14


「ジ、ジャンが……戻って、くるの?」
「……そうだ」

ハーデスは一歩、後ろへと後じさり、自分の髪を握りこみながら頭を抱えた。

「い、嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ!」
「いくらお前が嫌だと言ったところで、上の決定事項だ」

アスラは自分の言葉が、自分の思っていたように冷たい響きとなったことに忌々しさを感じる。
実に自分らしい、突き放すような物言いだ。

ハーデスには、その言い方では駄目なのだと理解しているが、癖と言うべきか――簡単には変わらない。

「ハーデス、ジャンとは……」

ハーデスは精神的に不安定な使徒であり、過去に暴走した結果、彼を止めようとしたジャンを傷付けた。
彼は自分が二度と歩けないと知った直後、原因であるハーデスに激しい糾弾を向け、有力な戦力とされていたハーデスの精神面を考慮した結果、戦力外の通告を受けたジャンは支部に送られることとなった。

柚の影響か、ハーデスはあの頃とは違う。
ジャンもまた、事故直後の不安定な精神状態にはない。

二人はもう一度向き合い、話し合うべきだと思っている。

「いやっ、ジャンは嫌だっ……!」

頭を抱えるハーデスの周囲を取り巻くようにノイズが走り始めた。

はっとしたアスラは、咄嗟に目の前の机に乗り上げ、ハーデスの手を掴む。
また逃げられると思った瞬間、体が勝手に動いていた。

驚いた面持ちで自分の顔を見るハーデスと共に、まるでハーデスの心を表すように彼の周りを包む周囲のノイズが乱れる。

「ぁ……」

何を言えばいいのか、やはり分からない。
結局、開いた口から言葉が発せられることはなく、苦々しくただ喘ぐに終わる。

「ハーデス……」

自分の白い手の方が色濃く見えるほどに、彼の姿が目の前から薄れ始めた。

「お前はもう柚に――」

消えそうな腕を強く掴む。
比例するように、気付かない内に口調が強くなっていた。

「救われただろう?」

髪を握りこむ指先がぴくりと跳ね、深く俯く顔が驚いたように起こされる。
ハーデスの唇が開き掛け、ぎりりと噛み締められた。

「だからもう、お前は向き合える筈だ」
「アスラはっ……」

憎しみの鋭い眼差しがアスラを睨みつけ、アスラは僅かに目を見開く。

「なんでそう思うの?なんでそんなこと、わざわざ呼び出して言うの?」
「それは……お前を心配して」
「嘘だ!」

拒絶の言葉に跳ね除けられるように、アスラとハーデスを繋ぐアスラの手からふっと力が抜ける。

「心配してアスラが俺に何かしてくれるの?ジャンが来ないようにしてくれるの?それとも柚みたいに、俺のこと家族みたいに好きって言ってくれるの?」
「ハーデス……」
「柚の真似して心配したふりしてみせてるけど、アスラが心配してるのは俺が問題を起こすことで、俺の心配じゃないんだ。そんなの俺にだって分かるよ!」

ハーデスの姿が音もなく部屋から消える。
最初からそこにいたことすら幻のように、何も残らない。

息が詰まる気がした。
重く固い物がずしりと胸の内に、しこりとして残る。

ハーデスの手を掴んでいた手と指と、机から乗り出した体。
まるで時を止めたように、アスラは動くことを忘れていた。

ゆっくりと、項垂れるように、伸ばしていた手を下ろし、椅子に腰を下ろす。
背凭れに体重を掛け、アスラは閉ざされた白い天井を見上げながら、ハーデスの手を掴んでいたその手で顔を覆った。
その手の下で隠れるように、きつく強く瞼を噛み締める。

(柚の、真似……か)

そうなのだろうか?
だからこうも上手くいかないのだろうか?

何もかもが分からなくなる。

(……俺は、ハーデスに何をしてやりたかったんだろうか)





夕方に会議室に集められた一同を見回し、柚はライアンズに声を掛けた。

「あれ、ハーデス来てないのか?」
「あ?マジかよ。おいユリア、ハーデスの奴見てないか?」
「さあね、見てないよ」

素っ気なく告げ、全く気に掛けた様子もなくユリアは前を向いてしまう。
柚は不安そうに、ドアの外へと視線を向けた。

「捜してきた方がいいかな」
「僕は嫌だ。行かないからな」
「ちょっとは協力してくれたっていいじゃないか」

聞く耳を持たないフェルナンドに柚が文句を言っていると、部屋のドアが開きジョージが入ってくる。
ジョージは部屋の中を見回すと、人数を数えて眉を顰めた。

「一人足りんな」
「えーっと、教官。ハーデスが来てないみたいなんですよ、捜してきていいっすか?」
「ハーデスか……いや、いい」

ジョージは考え込むようにハーデスの名を呟き、ライアンズの申し出を断る。
すると、眉を顰めたフョードルが席を立った。

「何故ですか?全員に招集命令が掛ったはずです。それをハーデス殿だけ特別扱いでは他の皆さんにも示しがつかないのではないでしょうか?」
「ああ、いや、すまんなフョードル。そういうわけじゃないんだが、元帥の方から少しな」
「仮にもデーヴァ元帥が、ハーデス殿を特別扱いしても構わないと仰ったのでありますか?」
「いや、いやいや、決して特別扱いをしろと言ったわけじゃないんだ。まあ、事情があるんだよ。とにかくハーデスはもう知っているからだな……」
「情報を漏らしたということですか?何故、ハーデス殿にのみ先に情報を漏らす必要があったのですか、納得出来ません!上の立場であるならば尚更、そんなことがあってはならない筈です。せめて納得のいく理由を説明してください」
「あー、うっぜえ」

耳をほじりながら、玉裁が部屋中に響く大きな声でフョードルの言葉を遮る。
フョードルは眉を顰め、玉裁へと振り返った。

二人の間に飛び散る火花のようなものが見える気がする。
一瞬にして一同は、喧嘩になるのかと緊張と警戒を強めた。

すると、玉裁のほうが先に目を逸らして肩を竦める。

「さっさと話始めてくんねぇ?でないと俺もハーデスみたいにふけるぜ?」
「あー、分かった。フョードル、とにかく納得がいかないなら後で話すから、今は報告を始めるぞ」

ジョージは疲れた面持ちでため息を漏らした。

アスラもガルーダもいない、切羽詰った感のないジョージの様子から、報告内容がさほど重要でないことは分かる。
ジョージは小さく咳払いをすると、話を始めた。

「本日、支部にいる使徒の安全の為、こちらに呼び戻すことが決定したそうだ」
「ジャンだけですか?」

フランツが首を傾げると、ジョージは首を横に振る。

「現在、保護観察対象となっているニエ、パーベル、ソナンの三名もこちらに搬送予定になっている」
「ソナンに会うのは初めてだね」

アンジェが嬉しそうにライラに囁く。

ソナンは、リリーという人間の女性から生まれて間もない赤ん坊だった。
写真は見たことがあるが、本人に会うのは誰もが初めてだ。

「けど……」

ライラが何かを言いたげに、ちらりと遠慮がちに柚と焔に一瞥を投げる。
二人は晴れない顔で、微かに顔を俯かせていた。

体の弱い子供が支部で保護されている。
その子供の中でも最年長のニエには、弟分のウラノスという少年がいた。

支部移転の際、ウラノスを守れずに死なせてしまった柚と焔を恨んでいた彼の悲痛な叫びは、まだ忘れられるほどに古い記憶ではない。

ライラ自身、どうしようもなかったのだろうと思う反面、二人はどうにかウラノスを助けられなかったのだろうかと思ったほどだ。

とはいえそれは当時の感情であり、アンジェに言えば冷たいと言われてしまうかもしれないが、ライラにとってはいつまでも死を引き摺るほど思い入れがあった相手でもない。
だがニエにとっては常に弟のように傍にいたのだ、ましてや半年程度で、まだ幼い子供が強い感情を消化できたとは思えない。

(柚姉達、大丈夫なのかな)

ニエよりもいつも傍にいる仲間を心配する自分は、存外に薄情かもしれない。
隣で無邪気に喜ぶアンジェを見ながら、ライラは何処か冷めた自分を分析して小さくため息を吐いた。


報告が終わり皆が席を立っていく中、柚は考え込むように椅子に座っていた。
ジョージに肩を揺さぶられ、柚ははっと顔を上げる。

「もう話は終わったぞ、ここを閉められんから部屋に戻れ」
「え?あ、ごめん!」

慌てて柚は席から立ち上がると、隣に覇気のない様子で佇んでいるフェルナンドに気付く。
そんなフェルナンドを疑問に感じつつも、柚はドアの前に移動して待っているジョージに目を向ける。

部屋の外には、無言で壁に凭れて何かを考え込んでいるライアンズと、同様に外を眺めている焔がいた。

「ねえ、教官。ちょっといいかな?」
「なんだ?」
「ハーデスがいなかったのって、やっぱりジャンのこと?」
「……まあな。元帥が気を利かせて先に伝えたら、そのまま何処かに消えたらしい」
「そっか……」

柚は俯くようにして呟きを漏らす。
そんな柚の肩を叩き、ジョージはため息を漏らした。

「まあ、ハーデスはハーデスでなんとかするさ。お前達こそ大丈夫なのか?」
「うん、まあ……大丈夫っていうか、当然というか、心配してもらえる立場じゃないっていうか」
「柚……こういっちゃあなんだがウラノスという子供のことはもう」
「ああ、うん。いいんだ、本当に」

「何も言わないで」と、柚は苦笑を浮かべる。

「私がいつまでもウラノスの事を悔やんだり悲しんだりすることは、意味がないって分かってるんだ」

「そういうのを嘆いたりするより、二度と繰り返さないように頑張ならきゃなって、ちょっとなんていうか、再確認したというか。とりあえず頭を絞るに絞って出した答えなんだけど……」

柚は窓際の壁に凭れて立つ焔へと顔を向けた。

その顔に浮かぶ意志の強い笑みとともに、プラチナピンクの髪が揺れる。
凛とした眼差しと、迷いのない声。

焔はそんな見慣れた柚の顔を見て、不思議な安心感を覚えながら、無意識に苦笑を浮かべていた。

「後は、ウラノスを忘れない事!な?」
「……ああ」

まるで柚の言葉が雲を晴らすように……。
胸の内に広がっていた暗雲を吹き飛ばしてゆく。

柚の同意を求める声に、焔は静かに頷いた。

「それでいいんだよ。お前達にはお前達の人生があるんだ。すまん、忘れろなんて言おうとしたのは無責任だったな。ただ、囚われ続ける必要なんてないんだ」

ジョージは苦笑を浮かべて柚の背中を軽く叩く。

「まあ、俺に出来る事があればいくらでも力になるから、頑張り過ぎるなよ」
「有難う、教官。じゃあ、今日出された宿題のプリントの答えを、是非に!」
「馬鹿もんが、その手に乗るか!さっさと部屋に戻ってやってこい」

いつも通りの様子で冗談を交わす柚を、無意識に頬を緩めフェルナンドは見守っていた。
自分にも抱える問題がある、それでもよかったと思ってしまっている自分に気付いたフェルナンドは、はっとした面持ちで柚から顔を背ける。

同じく黙って見守っていたライアンズは、意地の悪い笑みを浮かべて柚に顔を寄せるなり指を突きつけた。

「まあ、ハーデスにもお前みたいな神経の図太さが必要だよな」
「嫌だな、ライアンは。口も顔も頭も態度も悪くていいとこなしじゃないか」
「おいおい、誰を捕まえて言ってんだ。俺、こう見えてももてるんだぜ?」
「ふっ、"こう見えても"か」

フェルナンドが鼻で笑い飛ばす。
得意気に髪をかき上げていたライアンズの動きとキザな微笑みが固まる。

柚はそんなライアンズとフェルナンドの間を、大きく背伸びをしながら通り抜け、くるりと振り返った。

「さーて、ハーデスは何処で何をやってるんだか」
「さあな」

ジョージが困った奴だというように、苦笑で返す。

「フョードルも怒ってたし、ちょっと捜してきますか」
「はぁ?僕は嫌だと――」
「フェルナンド。すまん、頼むな」

文句を言い掛けたフェルナンドをジョージが制し、苦笑交じりに、何処か申し訳なさそうに告げた。





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