オーストラリアから帰国すると、再び変わり映えのない日常が戻ってきた。

午前中に戦闘訓練を受け、午後には勉強会。
週刊誌の写真撮影やアスラの護衛で議事堂に向かう以外、任務らしい任務もない。

そんな日常に、大きな任務の話題が飛び込んだ。

「双頭?」
「ああ。前々からガルーダ尉官が担当していた大規模な犯罪組織だ。ついに掃討作戦に入ることになるかもしれん。その件で、元帥方も暫く多忙になるだろうよ」

訓練を終えて水分補給をしていた柚は、大きく首を傾げる。

冬を超え、気温も大分暖かくなってきた。
冬の訓練は体が温まるまで辛いものがあるが、今は快適だ。

明らかに理解していない面持ちの柚と、先日初任務を終えたばかりのフョードルに、ジョージが簡単に説明を続けた。

「人身売買等、あらゆる犯罪行為に手を伸ばす、旧時代のチャイニーズとイタリアマフィアが合併した組織だ。各国で活動し、なかなか奴等に繋がる情報を得られなかったんだが、奴等には世界中が手を焼いていてな」
「ふぅん」
「人身売買も捨て置けないが、奴等は保護前の使徒を攫って売り捌いている厄介な連中だ」
「なんか……前にフランに聞いた事あるかも」
「ええ多分、柚にも話したことがあると思います。名前までは教えなかったと思いますけど」

遠い記憶を探るように視線を上に向け、フランツが返す。
焔はタオルで汗を拭いながら、耳のみをジョージの言葉に向けていた。

訓練を終えたばかりだと言うのに、フョードルが「そんな悪い者達、許して置けません!」と声高に憤慨する。

「まあ、それがそう単純ではないんだ。ユーラシア連盟とアメリカ大陸合衆国からの申し入れで、アジア・オーストラリア・アフリカを含む五ヶ国で協力し、掃討作戦に入るかもしれん――という話しだ」
「へー、凄い!いいんじゃないかな?このまま、世界が戦争なんて忘れちゃえばいいのに」
「そうですね!悪者を倒せる上、世界情勢が良くなるならば大変好ましい事です。さすが柚殿、私も柚殿の意見に賛成です」

柚の言葉に、フョードルが目を輝かせて深く頷いた。

正義感の塊のようなフョードルを半眼で見やる焔の隣で、フランツが苦笑を浮かべる。
フョードルが意気込むほど、どちらかというと好戦的であるはずの焔が冷めていく。

「まあ、確かにそうではあるな」

腕を組み、ジョージが同意した。
すると、床に座りこむ焔が視線をジョージに向ける。

「掃討作戦って言っても、具体的にはどうやってやるんだ?なかなかしっぽを見せない相手だろ?アジトに目星が付いたのか?」
「どうと言われても……まだ、協力を呼び掛けられた段階だからな。アジアも双頭には手を焼いているが、ユーラシアとアメリカを下手に信用して足元をすくわれても困る。とにかく世界で手を結ぶとなると、どの国も見栄とプライドがあるだろうから、大規模な作戦になるだろうよ」

ジョージの言葉に「ふぅん」と頷く柚に、ジョージが意地の悪い視線を向けた。

「まあ、お前達には関係のない話だ」
「え、なんで!」
「ちょっと考えれば分かるだろう。この任務で失敗してみろ、いい笑い者だぞ」
「それって、私がいると笑い者になるって意味?」
「僕も含め、まだまだ経験が浅いですし、仕方がないですよ。特に柚は、ね?国の許可が降りないんじゃないでしょうか」

むすっとした面持ちになる柚に、フランツが苦笑を浮かべる。

遠回しに言っているが、希少な女である柚を敵だらけの作戦に放り込めるはずがないということだ。
はっきり言ってくれた所で怒りはしないのだが、フランツなりに気を遣ってくれているのだろう。
逆に申し訳ない気もする。

すると、ジョージが呆れた面持ちでフランツの背中を叩いた。

「フラン!何を言っているんだ、お前は招集が掛かるかもしれんぞ。そんな心構えでどうする、しっかり準備をしておくんだな」
「え?あ、はい……」

背中を叩かれて思わずよろめくフランツを見やり、ジョージが「鍛え直せ」と溜め息を漏らす。

(そっかー……全世界で協力か)

オーストラリアの使徒には会った事があるが、ユーラシア連盟やアフリカ大陸合衆国、アフリカ共和国の使徒には会った事がない。

(ユーラシアとアメリカには、女の人がいるんだよなぁ。ちょっと……いや、凄く会いたいかも)

考え込む柚に、フョードルが首を傾げる。

普段は黒に近いが、光が当たるとアメジストが透ける綺麗な瞳だ。
年下の少年は、ふとした表情の中に幼さを残している。

「どうかしましたか?」
「あ、ううん。ただ、ユーラシアとアメリカには女の人の使徒がいるだろ。会ってみたいなって思って」
「それは難しいでしょうね。女性の使徒で前線に出ているのは柚くらいですよ」

フランツは、遠慮がちに笑った。
目を瞬かせた柚がフランツを見上げる。

「え、そうなの?」
「詳しくは知りませんが、そういう話しは聞かないのでそうだと思いますよ」
「そうなのか、そっか……うーん」

残念そうに項垂れる柚に、フョードルが慰めるように声を掛けた。

「仕方がありませんよ。他国の女性は柚殿と違って下級クラスですし、戦闘には向きません」

慌てたように、ジョージが咳払いを挟んだ。

はっとした面持ちで、フョードルがフランツを横目で見やるが、フランツは聞いていなかったかのように別の方を向いている。
安堵するフョードルを見やり、柚と焔が小さく溜め息を漏らした。

性別や能力クラスにより、一人一人が抱えるコンプレックスがある。
フランツが気にしている様子を見せた事はないが、フランツが気を遣うように、柚達もまたフランツに気を遣う事があった。

「さて、そろそろ戻ろうかな」

柚の言葉に焔が無言で続く。
フョードルが小走りに二人を追いながら、柚を見上げた。

「この後のご予定は?」
「ああ、今日は雑誌の撮影」
「またかよ、ご苦労なことだな」

焔が呆れた眼差しを向けると、柚が眉を顰める。

「何言ってんだ、お前もだろ」
「は?そうだったか?」
「朝のスケジュール、聞いてなかったのか?」
「あー、くそっ、忘れてた」
「どーせ、抜け駆けして自主練でもしようとか思ってたんだろ。残念だったな、そうはいくか」

面倒臭そうに呟きを漏らす焔に、柚が鼻を鳴らす。
そんな二人の後に付いていくフョードルを見送り、フランツは小さく息を吐いた。

腕を組んだまま、ジョージがフランツに歩み寄る。

ただでさえ無駄に広い空間は、二人きりになるとより一層広く感じた。
賑やかな柚達の声が遠ざかって行くと、もの寂しさに拍車を掛ける。

「お前は残って自主練か?」
「ええ、そのつもりです」
「あまり無理はするなよ」
「はは、鍛え直せっていったのは教官じゃないですか」

フランツは小さく笑い返す。
そんなフランツに、ジョージは不安を抱く。

「なんてね。今日は柚に負けちゃいましたからね」
「今日はたまたまだろ?」
「だといいんですけど……。なんにせよ、次はいつ任務が来るかも分かりませんし、気は抜けませんよ。それじゃあ、失礼します」

静かに閉まるドアを見やり、ジョージは溜め息と共に肩を落とした。



その日午後、講義を終えて遊戯室のソファにべったりと寝そべってだらけていた柚に、放送で呼び出しがかかった。
むくりと起き上がった柚は、頬杖を付き、テレビのチャンネルを回しながら欠伸を漏らしていた焔の顔を見た。

「なんだろ」
「今度は何したんだ?」
「私は常に品行方正だぞ」
「真顔で言うか。お前の図々しさには恐れ入るな」

焔が小馬鹿にしたように鼻で笑い飛ばす。
暫し焔と睨み合っていた柚は、二度目の呼び出しに慌てて遊戯室を飛び出した。

所長室に向かうと、研究所所長のモリス・ドルチェが数名の研究者と共に柚を出迎える。
研究員は苦手な雰囲気の者が多いが、モリスは恰幅の良い体同様に柔和な印象がある。

柚はモリスの恰幅の良い体の後ろに、研究員よりも更に苦手な人物がいることに気付いた。

使徒のサポートを担う、人間で構成されたアース・ピースの一般兵部隊を纏める佐官スミス・カルヴァンは、いつも通りの厳格な顔立ちで、椅子に深く腰を掛けて待っている。
壮齢の男は立ち上がり、柚の前へと歩み寄った。

「ごくろう、宮君。最近どうかね?ここでの生活にも大分慣れただろう」
「そうですね、お陰さまで」

時間の流れは時々寂しさを与えてくる。

カルヴァンが柚に掛ける言葉も、柚が愛想笑いと共に曖昧に返した言葉も、中身など存在しない。

挨拶のついでに興味のない当たり障りのない話を振る、聞かれたから当たり障りのない言葉を返す。
空虚なやり取りを交わす大人の世界にも少し慣れてきた。

「今日は君に頼みがあってね」
「任務でしょうか?」

任務の話など聞いていない。
いぶかしみながら問い返す柚に、カルヴァンは深く頷いた。

「そうだ。何、そう難しいものではない。君、入ってくれたまえ」

研究員が奥の部屋のドアを開けると、赤ん坊を抱き抱えた見慣れない女性職員が姿を現し、「こんにちは」と穏やかに声を掛けてくる。
柚に覚えはないが、もしかしたら、以前支部で会っているのかもしれない。

柚は挨拶を返すと、彼女が抱き抱える赤ん坊に目を止め、赤ん坊の顔を覗きこんだ。

「え?もしかしてこの子、パーペル?」
「そうよ、大きくなったでしょう。抱いてあげてくる?」
「うわぁ!久しぶり、パーベル」

壊れ物を扱うように赤ん坊を抱き上げ、柚は無意識に緊張していた顔に笑顔を綻ばせた。
パーペルはきゃっきゃと笑い声を上げ、まるまるとした小さな手足をばたばたとさせる。

パーペルは、生後体調が安定しない為、支部に置かれている使徒だ。
フョードルの提案で"パーペル"と名付け、支部を発って以来、一度も会っていない。

「大きくなったな!偉い」

柚は嬉しそうにパーベルの頬に頬擦りをする。
すると、赤ん坊は小さな口から舌足らずな口調で言葉を発した。

「ゆぅず、ゆぅず」
「うわぁ、私の名前呼んでくれた!」

感激のあまり、柚が大きく目を見開き、瞳を輝かせる。
女性職員は、「そうね」と子供に接するように笑みと共に頷き返した。

パーベルは小さな手で柚の顔にぺちぺちと触れ、今度は髪を掴んで引っ張り始める。

「この子が始めて喋った言葉があなたの名前なの」
「何それ、パーベルってば可愛いっ!」

柚が更に喜びの声を上げると、パーベルも嬉しそうに愛らしい声を上げて返した。
まるで柚の感情を理解しているかのような反応が、ますます柚の心をくすぐる。

「明後日に帰るんだけれど、それまでこの子の面倒を見てくれるかしら」
「え、いいの?」
「もちろんよ。この子も喜ぶでしょうし、お願いね」
「はーい。あ、もしかして任務って……」
「そうだ。予行練習だとでも思い、この子の面倒を頼むぞ」
「了解です、失礼します!」

パーベルを抱いて、柚が元気に廊下を走り去って行く。
その姿を見送ると、奥の部屋から暗い面持ちのヨハネスが姿を現した。

「本当に、このような方法でよかったのでしょうか……私は彼女を騙しているようで心苦しいですよ」
「内容を知らずに検証した方が結果を得られる。結果が出てから教えればいい」

ヨハネスの責めるような視線などには目もくれず、カルヴァンは鼻で笑い飛ばす。
ヨハネスは素っ気なく返すカルヴァンから顔を逸らした。

報告すべきではなかったのだろうか……。

ヨハネスは不安を胸に、眼鏡を指で押し上げた。





NEXT