10


部屋のインターフォンを鳴らすと、元気のいい声が返ってくる。
その声を聞くと、妙に安心した。

ばたばたと慌しい音を立て、髪を下ろした柚が部屋のドアを開ける。

まだ微かに水気の残る髪は大きな波を描き、いつもよりも深く桃色が浮かび上がっていた。
シャンプーの香りをさせながら、柚は大きな瞳をゆっくりと上に向ける。

顔を上げた柚は、大きな瞳を数回瞬かせると笑みを浮かべた。

自分が歓迎されたことに、アスラは再び安堵する。
だが、柚も同時に胸を撫で下ろす。

「珍しいな、アスラが部屋に来るなんて」
「いや……用はないが」
「よかった」
「よかった?」

ほっとする柚に、アスラが首を傾ける。

「また何か怒られるようなことしたかもって、心配した」
「したのか?」
「してない、してない!」

苦笑を浮かべる柚に、アスラが消え入りそうな苦笑を浮かべた。
柚はそんなアスラを見上げ、入り口の前から少しだけ体をずらす。

「入る?」
「いや。緊急召集が掛かり、これからすぐに発たなければならない」
「え?こんな時間に?何かよくないことでも起きた?」

柚は部屋の時計に振り返り、眉を顰める。

規則では消灯の時間だ。
柚も、そろそろ眠ろうと準備をしていたところだ。

「いや、そういう訳ではない。ただ、行く前にお前の顔が見たくなった」
「え?またそういう恥ずかしいことを。何も出ないぞ」

柚は苦笑を浮かべ、アスラを見上げた。

「エントランスまで送る」
「いや、いい」

静かに首を横に振るアスラ。
柚はそんなアスラをじっと見上げ、気遣うように問い掛けた。

「どうかしたか?」
「いや……」

嘘を付くと、まるでそれを見透かすように柚が顔を曇らせる。

話題を逸らすように、アスラは気になっていた疑問を投げ掛けた。

「そういえば、以前お前に贈った土産はどうしている?」
「土産?ああ、指輪?それなら……」

柚は首の後ろに手を回し、チェーンを摘んで何かを手繰り寄せる。
手繰り寄せられたチェーンの先には、シルバーの指輪が繋がれていた。

柚の掌の上に、以前自分が土産として贈った指輪が乗る。

「指輪は指にするものだと記憶しているが……」
「だ、だって!せっかく貰ったのに失くしたら大変だろ?」

口を尖らせ、柚が襟の下に指輪を戻す。

「……そうか、有難う」
「は?」

柚が目を瞬かせ、次の瞬間にはくすくすと笑い始めた。

「なんでアスラが"ありがとう"なんだよ」
「何故だろうな」
「もう……。それで、何時に出発なんだ?」

呆れたように笑いながら、柚は再び時計に視線を向ける。

時計を見て振り返った瞬間、覆い被さるようにアスラの顔があった。
ほんの一瞬、唇にアスラの唇が触れ、優しい眼差しと共に離れていく。

アスラの儚いが何処か悲し気な微笑みに見惚れるようにぽかんとしていた柚は、おずおずとアスラに呼び掛けた。

「ア、アスラ?」
「行ってくる、おやすみ」
「え、う、うん。いってらっしゃい……気を付けて」

アスラは踵を返すと、一度も振り返らずに去っていった。

しばらくぼんやりとドアの前に立っていた柚は、アスラが触れた唇に触れ、爆発するように顔を火照らせて部屋の中へと引っ込んだ。
顔を冷やすように両頬に手を当て、柚は大きく息を吐いた。

(最近、アスラにキスされたくらいじゃ前ほど驚かなくなった自分もどうかと思うけど)

ベッドに倒れ込み、枕を抱えて真っ白な天井を見上げる。

(アスラ笑ってた……なんだろ、なんていうか……元気なかったな)

任務前に挨拶にくるなど珍しい。
目に見えて微笑みを浮かべる事も、最近はそう珍しくないが、貴重な方だ。

まるで何かを訴えかけるように、晴れない面持ちに見えた。
誰が見ても、アスラの様子がおかしいことには気付いただろう。

「何があったんだろ……」

元帥ともなれば、悩むことも多いだろう。
だが、アスラが仕事に関しての悩みを部下にみせたところを、柚は今の所見たことがない。

だとすれば、やはり人間関係だろうか……。
あのアスラを落ち込ませられる人物など限られている。

(アルテナさんかな)

ベッドに潜り込んだ柚は、「きっとそうだ」と呟き、頭から毛布を被り瞼を閉ざした。



その日の夜、夢を見た。

何処までも続く見通しの良い真っ白な景色の中に、何の疑問を抱くことなく立つ自分が不思議だった。

壁が何処かにあるのかもしれない、自分が床の上に立っているのかも怪しい。
だが、周囲の何処にも存在しない影が自分の足元から伸びているので、辛うじて自分と床の距離が離れていないのだと推測できる。

柚は暫らく、白い世界でぼんやりと立っていた。

すると何処からとなく、柔らかい金髪をした二、三歳くらいの子供が、足に小さな手を伸ばして抱き付いてきた。

子供は顔を上げると、緑――と形容するには少々言葉が足りないかもしれない、綺麗な萌黄色の瞳で微笑んだ。
子供らしい丸い輪郭に、ふっくりとした白い肌、服を着ていない子供の腕には、三つのほくろが一直線に並んでいた。

「どうした?」

知らない子供の気がしない。
子供の方も、自分を知っているかのような接し方だった。

「ママ!」

ボーイソプラノの声。
幼い子供とは思えない、はきはきとした口調。

何故か、あなたのママじゃないよ――と、夢の中の自分は否定しない。

すると、その子供は何処までも続く白い景色に向けて手招した。

子供が手招きをした方から、少しずつ、何かが這うように近付いてくる。
それは赤ん坊だった。

はいはいをしながら、一生懸命に向かってくる。

「もうすぐ会えるよ」
「え……?」

波が引いていくように、さーっと辺りを被っていた白が消えていく。

柚は瞬きをしながら、天井を見上げていた。

「え?ゆ、め……?」
「あー……」
「ん?」

隣から声が聞こえ、柚は眉を顰めて顔を向ける。

いつの間にか、そこにはパーベルは指をしゃぶりながら眠っていた。
柚は寝ぼけた頭で記憶を探る。

夕食を食べさせた後、支部からパーベルを連れてきた女性職員が引き取りに来て、「また明日」と言いパーベルを返した筈だ。

「な、なんで此処に?」

起き上がると、部屋のドアが小さく開いている。

柚は恐る恐るベッドを抜け出し、ドアの隙間から顔を出して周囲を見渡した。
人影どころか、誰の気配もない。

すると、ベッドの方から小さくパーベルの声が漏れ、それはすぐに大きな泣き声に変わった。
ぎょっとしてベッドに駆け戻ると、パーベルが手足をばたばたとさせながら泣いている。

「え、え?ちょっ、何?あー、もう!わ、訳分からん!パーベル?いい子だから泣かないで、よしよし、高いたかーい!」

必死にパーベルをあやそうとするが、パーベルに泣き止む気配が見えない。

皆寝ている時間だ。
早く泣き止ませなければと慌てていると、廊下から焔が顔を出した。

「夜中にうるっせぇ……」
「ごっ、ごめん!」

眠そうな口調の焔に咄嗟に謝りながら、柚は更に必死にパーベルをあやす。

パーベルの甲高い泣き声が、部屋から溢れ出した。
廊下から、他の部屋の電気が灯る気配がする。

「あー……耳に来る。で、なんでそいつがここにいんだよ」
「知らない、目が覚めたら隣で寝てて……あー、パーベル!お願いだから泣き止んでー」

柚が半鳴きでパーベルに訴えた。

フランツが顔を出したかと思うと、フランツを押し退けて孫 玉裁(そん ぎょくさい)が部屋に怒鳴り込んでくる。

「うるっせぇだろーが!何時だと思ってんだ、俺は疲れてんだよ!!」
「ごめんってば!っていうか、だったら玉裁がパーベル泣き止ませてよ!」
「あ゛ァ?てめぇ、逆ギレか?いいぜ、貸せよ。俺様が今すぐそのガキの息の根止めてやるぜ」
「息の根は駄目ー!?」

玉裁から遠ざけるように抱き締め、柚が悲鳴をあげた。

すると、バタバタと騒がしい足音が聞こえてくる。
数名の研究員達が、血相を変えて部屋に駆け込んできた。

「いた!」
「どうやってここまで……」

安堵と共に、気味が悪そうに研究員達が口々に呟く。

少しずつ落ち着いてきたパーベルをあやしながら、柚はパーベルを抱いたまま支部から連れてきた女性職員に歩み寄った。

「あの、目が覚めたら隣で寝てたんですけど……」
「やっぱり……ごめんなさい。私も仮眠を取っていたら、その子がベビーベッドからいなくなってて、慌てて探していたところなのよ」
「え……」

柚はパーベルを見下ろす。
よく見ると、パーベルのベビー服は薄汚れている。

「まさかパーベル……」
「柚の気配を追って、一人でここまで来た――なんて、さすがにありませんよね?」

冗談であることを祈るような口調で、フランツが乾いた笑みを浮かべた。
が、誰も肯定も否定もしない。

不気味な沈黙を残し、夜は深けた。





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