遊戯室の方から、賑やかな声が聞こえてくる。
部屋の前を通り掛ったイカロスは、足を止めて部屋の中を覗きこんだ。

柚とフョードルが赤ん坊に夢中になっている。
少し離れたソファの上では、焔とフランツが遠巻きにその様子を見ていた。

「やあ、楽しそうだね」
「イカロス将官!お帰りなさい」
「ただいま。その子が噂のパーベル?」
「うん!今、食事中なんだ」

柚が手にしていたスプーンを焔に預けてイカロスを出迎えると、焔が後ろで文句を言いながらパーベルに離乳食を食べさせている。

イカロスは口の周りを汚しているパーベルを覗きこみ、穏やかに微笑みを浮かべて手を伸ばした。
小さな頭に手を触れると、パーベルがじっとイカロスを見上げる。

パーベルの頭に手を乗せたまま動きを止めたイカロスを、柚は不思議そうに、焔はいぶかしむように見上げた。

「何してるの?」
「パーベルと話をしているんだ」
「え!いいなー。パーベルなんだって?」
「もうお腹がいっぱいなんだって。それと、これが一番おいしいかったって」

イカロスが指を指すと、柚がオレンジ色のペーストが入った皿を手に取り首を傾げる。

「にんじん?」
「これ、にんじんなんですか。パーベルは凄いですね、私は幼い頃からにんじんが苦手です」

恥ずかしそうにフョードルが告げると、柚が「私も」と苦笑を浮かべた。

「今は食べられるようになったけど」
「さすが柚殿です!」
「えー、それほどでも」
「褒めるほどのことじゃねぇよ」

頬杖を付き、焔が吐き捨てる。
パーベルの食が進まず、スプーンを持て余していた。

「ほうほう?そういうこと言っていいのかな?そういう焔君は、いつもこっそりピクルス撥ねてるよね?」
「なっ!?なんでそれを――」
「この私が気付いていないとでも思ったか」
「あ、僕も気付いてますよ」
「!?」
「焔殿……苦手とは言え、残すのは良くありません。私は意を決して食していますよ」
「ぐっ……」

焔が反論も出来ず、顔を引き釣らせる。
すると、イカロスが若葉色の瞳を細めて穏やかに笑みを浮かべた。

「パーベルが笑っているよ」
「お前、年下のフョードルに注意されるどころか、赤ん坊にまで笑われてるぞ」
「お前が余計な事言うからだろ」
「まあまあ、その辺で」

フランツが柚と焔を引き剥がすと、イカロスはパーベルから手を放して腕を組んだ。

「でも懐かしいな。アスラが小さい頃を思い出すよ」
「アスラが赤ちゃんの頃って言うと……」
「俺とガルーダは三歳だったよ。だから、本当のところあんまりよくは覚えてないんだけどね」

パーベルを照明に翳すように抱き上げながら、イカロスは目を細める。
柚に抱かれているよりも少しだけ空が近くなり、パーベルが不思議そうにイカロスを見下ろした。

「あの頃はあの頃なりに、赤ん坊って小さいんだなって驚いてたんだ。けど今は、もっと小さく感じるね」

細められた若葉色の瞳が、懐かしさに浸りながらも時の流れを愛しむみ弧を描く。

彼等が過去を語るとき、興味とほんの一握りの疎外感を感じる。
そんな柚に、イカロスが少しだけ意地の悪い視線を向けた。

「今はこんなに小さいけど、この子もそのうち、あっという間に柚ちゃんよりも大きくなっちゃうんだよ」
「そして、アスラのように仏頂面に?」
「なるかもね」

二人は顔を見合わせ、くすくすと笑みを交わした。

すると、パーベルが声をあげて泣き始める。
イカロスは何かに気付いたように苦笑を浮かべ、パーベルを柚へと戻した。

「眠いから柚ちゃんがいいらしい」
「それは光栄だ」

柚は苦笑を浮かべ、パーベルの背中を撫でる。
その様子を見やり、フランツがからかうような視線を焔に投げた。

「パーベルは柚に夢中ですね。元帥には新たな恋のライバル出現じゃないでしょうか」
「……こっち見て言うな」

不貞腐れた面持ちの焔が半眼で吐き捨てる。

「さて、俺は退散するよ。じゃあね」
「はーい」

ぐずぐずと泣くパーベルをあやしながら、柚はイカロスに軽く手を振った。





アスラは書類を片手に溜め息を漏らした。

少し外に出ると、片付けなければならない仕事がすぐに溜まってしまう。
今後の任務についても考えなければならないことが山ほどあり、さすがに辟易してしまう。

そんな中、さらに問題事を増やされれば苛立たないはずがない。

「呼び出された理由は分かっているな」

目の前に立つハーデスに、アスラは書類から視線のみをあげて問い掛けた。

ハーデスは申し訳なさそうに、おぞおずとアスラを見る。
もぞもぞと指を絡ませ、小さい声で返した。

「……最近、任務に行く時、遅刻とか、するから」
「弛んでいるぞ、気を引き締めろ。そんなことでは、下手をすれば任務中に命を落とす」

冷たく言い放つアスラに、ハーデスが顔をあげる。
何かを言いたそうにしているハーデスに、アスラは眉を顰めた。

すると、ハーデスはおずおずと口を開く。

「アスラは……行きたくないって、思うことはないの?」
「ない」
「じゃ、じゃあ、柚と離れたくない、とかは……?」
「……」

アスラが溜め息を漏らし、書類を机に置いてハーデスの顔を見た。

「何が言いたい?」

ハーデスが萎縮したように、アスラから目を逸らす。

何故、ハーデスは自分に怯えるのだろう?
昔からそうだった。

そもそもハーデスに限った事ではないが、他者と踏み込んだ語らいをしたこともない。

多くの仲間と、仕事の割り切った話しかしてこなかった。
傷付く事を恐れて人と距離を置き、他者の心の事情を理解しようともしてこなかった。

その結果、それでは手に入らないものがあると気付き、後悔を覚えた自分がいる。

ハーデスの動きをじっと観察しながら、アスラは自分の言葉を後悔した。

「……すまない。俺の言い方が悪いのか?」
「え?」

きょとんとした面持ちで、ハーデスがアスラを見上げる。

「遅れた件は何か理由があったんだろう?柚に何かされたのか?」

目を瞬かせていたハーデスが、勢い良く首を横に振った。
少し長めの髪が左右に揺れる。

「聞いても……いい?」
「なんだ」
「……アスラは柚を"愛してる"なんでしょ?」

アスラが僅かに目を見開き、思い悩むハーデスの顔を見た。
暫し間を置き、アスラは「そうだ」と素っ気なく返す。

すると、身を乗り出すようにハーデスがアスラを見上げる。

「それってどんな気持ち?柚と離れたくないって思う?柚のことばっかり考えたりする?ここが苦しかったり、どきどきしたりしない?」

ハーデスが自分の胸元を握り締める。
まるで、呼吸をすることすら苦しいと言うかのように、辛そうに歪められた顔を、表情にこそ表れないが、アすらは唖然としながら見詰めていた。

「これって普通の好きじゃない?俺も、アスラみたいに柚を"愛してる"?」

少しずつ、自分の鼓動が増していく。

胸の奥底から、どろどろとした醜い感情が溢れ始めた。
この感情の名前を知っている。

以前、柚に好意のまなざしを向けていた人間にも感じた。
カロウ・ヴが柚に構う度に湧き起こる、自分の理性を狂わせる醜い感情だ。

「ねえ、俺、どうすれば治る?人を愛したらどうすればいいの?アスラは知ってるでしょ?教えて――」
「黙れ!」
「え……アスラ?」

縋るように掴まれた手を振り払った。
ハーデスが驚きと同時に、怯えたようにアスラの顔を見上げてくる。

黒い感情が溢れ出す胸を締め付ける、揺れる瞳。

分かっている、よくないことだと分かっている。
だが、止めようとしても止まらない。

「柚に近付くな!」
「なんで?……それは、命令?」

喉の奥が引き攣る。

一瞬にして、自分が元帥であり、ハーデスは部下であるという事実を思い出す。
心臓に冷水を浴びせ掛けられたかのようにひやりとし、どす黒い感情を流していく。

開いていた口を引き結び、アスラはハーデスから顔を逸らした。

「命令……では、ない」
「じゃあ、なんでそんなこと言うの?俺だから?」

怒ったように、ハーデスの言葉が詰め寄ってくる。

「アスラはずるい。いろいろなものをいっぱい持ってるのに、柚まで独り占めするの?」

導火線に火を灯したかのように、ハーデスの怒りが次第に大きなっていく。

そうだ、自分は沢山のモノを持っていた。
セラフィムの力、元帥という肩書き、イカロスやガルーダの愛情、母と会う機会……。

だが、ハーデスは自分のせいで影に隠れた存在になってしまったといっても相違ない。
ケルビム、スローンズ、セラフィムと、上級クラスの子供が立て続けに産まれ、期待が膨らむ中で生まれたハーデスのクラスが中級だった為、周囲を落胆させたという。

後に知ったことではあるが、ハーデスは力が弱いと虐待を受け、孤独を感じながら大人になった。
自分はイカロスやガルーダに世話を焼かれることが当たり前であり、元帥としての勉学に励む日々に忙しく、ハーデスのことなど全く気に掛けてこなかったのだ。

ハーデスは拳を握り締め、髪を揺らして叫ぶ。

「俺も柚が欲しい!」
「それを、決めるのは……柚だ」

我ながら、歯切れが悪い返答だと思う。
敵意の篭った双眸がアスラを睨み付けた。

「じゃあ、なんでアスラが近付くなって言うの?」

返せる答えもない。
口篭るアスラに、ハーデスが「意地悪」と吐き捨てる。

「……アスラなんて嫌い」

ハーデスは呪いのような言葉を吐き、部屋から姿を消した。

アスラは、一人きりになった部屋で溜め息を漏らす。
鬱陶しい前髪をかき上げ、書類に書かれた自分のサインに視線を落とした。





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