ぽつんと取り残された柚は、大きな瞳をぱちぱちと瞬かせているパーベルの顔を覗きこむ。

「変なフラン」
「あー」

柚の言葉を理解しているかは怪しいが、パーベルが返事を返す。

とぼとぼと廊下を進み、吹き抜けになっている渡り廊下に出ると、柚は広がる森へと視線を向けた。

パーベルは大人しく、柚の腕の中で指をしゃぶりながら景色を眺めている。
瞬きのたびに、瞼を重そうにしていた。

「なあ、パーベル?」

呼び掛けた声に、パーベルが眠そうな顔を上げた。

ふわふわの金髪に深い緑の瞳。
思わず頭の中で、父親である仲間達の顔とパーベルの顔に似ている部分がないか、照らし合わせてしまう。

パーベルはやはり、血の繋がった本当の父を知りたいだろうか?
自分がパーベルの立場であれば、知りたいだろう。

だが、必ずしも父親がパーベルを受け入れてくれるとは限らないのだ。

父親が外で育った者であれば尚更、愛情なく生まれた子供に対する拒絶は大きいだろう。
育った環境による価値観や常識は、そう簡単に覆すことの出来るものではない。

それでも……

「頑張って大きくなれよ。私達は、ここでお前を待ってるからな」
「だぁ」

パーベルが無邪気に笑った。

そんな無邪気な笑顔を見ると、守れなかったウラノスを思い出す。
ウラノスを守れなかった自分達に怒りをぶつけてきたニエは、今、どうしているのだろう。

「……パーベル」

この子を、ウラノスのような目に遭わせてはならない。
ニエのような悲しみを味わわせてはいけない。

パーベルをぎゅっと抱き締める。
不思議そうなパーベルは、まるで柚の心の内を知るかのように、顔を曇らせた。










緑の屋根瓦に、白亜と朱塗りの外壁。
中央で一際目を惹く二本の赤柱では、巨大な口を開いた白龍が肢体を絡ませて出迎える。

アジア帝國の基盤・旧中国の城をモチーフに造られたこの場所は、国会議事堂と呼ばれる国の中枢だ。

風を受け、誇らしげに深紅の国旗が靡く。
そのたびに、帝國領の大地の周りで円を描く白龍が描かれた国章が姿を現す。

大理石の床には、真っ赤なカーペットが花を添えていた。
四神の彫刻を埋め込んだ水晶柱が、アジア帝國の繁栄を象徴するように、ふんだんに飾られている。

廊下を足早に歩くアスラは、部屋から後を追うように出てきたアルテナ・モンローに呼び止められた。

流れるような黒髪と、朱を引いたような唇が清楚な色香を纏う。
アルテナは理知的なアーモンド型の瞳に、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。

「アスラ、もう帰るのですか?」
「はい」
「まあ、せっかちさんね」

足を止めて振り返ったアスラは、絨毯が敷かれた床を歩く小柄な母を見下ろす。
とても子持ちには見えない、非の付け所がない美しい母だ。

「申し訳ありません」
「ところでアスラ、以前柚さんに贈ってさしあげた指輪はどうしているのかしら?柚さんは気に入ってくれましたか?」
「……分かりません」

アスラは、贈り物をしたという行為だけで満足していた。
指輪をどうしたかなど、気に掛けたこともない。

「あらあら、やっぱりシルバーでは気に入らなかったのかしら。プラチナの方がよかったかしら、ねえ、アスラ?ふふ、男のあなたに言っても仕方のないことですね。いいですか、アスラ?女は贈り物に弱いものです、しっかり柚さんを射止めるのですよ?」

アルテナは困ったように頬に手を当て、心配そうにアスラを見上げる。

「はい、そのように努力します」
「頼もしいわ。けど、あまりのんびりしていては他の者に奪われてしまいますよ」
「他の者に……」
「そうです。あなたはただでさえ多忙なのですから」

アスラは視線を落とした。

奪われるという感覚が、アスラにはよく理解できない。
それは、柚が自分ではない者を愛するということだが、その結果、今の柚とアスラの関係がどう変わるのか、想像出来ないからだ。

奪うといわれ、真っ先に浮かぶ男の顔はカロウ・ヴだった。
あの男に柚を奪われることだけは絶対に嫌だ。

嫌だという生易しいものではない。
それだけは許せないという、どす黒い怒りのような感情だった。

「……スラ、アスラ?」
「はい」
「母の話を聞いていましたか?最近のあなたときたら……すっかり親離れをしてしまって、もう母は恋しくないのですか?母は寂しいです」

アスラは言葉に詰まる。

母に対する申し訳なさが込み上げるが、それと同時、白々しいと愛情を疑う心があった。
困った顔をするアスラを、アルテナが僅かに驚きを浮かべて見上げる。

「あなたのそういう顔を久しぶりに見ました……」
「どのような、顔をしていたでしょう?」
「そうですね……可愛らしい顔ですよ」

穏やかに微笑み、アルテナがアスラへと手を伸ばす。
驚き身を引こうとするアスラの髪を、アルテナの指がそっと耳に掛けた。

「少し髪が伸びましたね。そろそろお切りなさい、私の可愛い坊や」
「……母上、私はもう二十五です」
「ええ、そうですね。早いものだわ……本当に、あの人に――」

懐かしそうに細められた瞳が、はっと見開かれる。
アルテナはアスラの触れた手を握り込むように自分の手で包み込み、アスラに背を向けた。

「なんでもありません。忙しいでしょう、もう行きなさい」
「母上?どうかしましたか?何処か具合でも……」
「大丈夫です。ほら、もう戻りなさい、柚さんが待っていますよ」

覗きこむようにして声を掛けるアスラに向き直り、アルテナは先程と変わりなく、穏やかに微笑んだ。
アスラはそれでも尚、納得がいかずにアルテナの顔を見る。

だが、アスラには何処まで踏み込んで訊ねていいものか……他人との距離の取り方が分からない。
母であれば尚更、嫌われてしまうことの方が恐い。

イカロスやガルーダであれば、もっと気安いのに……と、もどかしさを覚えた。

「……本当に、お体は大丈夫なのですか?」
「母の言葉を信じなさい。ですが、わたくしの心配をしてくれるのですね。あなたは本当にいい子。わたくしは幸せ者です、アスラ」
「……はい」

もう大人だと告げた自分の口。
だが、母の前では幼い自分に戻りたくなるときがある。

「では、失礼します」

おっとりと手を振る母に背を向け、アスラは足を踏み出した。

アスラの姿に気付き、ベンチに座っていた人影が顔を上げる。
亜麻色の髪を横に流し、新緑のような色をした穏やかな眼差しをアスラに向けた。

同行していたイカロスが静かに立ち上がる。
「お疲れ様」と告げた口が、言葉なく「おや」と呟きを漏らした。

「遅いと思っていたら、母上と話していたのかい?よかったね、アスラ」
「……」

心を読む力を持つイカロスだが、今はアスラの表情が喜びを語っている。
無言で返すアスラ以上に、イカロスがにこにこと自分のことのように笑みを浮かべていた。





廊下を歩くアルテナとすれ違った男が、ひそひそと隣の男に声を掛けた。

「おい見ろよ、モンローだ。息子の機嫌取りでもしてきたか」
「デーヴァがいなきゃただの女だもんな。どうせ、あの体使って大統領やデーヴァの父親に取り入ったんだろ」
「おいおい、聞こえるぜ。そんな本当のこと」

足を止めず、アルテナは唇を噛んだ。
人とすれ違う度、ひそひそと噂を囁く声が聞こえてくる。

「最近、デーヴァはすっかり宮にご執心だろ。そりゃ、焦るでしょうよ」
「しかしモンローの効果がなくなったら、使徒のブレーキがなくなるのでは?どうするつもりだ?」
「ちょっとは頭を使えよ。今度は女王様じゃなく、お姫様の機嫌をとっときゃいいんだよ」

部屋に入ると、アルテナはドアを閉ざして体を預けた。
溜め息と共に俯き掛けた顔を上げ、椅子に座る相手を睨む。

「イワノフ……」
「デーヴァはどうだった?」
「……ええ」

姿勢を正すように凭れていたドアから体を起こすと、長い髪を払い、耳に掛けた。

「問題ないわ」

同じ派閥に身を寄せるアンドレイ・イワノフは、好意的に笑っているつもりだろうか……。
顔に浮かぶ笑みの中に、下心を隠しきれていない。

椅子に座ると、アルテナは冷えたウーロン茶を注ぎ、一気に飲み干した。

深く俯き、自分の手を握り締める。
長い髪がアルテナの美しい顔を隠した。

手を伸ばして煙草を取ろうとすると、イワノフが煙草とライターの火を差し出す。
アルテナはそれを受け取りながら、口元に引き攣った笑みを浮かべて顔をあげた。

「ねえ、イワノフ?」

煙草を肺の奥深くにまで吸い込む。

「わたくし、女優になれると思わない?」
「ああ、君の演じる"母"は最高だ」

イワノフが口元に弧を描いた。

汚らわしい……

もう一度煙草を吸い込むと、まだ吸い始めたばかりの煙草を揉み消した。





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