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真夏の熱気がアスファルトを照らし、うだるような熱が景色を歪ませる。
スクランブル交差点を歩くビジネス街の人々からも、信号が変わるのを待つ車からも、苛立ちが立ち込める。
そんな人々を見下ろすオフィス街のビルは何処か涼しげで、ビルは競い合うように空に向かい、まるでグラフのように真っ直ぐに伸びていた。
そのうちのひとつ、大きな窓ガラスで覆われたビルは取り立てて珍しい造形というわけではないのだが、この時間帯になると大きな窓が光を反射させ、それは光り輝くタワーであり、芸術作品のように美しい。
しかし先を急ぐ人々は、その美しさにも、最上階から忙しなく行き交う人々を見下ろす男にも目を暮れることはない。
男の立つ場所から見れば、人の姿など小さな点でしかなかった。
すらりと伸びた指が、冷たいガラス窓に触れる。
眩暈がするような高さ、吸い込まれそうな高さ、一歩間違えば、何処までも落ちてしまいそうな高さ。
ここは静かだ。
まるで時に追われる下界から切り離されたかのように……。
あまり長く使われることのない机の上に置いたばかりのプライベート用の携帯電話の音に、男は微かに顔を上げた。
ガラスに映る自分と目が合う。
翡翠色の瞳。
後ろへと軽く流した落ち着いた金の髪。
革靴が広すぎるフロアの大理石を踏み、携帯電話に表示された名に視線を落とす。
一瞬翡翠色の瞳が揺れ、深い瞬きと共に、男は大きく深呼吸をするように息を吐く。
携帯へと手を伸ばし、男は穏やかな声音で答えた。
「ハロー。今仕事中だよ、急ぎの用事かな?」
意味もなく、視線が腕の時計に落ちる。
針は静かに時を刻んでいた。
アクリルの透明な壁越しに、秘書室の女性秘書達がちらりと男の背に視線を向けた。
電話に語り掛ける声が、いつも自分達に対するものと同じ落ち着いた穏やかな男の声だという想像は容易い。
会話の内容は聞こえてこないが、透明の壁越しに見る彼は憧れの存在だ。
複数の会社を持つ、大企業の若きCEO。
経営する会社の内いくつかの社長も兼任しており、しばしばこのオフィスにも足を運ぶ。
すっきりとした顔立ちでモデルのような立ち姿は、彼自身が広告塔として十分な価値を持つと思われるが、メディアには顔を出したことがないことで有名だ。
旧英国領貴族の由緒ある家系という噂もあるほど上流階級の育ちを漂わせる上品な振る舞いで、部下に嫌味を言う姿や怒鳴る姿を見たことは一度もない。
忙しいことを除けば、ケチのつけようがない男だ。
電話の相手と親しげに語る男の背中を、女性の秘書達はうっとりとした面持ちで眺めている。
「そうか、やはり……。よく調べてくれた」
男は言葉とは裏腹に、まるで何かを憎悪するかのように顔を歪めていた。
「君に感謝する。最高の喜びを有難う」
男は涼やかなその瞳に強い光を宿していた。
その瞳が卓上の電子カレンダーへと向き、指が数字を撫でる。
「分かったよ、焦るなと言いたいんだろう?準備も抜かりなく行かなければ……そうだな、三日後に盛大なパーティーといこう。とびきりのワインを開けて振舞おうじゃないか」
男が笑うと、肩が揺れた。
「それじゃあ、また後で。グッド・ラック」
微笑みと共に、ぷつりと通信が遮断する。
そのまま喜びに浸るではなく、肩越しに秘書室へと振り返った男に、うっかり見惚れていた秘書達が驚いたように肩を揺らしぎこちなく笑みを浮かべる。
男は携帯電話をポケットにしまいながら、口元に涼やかな笑みを浮かべた。
「仕事中に失礼」
「恋人ですか?」
「さて、難しいな」
男は笑う。
「恋人であり、相棒であり、家族でもある」
「まあ、なんだか素敵ですね。私も、そういう存在に出会いたいものです」
秘書は微笑ましそうに微笑む。
電話の相手は恐らく、完璧な彼にふさわしい、完璧な人物なのだろう。
もともとプライベートをあまり語らう仲ではない、そんな彼が自ら語った存在は、上司と部下の間を縮めることはなく、自分達の上司を更に雲の上のとても遠い存在に感じさせた。
男、若き"プレジデント"ブレット・ベイツは、携帯電話を手に翡翠の瞳を柔和に細め、微笑んでいた。
だが、その瞳が笑っていないことなど、誰も気付こうとはしない。
男の目は秘書達を前にしながら、全く別のモノを見ている。
それはまるで、真実を覆い隠して回り続ける世界のように……。
それはまるで、この世の全ての罪を知っているかのように……。
男は瞼を静かに起こした。
瞼の上には、彼の身の回りの世話をする女達が悪戯に引いていった朱が、彼の切れ長な瞳をより一層艶かしくに見せる。
流れるような漆黒の長い髪に、彼の纏う民族衣装、調った顔立ちはさることながら、何よりも彼を際立たせるのは、彼が持つ独特の雰囲気だ。
慎ましく優美であり、妖艶――……だが何処か慈愛に満ちた眼差し。
流れるような音のない仕草は、まるで時の流れが違う別の世界に迷い込んだかのような気分にさせる。
男は、ぽっかりと開いた天井から差し込む光を見上げ、目を細めた。
岩肌が大きくくり貫かれたかのようなこの場所では、実に多くの人々が浮世を離れ平和に暮らしている。
まるでそれは"桃源郷"――しかし、この場所で最も象徴的に存在感を示しているのは、最下層の中央で両手を広げる林檎の巨木。
何層にもなる岩肌には、いくつもくり貫かれたような穴が空き、そこが人々の居住区となっており、天然の城塞のようだ。
岩の流れに沿う、石の階段が層を繋ぐ螺旋を描いていた。
最下層に広がる中庭には林檎の木を囲んで芝生が広がり、噴水が人々に水を惜しみなく与えていた。
見事な林檎の木がまだ青い実を膨らませようとしている下で、褐色の肌をした子供たちが元気に走り回っている。
母親たちが、そんな子供の姿に微笑みを浮かべながら洗濯に励んでいた。
天井から満遍なく降り注ぐ太陽の光が、最上階から生活する人々を見下ろす男を神々しく魅せる。
だが彼は決して、触れることすら敵わない神でもなく、声を掛けることすら恐れ多い神でもない。
「アダム……」
一人の女が男に付き添われながら、その背にそっと声を掛けた。
何処か不安そうな顔をした女の年の頃は、付き添う壮齢の男・スィフィルよりも遥かに年上だった。
白い肌の顔には深い皺が刻まれ、髪は色褪せた白に近く、一言で言えば老婆だ。
アダムと呼ばれた男は静かに振り返り、女の前に跪くようにして皺だらけの手をとると、晴れないその顔を見上げた。
「また、恐ろしい未来を見たかい?」
「……アダム。世界が動き出します。どの未来を覗こうと、もはやこの未来を止められる術はない。沢山の人間達と、私達の同士も例外なく死を賜ります。これで本当によかったのでしょうか……炎に包まれる世界を見るたびに、私は恐ろしくて堪らなくなります」
女は嘆くように、枯れ木のような手で顔を覆った。
「死を恐れることはない。人はいずれ死に、土に還る。君も、彼も、私にも……死はひとつだ。地球の上に産まれ落ち、生きて死に、また地球の土に還る。その循環は変わらない」
顔を覆う女の手をそっと掴み、アダムは穏やかに諭す。
アダムは、女を支えるように立つスィフィルへと視線を向けた。
男は瞼を閉ざし、厳格な面持ちで小さく頷き返す。
女は吸い寄せられるように、目の前の男の瞳を見た。
無意識に縋る手が、スィフィルの手を強く掴んでしまう。
「我々人類は、地球の中のパーツに過ぎない。パーツでなければならない」
アダムの瞳は、まるで血のように深い赤色をしていた。
夢に見る未来の炎よりも深く濃い赤……。
恐ろしくもある、だがそれ以上に美しくもある。
「これは我々"使徒"という生き物にとっての試練なのだろう……。自身の死を恐れてはならない、愛する者の死を受け入れなければならない、愚か者を滅することを躊躇ってはならない」
「アダム……」
「どんなものにも苦しみは伴う。君はあの時、少しでも躊躇いを抱いただろうか?」
その言葉に女は静かに目を見開き、そっと首を横に振った。
それはあえりないと、強く否定するように……。
胸元でそっと手を握ると、女は祈るように瞼を閉ざした。
「いいえ、あなたに出会えた事を神に感謝しました」
アダムはふっと、子供を相手にするように穏やかに笑みを浮かべる。
吊られるように、女の顔には力の抜けた微笑が浮かんだ。
「あなたがこの不安や恐怖が試練というならば、私は堪えましょう……未来の為に」
「その先の未来を見続ければいい。その日が来れば、愛しいものが君の部屋の戸を叩く」
「いいえ、いいえ!」
女は力一杯に首を振り、縋るようにアダムの手を握る。
老婆らしからぬ気丈な瞳を覗かせる女性を、スィフィルは心配そうに見詰めた。
「目を背けることなど許されません。私は変わり行く世界を命尽きるまで、見守り続けます。どうかアダム、私の力は微弱ではありますが、お役に立てることが御座いましたらお申し付けください。私は、あなたへのご恩を決して忘れません」
「有難う。とはいえ体に障ってはいけない、今日はもう休んでいなさい」
「はい、有難う御座います」
女はスィフィルに連れられ、石の階段をゆっくりと下っていく。
入れ替わるように、女性と見紛うような男が、音もなく姿を現した。
男は艶やかな唇に人差し指を這わせながら、まるで親子のような二人の背に向けて小さく呟く。
「繊細なお方ですね」
サラーサの言葉に、アダムはふっと口角を吊り上げる。
「サラーサ。いよいよだ、君は後悔をしていないかい?」
「何を仰いますか、アダム。後悔など覚えたことは一度もありません、むしろこの時を待っていたのですから」
サラーサは誇らしげに胸に手を当てた。
爪の先まで綺麗に磨かれた指先が、胸元に花を添える。
「使徒こそ、地球という名の神が生み出した調停者――いえ、管理人というべき存在。長い年月が掛かってしまったことが悔やまれますが……」
大袈裟なほどに劇的な動きで、サラーサは悲しそうに告げてみせた。
アダムは小さく唇に弧を描きながら、そんなサラーサの言葉に耳を傾ける。
すると、サラーサは突如真剣な面持ちになり、アダムを真っ直ぐと見詰め返した。
「アダム。人類を導くのはあなたです」
「おやおや、真面目な顔をしてどうしたんだい?」
「いえ……」
サラーサは心許ない様子で小さく首を横に振る。
言葉を捜し、選ぶように濁しながら、結局のところ、サラーサは何もいえない様子だった。
アダムの手が、そっとサラーサの頭に乗る。
「私は何か、不安にさせてしまったかい?」
「いいえ。私はただ、今も昔もこれからも、あなただから付いて行くのだとお伝えたかったのです、アダム」
アダムは微笑む。
それは慈愛に満ちた優美な微笑みで……罪深く他者を魅了する。
下から吹き上げた風が長い黒髪を揺らした。
赤い瞳は、まだ熟さぬ青い林檎を見下ろす。
「さて……」
くすくすと、笑い声が漏れた。
「いよいよ人類が林檎を齧る時が来る」
アダムは愉快そうに呟くと、手摺に凭れて微笑みを漏らす。
下で遊ぶ子供たちがアダムに気付いて手を振ると、アダムは慈愛に満ちた眼差しを向けて静かに深く、微笑み返した。
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