16


「ハーデスがその時の辛い気持ちを今でも忘れられないで思い出すように、ジャンもそうなんじゃないのかな」

柚は困った面持ちに笑みを乗せ、人差し指を立てて見せた。

「私は、ジャンも辛かったと思うな」
「怪我が痛くて?」
「そうだな。傷が痛む度に、ハーデスのことを思い出したと思う」

ベンチの下で柚は足を揺らす。
長い影が、茜色の空の下で何処までも伸びているように思えた。

「ジャンはハーデスを信じていたんじゃないかな?」
「信じる?」
「ジャンは、親しい自分なら暴走したハーデスを止められるって思っていたんだと思う。でもハーデスはジャンを斬った。ジャンも裏切られた気持ちだったと思う」

ハーデスの無垢な瞳がゆっくりと目を瞬かせた。
砂漠の砂に水を掛けるように、言葉がハーデスの中に吸い込まれていくのが分かる。

出来る事と言えばジャンの立場に立ち、その気持ちを想像で語ることしかできない。
それでもジャンの気持ちを考えれば考えるほど、虚しさが込み上げる。

「怪我よりも心が痛かったかもしれない」

柚は小さく息を吐き、風に揺れる髪を手で押さえた。

「ふとした瞬間にその人のことを思い出して、なんか苦しくなったりしない?」
「……する」

揺らしていた足を止め、ブーツが砂を擦り止まる。
柔らかな雰囲気は鳴りを潜め、柚はまっすぐにハーデスの顔を見た。

「それはハーデスがジャンにしたことを悪いことだと思ってるからだよな?自分がしたことを忘れちゃいけないんだ。許されるなんて思っちゃいけないのかも」

少しでも余計な事を考えれば「あっ」という間に散ってしまいそうな集中力の中、ハーデスの立場と自分の立場にある思いが重なって行く。

自分でも、言葉を手探りに……。
柚は真剣な面持ちで、ハーデスの頼りない顔を見つめ続けた。

一言一言を純粋に吸収していくハーデスの前で、言葉の意味はとても重い。
目を逸らしてもいけないと思うほど、真っ直ぐに見詰め返してくるハーデスの視線にも力がある。

「でも今のままじゃ、ジャンだって苦しいままだと思う」

ハーデスの手を握る手に力がこもり、柚は両手でそっとハーデスの手を取った。

「ジャンの怪我は二度と治らないけど、ジャンの心の傷を治せる人がいるとすれば、それはハーデスだけだよ」

支部で会ったジャンは寂しげだった。

この場所を"あちら"と呼び、あるで自分は部外者のように話していた。
懐かしそうであり、戻りたいのかもしれないと思うほどに寂しげで、だが何処か諦めた顔をしていたのだ。

「ハーデス。ジャンともう一回話をするってことは、必ず痛みを伴うものだと思う。でも痛いから嫌だとか、怖いとか、そんなことをハーデスが言い続けて逃げていたらジャンが一番救われない」

ジャンは、こんな形での帰還をどう思うだろう?
喜んで帰ってこられるはずがない。

ジャンが過去に言った通り、周囲の者はジャンとハーデスの関係を考慮して気を遣うだろう。

ジャンが悪いわけではない。
それでも、手放しに歓迎はされないだろう。

「どんな時でも言っちゃいけない言葉はもちろんあると思う。ジャンはそういう判断がつく人だと思う。でもそれが分からなくなるくらいにジャンは傷付いたってこと。ならハーデスはそれを受け止める義務がある。それは償いだ」
「償い……」
「心が傷付かないで生きてくことなんてありえないんだよ。ハーデスはもう昔とは違うんだ。受け止めなきゃ……」

ハーデスの瞳が揺れる。
ハーデスは「うん」と、消え入りそうな声で頷いた。

瞳だけをただ真っ直ぐと見詰めていた柚は、ハーデスは子供のように幼い表情をしていたことに始めて気付く。

「でも、やっぱり怖い……」

微かに震える声と、縋るように握り返してくる手。

ハーデスは、逃げずに自分の言葉を聞いてくれた。
部外者であり、年下である自分の言葉に真剣に耳を傾け、彼なりに向き合おうとしている。

少し急ぎ過ぎたかもしれないと、柚は肩から力を抜き、ただ苦笑を浮かべた。

「まあ、やっぱり責められるのは怖いよな」
「……うん」
「皆には内緒な。ハーデスだけに教えるけど、実は私も怖いんだ」
「ジャンが?」
「ううん。ジャンもちょっと、顔を合わせ辛いけど、私はニエと会うのが怖いんだ」
「……ニエって……追い掛けてきて柚に酷い事を言った子?あの子、まだ柚を虐めるの?」
「うーん。虐めるわけじゃないけど、責められて当然なんだ。私達はウラノスを守れなかった、あの子にとって弟のような大切な存在だったんだから、私も焔もそれを受け止めなきゃならない。ハーデスと一緒」

驚いたように、ハーデスが柚の顔を見て目を瞬かせる。
フェルナンドは居心地が悪そうに、背を向けてベンチの背凭れに体重を掛けた。

柚は苦笑を浮かべていた目を細め、もの寂しい面持ちでハーデスから手を離す。

「それにまだ、許されようとは思わないんだ。もっと誰かを守れるくらいちゃんと強くなったらいつか、そう思う時が来るのかもしれないけど……」

ハーデスからゆっくりと顔を逸らし、柚は広場へと顔を向けた。

それはまるで、一人で大丈夫なのだと言っているかのように、何の迷いもない横顔。
だが他人を拒絶するわけでもない、追い掛けたくなるような、心を惹き付ける強い眼差しだった。

こんなに傍にいるのに、柚が遠い。

柚はきっと先へと進んで行く。
本当は一緒にいたいと思う――だが例え自分が追い付けずにその後ろにいなくても、柚は「後からゆっくりおいで」と言って、その足を止めてくれない気がした。

そう思うと途端にハーデスは不安になり、集中力が途絶え、柚の言葉など右から左へと流れて言ってしまう。

「だから私は、あ、焔もな。今はあんなことを繰り返さないように前を向いて強くなるように努力する。それが私達が出来る償いなんだよ」
「そっか……柚達も、同じなんだね」
「うん。ウラノスにはもう謝る事も出来ない。ジャンとは話が出来るんだ、だからハーデスも一緒に頑張ろう?」
「……うん」

振り返った柚が、瞳に弧を描いて微笑む。

振り返ってくれたことに安堵した。
怯えているのが自分一人でないということに安堵した。

だがこのままでは、柚に置いていかれてしまうようで――焦った。

ハーデスは唇を噛んで俯く。
醜い心、嫌な自分、柚に申し訳ない。
ジャンにはもっと申し訳ない。

誤魔化すように、隠すように、ハーデスは別の話を切り出した。

「柚、大変。柚の秘密をフェルナンドも聞いてるよ」
「違うよ、ハーデス。あれは空気だ」
「誰が空気だ!」

焦った面持ちでフェルナンドを見るハーデスに、柚が諭すようにハーデスに返す。
フェルナンドの怒声が響く中、柚は身軽にベンチから立ち上がり、両手の拳を強く握った。

「さて、私もまだまだだから頑張らなきゃな」
「……」
「ハーデスも頑張れ」
「……うん」

ハーデスは呟くように返し、もう一度噛み締めるように頷き直す。

(頑張らなきゃ……柚に嫌われちゃう)

柚は肩から力を抜いて笑う。
フェルナンドは腕を組みため息を漏らすと、「戻ろう」と素っ気なく返した。

「ハーデス。君のせいで歩き疲れた。侘びを兼ねて宿舎まで送ってもらおうか」
「あ、楽だなそれ。お願い、ハーデス」
「う、うん。俺送る!」

柚に腕を掴まれ、ハーデスはおろおろとしながらも慌てて頷き返す。

柚と手を繋ぐと、尊大な態度で触れて来るフェルナンド。
心臓がバクバクと音を立て、ハーデスの体は緊張したように強張っていた。

(早く、早く何とかしなきゃ)

三人の周囲にノイズが走り、広場をにぎわせていた三人の気配がふっと消え去る。

(置いていかないで――…)

夕焼けが夕闇に染まりつつある空の下、見えない涙は音を立ててはじけて消えた。





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