パーベルを抱きかかえ、廊下を駆けていた柚の目の前の空間にノイズのようなものが走る。

最近のハーデスは、任務から戻ると真っ先に柚の元に飛んできていた。
慌てて急ブレーキを掛けた柚の前に、空間を跨いだハーデスが姿を現すと同時、柚に抱き付こうとする。

「だめー!」

慌ててパーベルを抱き締め、柚が声を張り上げた。
柚の声が、影の伸びた黄昏の廊下に木霊する。

するとハーデスがぴたりと動きを止め、泣き出しそうな面持ちで肩を落とした。

「柚、俺のこと嫌いになった?」
「ちっ、違う、ごめん、ハーデス!今パーベルがいるから、転んだらパーベルが怪我しちゃうと思ってつい」
「……パーベル?」

ハーデスが首を傾げて、柚の腕の中の赤ん坊を見下ろす。

「そう、パーベル。支部にいる赤ちゃんを少し預かることになったんだ」
「赤、ちゃん……」

不思議さと戸惑いを浮かべ、ハーデスが覚束ない口調で呟く。

「抱っこする?」
「……ううん、なんか、恐い」
「恐くないよ、パーベルは大人しいぞ」
「ううん、そうじゃなくて……俺、怪我とか、させちゃいそうで……だから、今日は俺、もう行く」

くるりと背中を向け、逃げるように姿を消そうとするハーデスに、柚が慌てて手を伸ばした。
服を掴まれ、ハーデスが困ったような面持ちで肩越しに振り返る。

振り返ると、柚の片腕で抱かれたパーベルが指をしゃぶりながら、大きな瞳で不思議そうにハーデスを見上げていた。

「忙しいなら引き止めないけど……おかえりくらい言わせて欲しいな」
「……うん、ただいま」
「おかえり、ハーデス。任務はどうだった?」

パーベルを両手で抱き抱え直しながら、柚は微笑みと共に穏やかに問い掛ける。

触れると柔らかくて温かい……。
そんな柚をそのまま表現したかのように、優しくて胸の奥をくすぐるような笑みを見せられると、ハーデスの体はそこから離れる事を拒

むように踵を返す。

ハーデスははにかむように頬を染めながら、ゆっくり柚と向き合った。

「うん……普通。ちゃんとやってきた」
「そっか、怪我はないのか?」
「うん、大丈夫」

おっとりとした口調で返事をしながら、はにかんだように不慣れな印象の笑みを浮かべ、ハーデスは笑う。

「なら、安心した」
「……うん」

にこにこと微笑みを漏らす二人の顔を交互に見ていたパーベルが、「だぁ」と声をあげ、嬉しそうに笑い始める。
ハーデスがびくりと体を竦ませると、柚はくすくすと笑みを漏らす。

「パーベルは、ハーデスが気に入ったみたいだな」
「……俺を?この子が?」

信じられないかのように驚きを浮かべ、ハーデスが問い返した。
笑顔で頷く柚に、ハーデスが照れたようにパーベルを見下ろす。

「好きって、こと……?」
「そうだよ。ね、パーベル?」
「あー」

顔を覗きこむ柚に、パーベルが満面の笑みを浮かべて声を発した。

ハーデスは自分の指をもじもじと絡め、視線を床に落とす。
髪から僅かに覗く耳が赤く染まるハーデスを見やり、柚はパーベルに声を掛けた。

「ハーデスが照れてるぞ、パーベルはきっと将来プレイボーイになるな」
「だぁー」

柚の言葉に、パーベルは無邪気に手をばたばたと動かして返す。

ハーデスがおずおずと顔を上げると、パーベルの大きな瞳が弧を描き、柚の腕の中から体を乗り出した。
ハーデスに向けて手を伸ばすと、ハーデスが戸惑った面持ちで固まってしまう。

伸ばされたパーベルの手がハーデスの軍服のそでを掴むと、服にはくしゃりと皺が寄った。

「ほら、ハーデスに抱っこして欲しいって」
「え……う、うん……」

恐る恐る、ハーデスがパーベルに手を伸ばす。
壊れ物に触れるよう、パーベルの体を両手でそっと支えた。

「こう?」

体を緊張させ、ぎこちなくパーベルを抱くハーデスがあまりにも微笑ましく映り、柚は思わずくすくすと笑みを漏らす。

その時だ、フランツが小走りに廊下を駆けてきた。

「いた!ハーデス、教官が捜してましたよ」
「……なんで?」

ハーデスは柚にパーベルを返しながら、首を傾ける。
フランツは腰に両手を沿え、溜め息を漏らした。

「任務から戻って、報告はしましたか?」
「……してない。ちょっと柚の顔、見てから行こうと思ってたから」
「なんだ、引き留めて悪いことしちゃったな。怒られたら私のせいだって言ってくれ」

柚は苦笑を浮かべながら、胸に顔を埋めるパーベルの背中を撫でる。
フランツが見慣れない赤ん坊に、ぎょっとした面持ちを向けた。

すると、ハーデスがパーベルごと柚をそっと抱き締める。

「柚と離れたくない……」

ハーデスは甘えるように柚の肩に顔を埋めながら、不貞腐れた面持ちで口を尖らせた。
まるで捨てられた子犬のような目と目が合う。

「何言ってんだよ、報告なんてすぐに終わるだろ」

柚は腕を伸ばし、ハーデスの腕を軽く叩く。
すると、渋々ハーデスが柚から体を離した。

柚は苦笑を浮かべ、とぼとぼと柚から離れていくハーデスの背中に声を掛ける。

「いってらっしゃい。また、パーベルと遊んでやってくれ」
「……うん」

しゅんとした面持ちに小さな笑みが浮かぶ。
そのまま、ハーデスの姿が視界から一瞬にして消え去った。

二人のやり取りを見ていたフランツは、おずおずとパーベルに視線を向ける。
パーベルは柚の腕の中で、気持ちが良さそうに目を閉じて指をしゃぶっていた。

「そういえばさっき柚、所長に呼び出されてましたよ……ね」
「うん。この子を少し預かることになったんだ。可愛いでしょ?今支部にいるパーベルです、よろしくね」

柚はパーベルを抱き直し、フランツに見えやすくする。

目が会った瞬間、パーベルが無邪気な笑みを浮かべてフランツに手を伸ばす。
フランツはぱたぱたと動くパーベルの小さな手を握り返し、柔和な笑みを浮かべた。

「可愛いですね。僕はフランツですよ。よろしく、パーベル」
「この子の面倒を見る任務なんだって」
「へえ。で、誰の子なんでしょうね」

フランツがパーベルと握手をしていた手を止め、恐る恐るといった面持ちで呟きを漏らす。
笑顔を綻ばせていた柚の顔も引き攣り、二人の間に気まずい沈黙が流れた。

「そ、そういうこと言うかなぁ……」
「す、すみません。でも、どうしても気になって」

フランツが場の空気を変えるように、極力明るい面持ちで言い放つ。

「僕だってもう、可能性がないわけじゃあないですし」
「そ、そうなんだ」

柚がフランツから視線を泳がせた。
その態度に、フランツが後ろ暗いことでもあるかのようにおろおろとする。

「あ、いえ!だって、ねぇ?」
「分かってるから、そんな顔しなくていいよ」

柚が見兼ねたように、苦笑を浮かべてフランツを見上げた。

政府は使徒の女性不足問題を人間の女で補い、彼等は研究所側が用意した名前も知らない女性と一夜限りの関係を定期的に持つ。
それでも受精が成功する確率は低く、無事に産まれる確立はさらに低くなる。
無事に生れたとしても、パーベルのように体が弱かったり、体に障害を持つ子供が半数だ。

フランツが目を瞬かせ、頬を掻いて苦笑を浮かべ返した。
そして、長い溜め息と共に近くの壁に凭れ掛かる。

「ごめんなさい、正直複雑ですよ」
「うん、そっか。そうだよね」

柚は不思議そうなパーベルと頬を重ね、呟くように返す。

研究所が用意した女性との関係に愛など存在するはずもなく、もし自分の子供だと言われたところで、まず実感が湧かないだろう。

一般社会のように、責任を取れと言われるわけではない。
とはいえ、愛のない関係で生まれた命だからこそ、後ろめたさを感じてしまう。

「でも、"誰か"の子じゃなくていいのかも。父親が分からないって事は、皆が親なわけで、皆がこの子を自分の子供のように愛してやれ

るってことだろう?」
「柚……」
「この子にとっては、凄く幸せなことだ」
「そうですね」

使徒の力は親の愛情によって生れた軌跡と言われている。
だからこそ、使徒は肉親を愛する。

沢山の者を"親"と愛し、愛される事は、使徒にとって幸せな事だ。

フランツの笑みが、溶けるように穏やかなものへと変わっていく。

そっと細く長いフランツの指が、丸く大きな瞳を瞬かせているパーベルの頬に触れた。
小さな耳から髪へと指を潜らせ、フランツがパーベルの頬にそっとキスを落とす。

「この子の未来に祝福を――…」
「おまじない?」
「ええ。昔、母が近所の赤ちゃんにやっていたんです。子供の将来に願いを込めて、本来は両親がやるそうなんですが……いざやってみ

ると照れますね」

フランツがほんのりと頬を染め、照れ隠しに頬を掻く。
柚はくすくすと笑みを漏らし、「じゃあ」と呟きを漏らす。

「私からは、そうだなぁ……パーベルが健やかでありますように」

眼差しのように柔らかな唇が、白く淀みのないパーベルの頬に口付ける。
顔を上げた柚は、ほうけたようにこちらを見ているフランツに気付き、顔を頬を染めた。

「え?何?違った?」
「い、いいえ!なんでもありませんよ、じゃ、じゃあ僕、急いでるんで行きます!さよなら!」
「え?ちょっ――」

顔を真っ赤に染め上げ、全力で走り去っていくフランツに、取り残された柚は唖然とした面持ちで目を瞬かせる。

角を曲がると、フランツはため息を漏らしてパタパタと手で顔を仰いだ。
早い鼓動を落ち着かせるように、フランツは静かに深呼吸を繰り返し、最後に溜め息を漏らした。

(何やってるんでしょうね、僕は……情けない)

誰にも言えない罪悪感が胸を締め付けると同時、それはフランツの劣等感を苛む。

項垂れる首筋に手を這わせ……
日の当たらない場所で一人、フランツは折り曲げた膝に顔を埋めた。





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