと揺れていた。

「柚に、置いていかれちゃうから」
「なんだい、その理由」
「柚がウラノスって子が死んだこと気にしてて、自分も頑張るから俺もジャンと頑張れって言うんだ」

次第に興味が薄れていくユリアの反応など、ハーデスは全く気にしない。
ユリアは頬の横で揺れる髪を片方耳に掛けながら、視線をどうでも良さそうに横へと向けた。

「俺は凄く怖いけど、柚がそう言うから頑張ろうって思うんだよ?」

ハーデスは強く拳を握り締め、頬を紅潮させながらことの経緯を説明している。

ふいにハーデスが勢い良く顔を上げたかと思えば、ユリアに向けて身を乗り出す。
ユリアは反射的に上体を引きながら、視線をハーデスに戻した。

「でも、これって違うよね?柚の為に頑張るんじゃ、きっとジャンだって許してくれないよね?」

微かにユリアの眉が揺れる。

「俺、どうすればジャンに許されるかなって考えたんだ。ジャンの気持ちが分かれば、もっとちゃんとジャンと向き合えるんじゃないかと思って」
「ジャンの気持ち?簡単じゃないかな、彼は君に裏切られた。でも君には心の底からの罪の意識がない。君は皆が悪いって言うから悪いんだと思ってたんだろ?」
「凄い、ユリアなんで分かるの!」

純粋に感動しているハーデスにユリアはため息を漏らし、肩を竦めた。

「誰にも相手にされない可哀想な子供だと思って手を差し伸べてあげたら恩を仇で返してきた。憎い、悲しい、虚しい、怒り、ジャンの気持ちなんてそんなところでしょ?」

身を乗り出していたハーデスがすとんと腰を落とし、微かに眉尻を下げる。
悲しそうな顔をするハーデスに、ユリアは優雅な仕草で肩を竦めて見せた。

「まあ、中途半端な偽善を振りかざすから化けの皮が剥がれるんだよ。本当の善人なんてものがいるなら、殺されたって笑って許してくれるんじゃないの?」
「そ、そうかな?ユリアは?笑って許してくれる?」
「馬鹿言わないでよ。この僕に傷一つでもつけたら地獄の果てまで追いかけて八つ裂きにしてあげるよ」
「そっかー。ユリアは心が狭いんだね。えっと、ライアンがそういうのを執念深いって言ってた」
「僕の美貌はそれだけ価値があるってことだよ。ライアンのような芸術が分からない凡人にはこの美の価値が分からないのさ」
「そうなんだ。ユリアは綺麗だよね、柚よりも」
「当然」

気を良くしたユリアが、胸を張りながら誇らしげに髪を払う。

ユリアの口調は何処かまったりとした、活気のないものだ。
長く重そうなたっぷりとした睫毛がもったいぶったように重々しく瞬きをする。

ユリアは中性的な顔立ちで、自他共に認める美貌の持ち主だった。
全てにおいてのんびりとしたやる気を感じない動作のユリアだが、それですら絵になるのだから空恐ろしいものがある。

そんなユリアの言葉は、ハーデスにとって絶対だ。

「今まで五体満足だった人が、いきなり体の一部が不自由になる、この喪失感、ハーデスは想像したことある?」
「す、少しは!大変、だと思う」
「大変、なんて簡単な言葉で片付けられるものじゃないだろうね」
「じゃあ、どんなの?分からないよ、教えてユリア」

ハーデスは縋るようにユリアの顔を見る。
ユリアはため息と共に目を細め、ハーデスに斜に構えた笑みを向けた。

「ハーデス、他人の気持ちなんてものは本人にしか分からない。イカロスだって、一時的にどんなに辛い他人の感情が流れ込んできても、それは永遠じゃない一時的なもので、逃げ道がある。心の痛みや辛さを一生抱えて生きていく当人の心を、完全に知ることなんて出来はしないんだよ」

「そんな」と、ハーデスはショックを受けた面持ちで呟きを洩らす。
そんなハーデスの反応を前に、ますます口角を吊り上げたユリアは、静かに腕を伸ばしてハーデスに桜色の綺麗な爪先を向けた。

「それでも知りたいって言うなら、疑似体験くらいならさせてあげられるかもしれない。どうする?」
「本当?お願い、ユリア!」

あまりにも純粋に喜び、目を輝かせるハーデス。
言葉を素直に受け止める余り、ハーデスは言葉以外の可能性を考えない。

ユリアは「本当に?」と、静かな声音で問いかけた。

「辛いかもしれないよ?君、嫌でしょそういうの」
「嫌だよ。でも、柚が俺を信じてくれてるんだ……」

ハーデスは自分の手首に触れる。

そでの下には、以前柚に貰ったケーキに掛けられていたリボンが今も大切に巻かれていた。
柚も知らない大切な宝物だ。

とても嬉しかった。
あの喜びが忘れられない、好きだと言う気持ちが溢れてとまらない。

「だから俺、頑張る。頑張れると思う」
「自分を信じるんだね」

ゆっくりと瞬きをしたユリアが、小さく笑みを洩らす。

「……そっか、これが、自分を信じるってことなんだ……」

驚き、初めて感じる感情を噛み締めるように呟いたハーデスの目の前で、ユリアは人知れず口角を吊り上げて笑っていた。

すっ……と、音もなく右手を軽く上げる。
その指先が渇いた音を立てると、一瞬にして夜空の下に真っ白な霧がたちこめ、まずはユリアの姿を呑み込み、続いてハーデスまでをも呑み込む。

咄嗟に腕で自身を庇ったハーデスは、晴れていく霧と共に消えたユリアの姿を捜して周囲を見渡した。

「っ……あ、れ?ユリア?」

ハーデスは忙しなく周囲を見渡し、つい先程まで目の前にいた人物の名を呼ぶ。

「ハーデス」
「ユリア?」

背後から声がして、ハーデスは期待に満ちた面持ちで振り返る。
振り返ると、くすくすと口元を押さえて笑うユリアが立っていた。

「僕、君が嫌ぁーい」
「俺も嫌いだぜ」

背後から賛同するライアンズの声が響き、いつの間にかライアンズが銃口を自分に向けている。

「え?え?何?」

困惑するハーデスに、ユリアはくすくすと笑う。
まるで手を差し伸べるようにユリアが掌を差し出すと、掌の上で黒い霧のようなものが蠢き、それは長い棒になり、瞬く間に自分の使い慣れた大鎌となってユリアの手の中に納まった。

「ジャンの気持ちが知りたいんでしょ?今、その足を斬り落としてあげるよ」
「そうすれば、脆弱な脳の君にも少しは他人の痛みが理解できるんじゃないかい?」

少し離れた位置から、氷の弓を引き絞るフェルナンドが嘲笑を浮かべて告げる。

「無理無理、分かるわけねぇじゃん。馬鹿は死んでも治らねぇよ!」
「玉裁兄に言われちゃお終いだね。まあ、ハーデス兄なんて存在自体終わってるけど」

玉裁が声高に笑い、ライラが冷たい眼差しと共に笑う。

「な、何?何なの?」
「ちょっとは自分で考えたらどうですか?」
「本当、あなたにはうんざりですよ。同じ使徒か疑います」

針を握るフランツと、嫌悪に満ちた顔を逸らすヨハネス。
慌てて振り返れば、今度は先程まで向いていた方向からジョージの声が響く。

「出来そこないの使徒のせいで……ジャンの苦悩を思うと、俺はお前が憎くて堪らなかったよ」
「僕もジャン好きだよ。でもハーデスのせいでジャンとはずっと一緒にいられないんだ……逆ならよかったのに」

アンジェが恨めしそうに、ジョージの横から呟いた。

「あの時助けなければこんなに苦労しなかったよな」
「だからガルーダは浅はかなんだよ。アスラにとって邪魔な存在でしかないから、俺はずっと死ねばいいと思ってたんだ」

ガルーダとイカロスが吐き捨て、その後ろに立つアスラへと振り返る。

水色の瞳がじっとハーデスを見つめていた。
それはいつも以上に感情というものが見えない、冷たい目だ。

思わず身が竦んでしまう。

「行こう、アスラ。あんな奴相手にすれば付け上がるだけだって」
「そうだよ。君までジャンのようになる……」
「ま、待って!俺ちゃんと頑張るから!アスラ、ごめん、謝るから行かないで!」

ガルーダとイカロスに背中を押され、アスラが遠ざかって行く。
慌てて追い掛けようとするハーデスの前に、刀を構えた焔とフョードルが立ち塞がった。

「疫病神。何を頑張るって?頑張ってくれなくて結構、目障りなんだよ」
「中級クラスなんてもういりません。これからは私達、上級クラスの時代です」
「なっ、なんでそんなこと言うの!二人とも、俺に勝てたことないくせに!」

身を乗り出し、泣きそうな顔で叫ぶ。

「ひどい、ひどいよ、皆!皆俺のこと嫌いなんだ!」
「そうだ」

違う声色が、静かにはっきりと、肯定の言葉を紡ぐ。
ユリアの隣でプラチナブロンドのおさげを揺らし、柚がハーデスを仇のような目で睨み付けていた。





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