愕然とする柚の体に少しずつ震えが込み上げる。

最初は確かに、オーストラリア側が柚に何かを求めてくるのではないかと不安だった。
だが人の良いクックを見て、そのような心配など柚の中では綺麗に消え去っていたのだ。

「ああ、もちろん、一人目の子供が無理なのは承知しておりますよ。ですから、いずれでいいのです。お望みならばこちらの使徒の精子を無条件に提供しても構いませんし、現在いる使徒をお譲りすることも検討いたしますし……」

目の前で行われているのは、あまりにも勝手な取引だった。
命とは、これほどまでに安いものなのだろうか?

クックという人に裏切られたかのような衝撃は、柚に怒りよりも大きなショックを与えた。

立ち尽くす柚の腕に何かが触れる。
探り当てるような動きで、隣に立つアスラの指先が柚の手に触れた。

ゆっくりと、柚はアスラの顔を見上げる。
アスラは視線すら向けて来ないが、まるで柚を安心させるような揺るぎないぬくもりが、柚の体の強張りを溶かしていく。

手を握るアスラの手に、柚はそっと指を絡ませて返す。
そうすることで、どうしようもない不安に押し潰されそうな心をなんとか保つ事ができる気がした。

黙ってクックの言葉を聞いていた黄の背中が、「ふむ」と頷きを見せる。

「残念ですが、その要望にはお応え出来兼ねますな」

黄の背中しか見ることの出来ない場所に立つ柚には、黄がどのような顔をしているのか検討も付かない。
だがクックが、一瞬怯んだように身を引いた。

黄は椅子へと凭れると、机の上で手を組み、口角を吊り上げる。

「もし彼女を目的で同盟の話を持ち掛けたのであれば、我々も同盟を白紙に戻すことを前提に、再検討させて頂くことになりますが?」
「と、とんでもない!そういう話しも出ているというお話です。お気を悪くされたのならば申し訳ない!」

慌てて否定するクックに、黄は「安心しました」と穏やかに笑って返すと、書類を纏めて椅子から立ち上がった。
腰を伸ばす黄が、杖を預かり、クックを見やる。

「さて、話しも纏まったことですし、我々もお暇させて頂きましょう。有意義な時間を有難う御座いました、クック首相」
「こちらこそ有難う御座いました、黄大統領」

ほっとした柚は、体から力を抜いてアスラに体を預けた。
自分を見下ろすアスラに向けて小さな笑みを綻ばさせると、アスラが見逃してしまいそうな微笑みを浮かべて返す。

「ほらほら、お二人さん。行くぞ」
「はーい」

明るい口調のガルーダに背を押され、柚が元気に足を踏み出した。

その瞬間、その手を掴むようにカロウ・ヴが手を伸びる。

ぱしりと乾いた音と共に、カロウ・ヴの手が弾かれ、目の前にアスラの背中が広がった。
ガルーダに肩を掴んで引き寄せられ、柚はきょとんとした面持ちでガルーダとアスラを見上げる。

アスラが抑揚のない面持ちながらも、低い声音でカロウ・ヴを見据えた。

「接触は禁止されている筈だが?」
「柚と少し話がしたいだけっスよ。いいでしょ、それくらい」
「話しがあるのなら、今ここで話せ」

アスラがカロウ・ヴを牽制する。
柚のみがきょとんとした面持ちで、アスラの背を見やり、ガルーダの顔を交互に見上げた。

「ああ、カロウ・ヴ止めなさい」

おろおろとした面持ちのクックがカロウ・ヴに声を掛けるが、カロウ・ヴに睨み返されて口篭る。
睨み合うアスラとカロウ・ヴに、先に部屋を出ていたマーシャルが戻り、溜め息を漏らした。

つかつかと歩み寄り、カロウ・ヴを引き剥がす。

「申し訳ない。これがまた何かご迷惑をお掛けしましたかな?」
「い、いいえ、なんでもないんです」

慌てたように柚がアスラの後ろから顔を出し、愛想笑いをマーシャルに向ける。
マーシャルは柚へと顔を向け、アスラに小さく頭を下げた。

不機嫌そうにアスラが踵を返す。
事の次第を見守っていた黄が、全身でため息を漏らした。

「やれやれ。さて、愛しい我が家に帰るとしよう」

黄の言葉に、柚も早く帰りたいという郷愁の念がふつふつと込み上げてくる。
見知らぬ地もたまにはいいが、やはり自国が一番だと実感した。

(帰ったらゆっくり寝たいな)

旅客機の前で黄とクックが固い握手と挨拶を交わす後ろで、柚の心は早くも自室のベッドの上だ。
そんな柚は見送りに立ったアース・ピースの面々を横目で見やり、目を瞬かせた。

マーシャルの姿はあるが、あのカロウ・ヴがいない。

(さっきのことで怒られたのかな……)

賑やかなカロウ・ヴの見送りがないと、もの寂しい気もする。

(それとも怒っちゃったのか?)

心にもやもやとした塊を残し、柚は飛行機に乗り込む。

(さっきのでお別れって、ちょっと後味悪いかも……)

小さく溜め息を漏らす柚の隣に、アスラが座った。
柚はアスラを見やり、半眼を向ける。

「アスラの席はあっちだろ」
「気にするな」
「席いっぱい空いてるだろ」

文句を言う柚に、アスラが拗ねたようにそっぽを向いてしまう。

「俺が隣では嫌か?」
「またそういう……はいはい、嫌じゃないよ」

呆れたように苦笑を浮かべ、柚は肩を竦めて返す。
無言のアスラに対し、柚はアスラの肩に頭を乗せてアスラを見上げた。

「あのねアスラ」
「なんだ?」

柚が甘えるように無邪気な笑みを浮かべる。
空を駆ける飛行機は静かなもので、黄と秘書が話しをする声もよく聞こえてきた。

「私、アジアに生まれて良かった」
「……そうか」
「うん」

自分の運命は、黄の手の中にあるのだ。

もしオーストラリアに生まれていたら、取引の道具として他国に引き渡されていたかもしれない。
黄が大統領で良かったと、心の底から思った。

そして何よりも……

「アスラが元帥でよかった」
「……」

アスラの返事が、一瞬の間、止まる。

アスラの感情を感じさせない声も、表情を映さない顔も……
今は、何よりも分かりやすい鏡のようだ。

アスラの肩に乗せられた柚の頭に、陽光のような金の髪が掛かった。
二色の色彩が、優しく交じり合う。

「そうか……」

ああ、優しい声……

胸の内を満たす温かさに、柚は静かに瞼を閉ざす。
到着するまで眠ってはいけないと思いながらも、隣から伝わってくる安心感に包まれ、柚は眠りに身を預けた。





空港のロビーのソファに憮然とした面持ちでだらしなく座り込むカロウ・ヴの後ろから、ゲシュペンストはソファの背凭れに腕を乗せて声を掛けた。

「帰ってしまいましたよ?見送りに行かなくてよかったんですか?」

くすくすと熱のない笑みを浮かべ、ゲシュペンストは飛び立って行く飛行機に視線を向ける。
やはり憮然とした面持ちのカロウ・ヴは、振り返る事なく、口を尖らせた。

「……別に。行ったって、柚が感謝するわけでもないし」
「おやおや、随分な変わりようだ」

カロウ・ヴがくるりと振り返り、ゲシュペンストを見上げる。
その口元には、無邪気な笑みが浮かんだ。

「僕を愛さない奴なんていらない。それに、もう柚はいらないしね」

ゲシュペンストは子供の可愛い悪戯を咎めるようにくすりと笑みを漏らし、そっと口元に指を当てる。

「それはまだ、"しー"ですよ、カロウ・ヴ」
「ああ、そうだね」

目を細め、カロウ・ヴは窓の外へと冷ややかな視線を投げた。

マーシャルに叩かれて赤く腫れた頬が痛々しい。
忌々しそうに、カロウ・ヴは鼻を鳴らした。

「どいつもこいつも……」
「可愛そうに……」

カロウ・ヴは、仰け反るようにゲシュペンストを見上げた。
銀の前髪がはらりと後ろに流れ落ちる。

カロウ・ヴの無言の問い掛けに答えるように、ゲシュペンストは眼鏡の奥に笑みを浮かべた。

「大丈夫、見付かりましたよ。成功です」
「やった……ふふ、あはははは」

カロウ・ヴが声を上げて高らかに笑い始める。
誰もいない空港のロビーに、笑い声が響き渡った。










早朝のアース・ピース基地の一角では、ミルクの入ったトレイを手に、奮闘する少年の姿があった。

「にゃー、にゃー」

小さな木の茂みに向かい、天使のように愛らしい顔立ちの少年が声を掛ける。
茂みからは、警戒するように双眸が輝いていた。

「おいで?ね?」
「アンジェ、もう行こうよ」
「えー、もう少し」

アンジェが振り返った瞬間、茂みから音を立て、猫が森の奥へと逃げていく。
残念そうに溜め息を漏らすアンジェに、ライラも溜め息を漏らした。

「あの猫ちっとも懐かないじゃん。可愛くない」
「そんなことないよ、ちょっとずつ距離が縮まってるもの。その内、懐いてくれるよ」
「大体、あの猫何処から入ったんだか……」
「きっと運搬の車の荷物に紛れて入ってきちゃったんだよ。きっと凄く心細いよ」
「はいはい、とにかく今日はもう戻ろう。柚姉達が帰ってくる前に訓練終わらせたいって言ったの、アンジェじゃん」
「うん。猫ちゃんまたね」

猫が去って行った方へと声を掛け、アンジェはすくりと立ち上がる。
自分と同じ顔をしたライラの手を取り、アンジェは笑顔で建物の中に消えていく。

その様子を二階の廊下から眺めていたヨハネス・マテジウスは、微笑ましそうに笑みを漏らし、コーヒーカップに手を掛けた。

「子供は元気でいいですね」
「羨ましいもんだ。俺は季節の変わり目になると古傷が疼いて叶わん」

小柄で筋肉質なジョージ・ローウィーは、捲り上げていたズボンを下ろしながら溜め息を漏らして背もたれに背を預ける。
パイプ椅子がぎしりと音を立てた。

「さて、うるさいのが帰ってくるな」
「いいじゃないですか、いないと寂しいでしょう?」

ヨハネスの言葉に、ジョージはため息混じりの苦笑を浮かべる。

少し前までは新参者だった柚が、今は居て当たり前の存在だ。
彼女がいないだけで、何処となく仲間達がしょげているように感じた。

「……よっこらしょ」
「訓練室まで、車椅子で押していって差し上げましょうか?」
「もう少しじいさんになったら頼もうか」

ジョージは軋みを上げる椅子から立ち上がり、ヨハネスの冗談を流すと、彼の医務室を後にする。
その背に向かい、「お大事に」と声を掛けたヨハネスは、昼下がりの太陽を見上げ、くすくすと朗らかな笑みを漏らした。





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