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「なんかフェルナンドの声、上まで響いてきたけど?」
「騒々しいぞ、何事だ?」

柚の隣から、何処となく呆れを漂わせたアスラが二人を見下ろしている。

「べーつに?」
「報告する程のことではありません」

不機嫌にそっぽを向くライラに対し、しれっとした面持ちでフェルナンドが顔を背けた。
アスラは階段を下りると、二人の前に立つ。

「ならばいいが。俺はこれからイカロスの見舞いついでに柚とデートというものをしてくる。俺のほうの仕事は終わったので、ジョージにはそちらのサポートに回るように頼んでおいた。夕方までには戻る」
「……はい?」

その場に居合わせたフェルナンドとヨハネスのみならず、柚までもが耳を疑うかのような面持ちでアスラの顔を見た。

「アスラ……いつそんな約束したかなぁ。私、一応今から行こうとしてたところがあるんだけど」
「なんだ、急用か?」
「いや、急用ってほどじゃないけど……」
「なら構わないだろう。行くぞ」

アスラが歩き出す。
柚は慣れた様子でため息を漏らすと、フェルナンドに軽く詫びを入れて小走りにその後を追いかけて行く。

唖然とするフェルナンドとヨハネスを他所に、アンジェが無邪気に首を傾げた。

「イカロスお兄ちゃんのお見舞いに行くなら、僕も一緒に行っちゃ駄目かな?」
「駄目駄目。野暮だよ」
「ライラ……まったく、いたいけな子供達に余計な事を教えてるのは誰なんでしょうね」
「ライアン兄」

ヨハネスがため息を漏らしてアンジェとライラの肩を押し、歩き出す。
ヨハネスの呟きに律儀に答えを返すライラに、ヨハネスは頭を抱えて「知ってます」と刺々しく返した。

止まっていた時間が動き出したように去っていくヨハネスと双子に取り残されるフェルナンドは、ファイルにぎりりと爪を立てた。

(仕事が終わっただと?こっちはまだ大量に残っていると言うのに!そもそも、有能なこの僕がサポートに回ってやっているというのに、何故こっちは一向に仕事が終わらないんだ?イカロスならばこんなことはないのに)

フェルナンドは苛立ちにファイルを指で小刻みに叩き始める。

(暴れることしかない能がないガルーダめ!これではサポートしている僕が無能みたいじゃないか!)

ファイルを叩く指の速度が速くなっていく。
ブツブツと愚痴を呟きながら歩くフェルナンドの指が、ぴたりと止まる。

(いや、これは出世のチャンスだ。ここで僕の有能っぷりをアピールして、まずは尉官、そして最終的には色ボケ上司を蹴落としてくれる!)

フェルナンドの思惑を知ってか知らずか……
前を歩くアスラがくしゃみをひとつ漏らした。

柚が追い付くと、アスラは歩調を落とし、隣に並んだ柚へと問い掛ける。

「今日はすでにフランツと見舞いに行ってきたそうだな。イカロスはどうだった?」
「変わらない。気持ち良さそうに寝てるよ」
「そうか」

返事を返すと、アスラが少しだけ気落ちしたように感じた。
いつか目を覚ますと信じていても、やはり皆の心にあるのは今日も駄目だったという落胆だ。

柚はフランツと歩いてきた道を戻りながら、森へと視線を向けた。

イカロスの瞳に良く似た淡い若葉の色が空と混じり合う。
それはまるで、柚達を呼んでいるかのように思えた。

「アスラ、こっち」
「?」

返事も聞かずに、柚は道を逸れて森の中に入って行く。

木々の間を抜け、足首まで隠れてしまうクローバーの絨毯の上を一直線に突き進んだ。
さくさくと音を立てて歩く柚の後を、アスラがのんびりとした歩調で追う。

「こっちの方が病棟に早く着くんだ。知ってた?」
「いや」

アスラは静かに首を振り、前を軽やかな足取りで歩いている柚の背中を見詰めた。

「柚」
「ん?」
「明とニコラ・ファルコについて、今朝、報告を受けた」

途端に柚が足を止め、おずおずと不安げな面持ちでアスラに振り返る。

彼女が気に掛けるニコラという男は、アスラにとっては不愉快な存在でしかない。
アスラは一歩足を踏みだして柚の前で止まると、柚の顔を見詰めた。

「ニコラ・ファルコの話では、明は政界や財政界の者達と沢山のスキャンダルを抱えていたらしい。おかげで何度か脅迫状も受け取っており、殺されかけたこともあったらしい。身の危険を感じた明に双頭は接触を図った」
「それで……?」
「奴は国内で沢山の恨みを買っていた為、海外に逃げたかった。しかし明は名家の出身で、一族の名に傷が付くことを恐れていた。そこでファルコは、明の財産の三分の一とお前を誘き出すことを条件に、明の名に傷が付かないように海外逃亡の手助けをするという契約を結んだらしい」
「……だから、明議員は戻ろうとしたんだ」
「そうだろうな。明には護身用のスタンガンを渡したと言っていたらしい。おそらくそれでフョードルやボディーガード達を気絶させたんだろう。集まった人々を守る為、自らマフィアに捕らわれたとすれば聞こえがいい。その後で形だけの身代金要求でもするつもりだったんだろう」
「そっか。でも結局殺された……とかにしちゃえば、もう命を狙われることもないし英雄扱いか……」

柚は腕を組み、小さく唸る。

結局、明もいまだに発見されていない。
すでにこの事件はアース・ピースの手を離れ、人間達の捜査に委ねられた。

オークション会場の地下にあった道は世界各国に繋がっており、その過程はまるで迷路のように道が入り組んでいたらしい。
恐らく大戦以前に造られたものだろうと聞いた。

アスラは不愉快な思いを隠しもせずに告げる。

「ニコラ・ファルコはアメリカのアース・ピースが引き取ることになった。今後、あの男の働きによっては減刑も考慮すると言うことだ」
「そうか、教えてくれてありがとう」

足を止めていた柚は、苦笑と共にアスラに背を向け、再び歩き出した。
だが、先程までの軽やかな歩調ではない。

その後に続きながら、アスラは柚の背中へと問い掛けた。

「奴は常々、お前への恨み言を口にしているそうだ。満足か?」
「……アスラ、怒ってる?」

柚は肩越しにアスラへと振り返り、気後れしたようにアスラの顔を見る。

そんな顔をされると、さすがのアスラも自身の態度を少しだけ反省した。
アスラが片手を腰に当て、ため息を漏らす。

「呆れているだけだ。自身を恨ませてまで奴を生かして、何の為になる」
「それは分からない。いつかニコラが、生きてて良かったって思うときがくるかもしれないし」
「来なかったら?」
「それでもいいよ。それはニコラの自由だ」

呟くように告げ、柚は腰の後ろで腕を組んだ。
ぼんやりと空を見上げる。

「私達からすればファルコはろくでもない犯罪者だけど、ニコラはファルコを慕ってた」
「使徒だから当然だ」
「うん。けどニコラは、目の前でファルコを殺されたんだ。私は重ねて……凄く怖くなったんだ」

アスラが僅かに、眉間にしわを刻んだ。
そんなアスラの顔を見た柚は、アスラもそうだったのだと、少しだけ安堵を覚えた。

柚は躊躇うように遠慮がちに瞼を半分閉ざし、視線を足元に広がるクローバーへと落とす。

「なんていうか……あれってニコラが犯してきた罪の代償、だったんじゃないかなって」
「……」
「私達にとって一番辛いのって、やっぱり自分よりも大切な人が傷付くことだと思う。そういう思いを背負って生きるのが、私達使徒にとっては、何よりも恐い事だと思ったんだ」

大切な人との永遠の別れ。
使徒にとっては大切な人を失った苦しみを背負って生きることが、なによりも辛いだろう。

ファルコやニコラが死んだところで、全てが元通りになるわけではない。
失われた命に対する償いは、その人物を生き返らせられない限り、本当の意味での解決はありえないだろう。

ならば死に逃げるよりも、生きて償うべきではないだろうか?

柚は俯いたまま、足を止めた。

「ニコラが泣いている姿を見て、私もいつか人を殺した罪を償うときがくるのかなとか、考えちゃったりもして」
「……俺達は、ニコラ・ファルコのように私利私欲の為に人を殺しているわけではない。権限を与えられているんだ」
「うん……そうだよね、もう止めよう」

柚は静かに首を横に振った。

これはあくまでも、軍人になりきれない自分の考えだ。
こんなことを話して、もしいざという時にアスラが人を殺せなくなり、怪我負い、命を落とすようなことがあったら、自分は後悔するだろう。

すると、背を向けて再び歩き出そうとした柚の手首をアスラが掴んだ。

「何故止める?お前の話を聞きたい。お前が何を思い何を考えるのか、俺はもっと知りたいと思っている。言ってくれ。お前の言葉を聞かずに後悔するのはもう嫌だ」
「……アスラ」

柚は驚いたようにアスラの顔を見上げ、呟くようにアスラの名を口にした。
静かに瞼を閉ざすと、柚は十分だというように首を横に振る。

アスラの手から、少しずつ、力が抜けていく。
柚はそんなアスラの手に重ねるように、そっと自分の手を乗せた。

「私もよく分からないんだ。ただ……」

申し訳なさそうに、柚は苦笑を浮かべる。

「命は一人にひとつしかないけど沢山の人に繋がっていて、どんな人にもその人を想う人が居てくれるんだって、ファルコとニコラを見て思ったんだ。」

柚は赤い眼差しを空に投げた。
アスラの手に重ねていた手が、風のように離れていく。

「権限とか、そういうので納得できるほど、私達使徒も人間も、単純じゃないよね?」
「……」
「ニコラの祖父はたまたまマフィアだったんだ。その祖父を守る為に自分も望まない犯罪に手を染める……私がもしニコラの立場だったら、ニコラと同じことをしていたかもしれない。アスラは?どうしたと思う?」

その質問は、意地の悪い問い掛けだと思った。
議員を務める母の元、元帥という地位を与えられた自分。
身内の立場が違うだけで、やっていることは同じのような気がする。

アスラはぽつりと……言葉を漏らした。

「お前達のように外で育った者達の中には、稀に俺達を哀れむような目で見る者達がいた」

アスラは支部にいるジャンの顔を思い出す。

ジャン・ルネ・ヴィレームは人情的な考えをする男だった。
アスラとは常に意見が対立し、彼の存在は煩わしいとさえ感じていた。

「その視線の意味を知ろうとさえしなかった」

むしろ頑なに背を向けていた気がする。
知ることが罪のようにすら思えた。

「俺は満足していたんだ。与えられる知識が全てで、与えられるものにも遠ざけられるものにも、不満など感じなかった」

与えられる知識は、人間にとって都合の良いもの。
大人たちに囲まれ、元帥候補というレールの上を逸れることなく歩き続けた。

元帥を継いだときですら、何も感じなかった。

そういうものだと思っていたのだ。
ただ、自分の番がきたのだと、漠然と思った。

そんな自分が柚を愛すると決めた時、ただ愛を知ればいいのだと思っていた。

だが不思議だ。
日が経つにつれ、仲間達の自分を見る目が、何処か緊張や畏縮を含んだものから変わり始めていた。

「そこで最近気付いたのだが……」
「ん?」

柚が不思議そうにアスラに振り返る。
腕を組んだまま、アスラは抑揚のない面持ちで呟いた。

「俺は、どうやら人付き合いというものが苦手らしい」
「……ふ、ふーん」

柚は表情を変えず、今頃気付いたのかと心の中で呟きを漏らす。

「上司と部下の関係に馴れ合いは不要だと思っていた。だが皆が、以前よりもずっと近く感じる」

アスラは目を細めた。

柚は驚きを呑み込みながら、そんなアスラの顔を見上げる。

ああなんて優しい顔をするのだろう……。
柚は心の中で呟きを漏らす。

「先日、フランツが俺の部屋を訪れた。お前に救出作戦の参加を許可した礼と、俺の人柄を好きだと言われた」
「へえ。よかったな」
「……ああ。人にそんなことを言われたのは初めてだ」

アスラはゆっくりと瞼を閉ざし、穏やかに頷き返した。

「好意とは不思議だ、心を乱す。だが温かいものだ」

静かにアスラを見上げる柚の瞳が、緩やかに見開かれる。
時を忘れたように、柚は移り変わっていくアスラの表情に魅入った。

彼にはいつも驚かされている気がする。
人は変わる――その変化が、彼の言葉が、表情が、柚の心を動揺させる。

何かから開放されたように、今のアスラは穏やかな顔をしていた。

「部下との関係にそのような感情が要か不要かは分からない。だが……」

まるで、アスラが木漏れ日に溶けて消えてしまいそうだと思った。

温かく柔らかな微笑み。
心のままに笑うその顔は、美しく儚い。

「人に好かれるというのは悪い気はしないものだ。俺にとっては仲間ですら気が置けない存在ではなかったが、今は彼等と顔を合わせる事すら小さな喜びに感じる」
「……そうか」

ずっと年上の彼を幼く見せるそれは、動き始めた彼の心の姿に思えた。
柚がゆっくりと瞬きを繰り返し、穏やかに微笑み返す。

「それはきっと、アスラが皆を好きだからだよ」
「……そういうものか?」
「だって、アスラはカルヴァン佐官に好きって言われて嬉しいと思う?」
「……おぞましいな」

真剣に考えた後、目に見えて顔を顰めるアスラに、柚は声をあげて笑った。

そんな柚が、アスラの足元に視線を止めると、突如大声を上げて勢い良くしゃがみ込む。
柚はしゃがみ込んだまま、浮かれた様子でアスラを呼んだ。

「なんだ?」
「ほら、四つ葉のクローバー!」

地面を埋め尽くすクローバーの絨毯の中から、柚は葉が四枚のクローバーを摘んでアスラへと差し出した。
反射的に受け取ったアスラが、無言で首を傾ける。

「これがなんだ?」
「えー、ほら、ちゃんと葉が四枚だろう?」
「それが?」
「他のは三つ葉でしょ。四つ葉のクローバー、知らない?」
「知らん」

アスラは太陽に翳すように四葉を見上げ、感心も薄く返事を返す。

柚は近くに咲いていた白い色で丸い形をした小さな花を摘むと、それを編み始めた。
アスラがその隣にしゃがみ込み、柚の手の動きを見守る。

さわさわと、風が二人を囲む木々の葉を揺らす。

柚は穏やかに吹く風のように、静かに告げた。

「幸福を呼ぶんだ」
「……非現実的だな」
「そういう夢のないことを……」

呆れたように柚が口を尖らせる。
アスラは「そうか」と呟き、柚にクローバーを返した。

「いいよ、アスラにあげる」
「そういうものならば、お前が持っておけ」
「うーん……"幸せ"かぁ」

柚の長い睫毛が微かに影を落とす。

"可哀想"とニコラに言われた言葉が、哀れみの瞳が、柚をあの冷たい場所へと引き戻すように耳に響く。
はっとすると同時に、柚は吸い込んだまま忘れていた息を、思い出したように吐き出した。

「ぁ……」
「どうした?」
「……ううん」

柚は静かに首を横に振ると、花冠を編んでいた手を止め、ゆっくりと目を瞬かせながら空を見上げる。
瞬きと共に柚の顔が地面へと落ちた。

自分は……アース・ピースの使徒は可哀想なのだろうか?
一番大切な人と共にいたニコラからすれば、そう見えたのかもしれない。

アスラが覗き込もうとすると、柚は顔をあげて微笑みを浮かべた。

「私は今すっごく幸せだから、これ以上は贅沢だよ。アスラがいらないなら、アンジェかライラにでもあげようかな」
「あの二人は幸せではないと言うことか?」
「え!?違うよ、そういう意味じゃなくて。二人はアスラと違って夢のないこと言わないで、喜んでくれるかなって思ったんですー」

否定しながら、柚はアスラを責めるように口を尖らせる。

「ならば信じるように努力しよう」
「いや、アスラのそういう一直線過ぎる心遣いは嬉しいんだけど、努力してまで信じてもらうほどのものじゃないから」
「そうか、それは良かった。面倒だと思っていたところだ」
「アスラは言わなくていいことまで言い過ぎると思うんだ、うん」

花と三つ葉を交えて編む手を止め、柚が半眼でアスラを見上げた。
アスラは首を傾けながら、柚へと告げる。

「ところで、二人に贈る物がひとつでは足りないのではないか?」
「あー……うん、そうだよな。もういっこ探したほうがいいかな」
「日が落ちるまで時間があるな、手伝おう」

アスラがクローバーの絨毯へと視線を落としながら、森の中を歩く。
柚はそんな背中に肩越しに振り返りながら、嬉しそうに小さく笑みを浮かべた。

暖かな春の陽気も、穏やかな日差しも、まるでイカロスそのもののように思える。

三つ葉ばかりのクローバを手で梳きながら、柚は「あ!」と声をあげた。
だが、その声がアスラが柚を呼ぶ声と重なる。

二人は四つ葉のクローバを手にし、互いに顔を見合わせた。

「私の方が早かった」
「いや、俺だな」

互いに譲らず、じっと睨み合う。
すると、アスラが小さくため息を漏らした。

「仕方がない……」
「そうだな」
「もう一戦だな」

二人は笑みを浮かべながら、互いに背を向けた。

ふと、その上に小さな影の群れが通り過ぎて行く。
柚は顔を上げると、手で太陽の光を遮り、通り過ぎていく雀達の姿に穏やかな面持ちで目を細めた。



俯くフョードルの耳に、空を自由に羽ばたく鳥達の羽音が届く。
フョードルは顔を上げると、空を飛ぶ雀達を見送った。

窓に掛かる鉄格子の下には黒い猫が行儀良く座り込み、対極の色の軍服に身を包むフョードルが、壁に凭れたまま無言で空を見上げていた。

銀に近い金色の柔らかい髪が、微かに風に揺れる。
光に透けた瞳は美しい紫色をしており、どんなときも意志の強さを失わない。

そんなフョードルに向けて近付いてくる足音に、フョードルはゆっくりと首を下げて正面を見据えた。





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