15


ジョージに言われてしまえば、フェルナンドもしぶしぶ黙りこむ。

「一時間だけだからな」
「有難う、フェルナンド」

そう言って笑う柚の感謝の言葉は、昨日の嬉しさに満ちた何処か幼いものとは違って響く。
真っ直ぐと前を向く透き通った赤い瞳に迷いはなく、凛とした表情は何処か大人びたもの。

また違う一面を見て、フェルナンドからはただただ苦笑が浮かぶ。

「なんだよ?」
「いや、君といると次から次へと問題が出てきて休む暇もないと思っただけさ」
「はは、お疲れ様」

柚は鎖の繋がった手で、軽くフェルナンドの背中を叩く。
フェルナンドは口の中で、「全くだ」と呟いた。



建物の中を一通り捜した後、柚は乗り気ではないフェルナンドを連れて外に出た。
暗い森の中を歩きながら、柚は覆いかぶさるように茂った木々を見上げて声を張り上げる。

「ハーデースー!」
「犬や猫じゃないんだ、呼んで出てくるなら苦労はしないさ」
「だってしょうがないじゃないか。気配隠しちゃってるんだもん。他にどうしろってんだ」

文句を言う柚に、フェルナンドは暫し考え込む。

「……彼の好物を置いてみる、とか」
「……時間的にもお腹空いているのは分かるんだけど、いくらなんだってそんな手に引っ掛かるほどハーデスも馬鹿じゃないだろ」
「自分でも馬鹿な提案だったと分かっているから、その目をやめてくれ」

憐れなものを見るような眼差しを向けてくる柚に、赤くなったフェルナンドが口を押さえて顔を背けた。

森は広い。
くまなく捜すにはあまりにも時間も空の明るさも足りず、柚とフェルナンドは広場に出るとベンチに座りため息を漏らした。

「いない……」
「もう一時間は経ったんじゃないか?奴も戻っているかもしれないし、一度戻らないか?」
「うん、そうだな」

柚はため息とともに立ち上がり、踵を返す。
その瞬間、慌てて木の陰に隠れる人影に、柚とフェルナンドは半眼を向けた。

「いたなら居たと言え!君のその口は飾りか!」
「ほんっと、ふざけんな!いい加減怒るぞ!」
「ご、ごめん!でも出ていくタイミング逃しちゃって……」

一瞬の間を置き、フェルナンドと柚が同時に木の陰に隠れるハーデスに怒鳴りかかる。
びくりと肩を揺らして首を竦める涙目のハーデスの腕を、柚とフェルナンドが同時に捕らえると、引き摺りながら強制的に広場のベンチに座らせた。

「な、何?」

にこにことしながらしっかりと手を繋ぎ隣に座ってくる柚に、ハーデスが困惑した面持ちで首を傾げる。

「ちょっとね。逃げないように」
「逃げる?」
「うん。ちょっと真面目に話そうか」
「え?え?」

三人で座ろうと思えば座れるベンチなのだが、フェルナンドが拒否した為、柚とハーデスが余裕を持って座っていた。
そんな二人の間には距離があり、握られた手がベンチの中央を陣取っている。

「パーベル達がこっちに来るんだってな」
「……う、うん」
「嬉しいけど、ちょっと複雑」
「柚が?……なんで?」
「ウラノスのことがあったから」
「ウラノスって……あ、あの、死んじゃった子?」
「そう、死んじゃった子」

首を傾げるハーデスに、柚は力のない苦笑を浮かべた。

「ねえハーデス。私は偉そうに人にどうこう言える立場じゃないけど、私はこれからハーデスにとって、あんまり聞きたくない話をすると思うんだ。聞いてくれないかな」
「……聞きたくない」
「そっか、はっきり言われちゃったな」

柚は困ったように笑う。
フェルナンドが、「何を甘ったれたことを」と悪態を漏らしているが、口を出してくる気配はない。

「私はハーデスの気持ちを全く分からないわけじゃないと思うんだ。ハーデスを心配してるんだよ、だから話を聞いてほしいんだ。それでも、駄目?」
「ずるい……柚にそんな風に言われたら、俺断れない」
「ごめんごめん」

柚は苦笑を深め、ハーデスと繋ぐ手からそっと力を抜いた。

「ジャンとハーデスの間に何があったかは、一応知ってる」
「柚、知ってるの!?」
「うん、実は結構前から」

青褪めるハーデスに、柚は申し訳なさそうに頷いて返す。
逃げ腰になるハーデスの手を掴み直し、柚はハーデスの顔を見た。

「難しいだろうけど、ハーデスはジャンと仲直りするつもりはないの?」
「……仲、直り?無理だよ、だって……ジャンは凄く怒ってた。あんなジャン始めてみたし、怖いし、凄く醜かったんだ」

微かに体を震わせながら、ハーデスは右手で顔を覆ってしまう。
フェルナンドが眉を顰め、柚は首を傾げて無言でその意味を問い掛けた。

少しの間をおいて顔を上げたハーデスは柚の顔を見て、顔を覆っていた手で柚の周囲の空気に触れる。

「それまでのジャンは、柚みたいにキラキラした太陽みたいだったのに……これじゃあ他の人と変わらないって思った」
「ジャンはともかくとして、なんだかハーデスは私を買い被りすぎてるな、恥ずかしいよ」

柚は頬を染めて苦笑を浮かべた。

「ねえ、ハーデス。ハーデスとジャンの関係がおかしくなった理由、ハーデスはちゃんと分かる?」
「……ちょっとだけ、覚えてる。ジャンが俺の名前を呼んでて、気がついたら目の前にいて、ジャンの背中があって、手に人を斬った感触があって、それからはよく分からないっていうか、本当に俺がジャンを傷付けたの?って感じで……」

ハーデスの声が微かに震える。

静かに相槌を挟む声は、まるで子供に接するように穏やかだ。
対するハーデスの声は、硬く怯えた声音だった。

カラスの鳴き声が空に響く。
黒い影が群れをなし、空を横断していった。

「でも、多分、俺がジャンを斬ったのは本当で、皆の言うことが正しいんだと思う。お見舞いに行ったらジャンが俺に死ねとか、汚い言葉でいっぱい俺を罵ったんだ」

フェルナンドはチリリと胸の内に浮かび上がる苛立ちを何度も感じる。

罵倒は当然の報いだと思う。
ハーデスの言葉からは罪を罪と認識せず、まるで自分が一番の被害者だと言っているように感じてならない。

「それが凄く辛くて、裏切られた……ような気がして、悲しかったんだ」

自分に手を差し伸べてくれた人から放たれた言葉は、どんな言葉よりもハーデスの心を裂いた。
唯一の神のような存在は、一転して悪魔に見えた。

だがフェルナンドからすれば、被害者はジャンであり加害者はハーデス。
暴力で人を傷付けた時点で、それは揺るぎないものだ――ましてや、それが一生ものの傷であれば尚更だ。

ハーデスの思考の幅は狭い。
全てにおいて、彼の基準でしか物事を図っていない。
相手の気持ちなど考えない、自分に甘い。

(だから僕は彼が嫌いだ)

フェルナンドの中に清々しいほどにはっきりと浮かび上がる結論だった。

「君、自分がどれだけ身勝手なことを言っているか分かっているのかい?」
「まあまあ、フェルナンド」

眉間にしわを寄せ、侮蔑の眼差しを向けるフェルナンドを、柚が苦笑を浮かべて宥める。

「今ハーデスは、その時自分がしたことに対して、どう思ってるんだ?」
「ごめんって、思うよ」
「それは伝えたの?」
「ううん……。俺、本当に実感がなくて、ジャンの怪我を見るまでは信じられない気持ちの方が大きかったんだ」

ハーデスは頼りない瞳を、空を茜色に染めている太陽へと向けた。
穏やかに吹き始めた風が木々を揺さぶる音が次第に大きなものへと変わっていく。

「ジャンの怪我を見たら、なんて言っていいか分からなくなって、そうしたらジャンに罵られて凄く凄く悲しくなって、それと腹が立ったんだ」

さわさわざわざわと、自分の声よりも耳障りな木々の雑音が辺りを呑み込んだ。
それはジャンを好きだと思う気持ちを嫌いと言う感情で染め上げた、あの時の鼓動の音に良く似ていた。

ハーデスは長い前髪の下で、その目を悲しげに細める。

「ジャンも俺を嫌いなんだって……」

自分で告げた言葉が胸の内を抉った。
ほとんど力の入っていないハーデスの手を握る柚の手に、微かに力が篭る。

こんな風に、今日誰かの体温を感じたはずだ。
それは誰だっただろう?もっと大きくて白い手だった。

きちんとその目を見なかった、その瞳がどんな色か……はっきり思い出せない。

「じゃあ、なんで今まで優しくしたの?って、そう思ったらジャンを過ごした時間が急に懐かしくて、もう戻らないんだって思うと寂しくて本当に悲しくて、それを壊したジャンが憎くもあって……」

アスラは心配をしてくれていると言っていたのに。
心にもないことを言ってしまった。

どうして「ありがとう」の一言が言えなくて、ひどい言葉はすらすらと溢れたのだろう。

アスラを傷付けた。
そしてジャンを沢山沢山、傷付けた。

「俺、今、自分が本当に凄く勝手なことを言ってると思う」

ハーデスは俯き、吐き出すように言葉を搾り出す。
長い前髪が揺れた。

「俺、凄く醜い。あの時のジャンみたい……嫌だ、柚、みないで。俺のこと嫌わないで」
「うん、嫌わない」

思いの他あっさりと、柚が頷くので、ハーデスはきょとんとした面持ちで顔を上げて柚の顔を見る。

「あのさ、ハーデス。人だもん……ハーデスの言葉でいうなら、醜い感情?そんなもの、誰だって持ってるよ」
「……」
「ほら、フェルナンドとか。いじわるでしょ?」
「宮!?人を付き合せておいてなんて言い草だ!」

目を吊り上げるフェルナンドに、柚はあっけらかんとした笑みを浮かべた。
そんな微笑みは、からかうようにフェルナンドを見上げる。

「そうなんだよ、ハーデス。なんだかんだ言いながら、フェルナンドはこうして付き合ってくれてるんだ」
「強制的につき合わされているの間違いだ」

言い直すフェルナンドに、柚は肩を揺らした。

「ハーデスだって、その醜い感情だけじゃないだろ?」
「……分からない」
「じゃあ、ハーデスがパーベルと接する時に感じる気持ちは?私にも優しくしてくれる時。ユリアやライアンズと一緒にいる時は?楽しいでしょう?ほら、醜い気持ちよりそういうのの方がいっぱいじゃないか」
「そう、なのかな……どっちが多いか分からないけど、そう言われれば、そんな気もする」

ハーデスは右手を自分の胸に当てて呟くように返す。
そんなハーデスの顔を覗き込み、柚は力強い笑みを浮かべた。

「ハーデスは自分に向き合えたんだ。ならジャンとだって向き合えるさ」
「向き合って……どうするの?」
「どうしたい?このままがいい?それとも前のように戻りたい?」
「……俺は……でも、でも絶対に無理!ジャンは、俺のことを嫌ってるよ」
「無理だと思っていればずっと無理だよ」

やはり迷いのない明瞭な柚の声があっさりと、迷うハーデスの言葉を一蹴する。

「ねえ、もう一回、ジャンに謝ってみよう?」
「でも……」
「心からちゃんと謝れば、ジャンにも伝わる」
「伝わるからと言って、許されるとは思うなよ」
「え?」

水を差すフェルナンドの言葉に、ハーデスはフェルナンドを見上げ、柚へと向き直った。
首を傾げ、ハーデスは困惑した面持ちで疑問を口にする。

「でも……じゃあ、なんの為に謝るの?」
「うーん」

柚は言葉に詰まった。

それは許されたいからだと思う。
だがフェルナンドの言う通り、謝れば許されるわけではない。

なんと答えても堂々巡りをしてしまう気がする。





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