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「よぉ、お前も吸う?」
「ご冗談を」

低められた声と侮蔑を込めた眼差しが、煙草を手にして歩いてくる玉裁へと向けられる。

「何してんだ、こんなとこで」
「随分とおかしな質問をなさるのですね。私が将官殿の見舞いに来て何か問題でも?そういうあなたの方こそ、このような場所に何か御用ですか?」
「お前、俺のこと嫌いだろ?」

窓の傍の壁に体を凭れさせると、玉裁は咥えていた煙草を手に取り、深々と煙を吐き出した。

青い空を、雲が穏やかに流れていく。
雲に混じるように、煙草の煙は空へと昇っていった。

玉裁へと顔を向けたフョードルが、薄く笑みを浮かべる。

「そういうあなたも、私のことをお嫌いでしょう」
「よくご存知で」

慇懃に告げた玉裁がにやりと口角を吊り上げ、意地の悪い笑みを浮かべた。

「この場所は、あなたにとって近付きたくもない場所なのでは?」
「へぇ、てめえは人様の過去をほじくり返したのか?」
「そのようなつもりはありませんが、皆様の経歴を知っておくことも嗜みかと思い、一通りのことは記憶しています。玉裁殿に限ったことではありませんよ。ところで、そろそろ煙草は止めていただけませんか?副流煙というものをご存知ですか?くれぐれの柚殿の隣では吸わないようにお願いしますよ」
「あー、はいはい。うぜぇな、てめえは」

どうでも良さそうに、玉裁は軽く返事をして返す。
フョードルは指先すら動かすことなく、視線のみを再び空へと投げる。

「"うざい"とは心外です。それは他者を傷付ける言葉ですよ。あなたの粗悪な言葉が周囲をどれだけ傷付けるか、考えてから発言するよう心掛けてはいかがでしょう」
「……」

玉裁は煙草を咥えたまま、フョードルに半眼を向けた。

「お前とは、俺どうやっても合わねぇわ……」
「そうでしょうか?あなたの努力次第では歩み寄りの余地もあると思いますが」
「けっ、さすがセラフィム。気位が高いねぇ」

わざとらしく肩を竦め、玉裁は嫌悪に顔を顰めて吐き捨てる。
フョードル自身も、玉裁の行動ひとつひとつに嫌悪を覚えた。

フョードルは壁を離れて歩き出した玉裁の背に、横目で視線を投げる。

「昨日――」
「……」

玉裁が足を止め、肩越しにフョードルへと振り返った。

それはまるで、フョードルの用件を分かっているかのような態度だ。
もしかしたらこの男は、自分と会話をする為にここまで来たのだろうかと、フョードルは深読みする。

挑むようなフョードルの瞳が、真っ直ぐと玉裁を睨み付けていた。
そんなフョードルの態度に、玉裁が眉間にしわを刻む。

「スラム巡回の任務でご一緒させて頂いた際、あなたは故意に私とはぐれて単独行動をされましたよね?」
「故意ってのは、人聞き悪いんじゃねぇ?」
「……はぐれた後、微かにあなたが力を使っているような気配を感じました」

玉裁がポケットに片手を入れたまま、冷めた眼差しでフョードルの瞳を見詰め返した。

「あなたは故意に私とはぐれ、一人で一体何をなさってらしたのですか?」
「……」

次の瞬間、玉裁の口角がふっと吊り上がる。
警戒するように、フョードルが体を強張らせた。

玉裁の体が振り返り、一歩ずつ、フョードルへと近付いてくる。
目の前に立つ玉裁の拳が壁へと叩きつけられると、邪悪と形容するに相応しい笑みを浮かべた玉裁が、フョードルの顔を覗きこんだ。

「ごちゃごちゃとうるせぇな。浮気勘繰って騒ぐ女みてェ」
「なっ!」

フョードルが目を見開き、顔を真っ赤に染めて玉裁を睨み付ける。

振り返る玉裁の耳元で、ピアスがぶつかり金属音が微かに響いた。
嘲るように、玉裁の視線がフョードルを通り過ぎてゆく。

「そういう詮索は、敵に捕まらないようになってからするんだな」
「っ!」

去っていこうとする玉裁に反論をしようとしたフョードルは、ふいに頭に痛みを覚えて言葉を止めた。
フョードルはぎりりと奥歯を噛み締めながら、忌々しげに頭を押さえ込んだ。



その頃、外のベンチで頭を抱え込みながら打ちひしがれる焔の姿に、フランツは苦笑を浮かべていた。

「で、元帥に柚のこと好きって知られちゃったんですか?もう終わりましたね、即柚の耳に入ると思いますよ。ちょうど今、元帥は柚と一緒にいるようですし、完全に伝わってますね」
「やめろ、傷口に塩を塗り込むな」

絶望に青褪めた焔がわなわなと震えながら顔をあげ、血走った目がフランツを睨み返す。
フランツは「仕方がない」と言いたげにため息を漏らし、焔の隣に腰を落として肩を竦める。

「そんなに落ち込まなくても、元帥はむやみに話す人じゃありませんよ?」
「ああ、そうだろうよ。けどあいつの世間ずれした感覚からして、他意なく話されそうで恐ろしい。ユリアやフェルナンドに弱みを握られるよりもよっぽど恐ろしい」
「はは、想像出来過ぎてフォローの言葉もありませんよ」
「せめて気休めでも否定しろよ」

焔は両手で顔を覆った。

背凭れに背中を預けたフランツは、深く俯いている焔の背中を横目で見下ろす。
次第に、彼の悩みが馬鹿らしく思えてきた。

「なんでそこまで隠すんですか?」
「あ?」

焔が顔をあげて眉を顰める。

「だって、全然脈がないわけじゃないじゃないですか」
「……な、ど、何処がだよ。あいつ、俺のこと眼中に――」
「それは僕の方ですよ」

フランツは焔から顔を逸らすように視線を遠くへ投げ、焔の言葉を遮った。
焔が目を瞬かせ、まるで拗ねているかのようなフランツの顔を見やる。

すると、見間違いだったのかと思うほどにいつも通りの笑みを浮かべたフランツが、くるりと焔に振り返った。

「柚、言ってましたよ。あ、焔には内緒って言われたんですから、絶対に言わないでくださいよ?」
「な、なんだよ」

フランツの言葉の意味を考えていた焔は、あまりにもいつも通りのフランツに息を呑み、先を促す。

「救出作戦の時の話なんですけどね、柚は元帥が直接助けに来てくれるとは思っていなかったらしいんですよ」
「そりゃそうだろ。指揮官は普通残るもんだ」
「そうなんですけどね」

アスラの名前が出た途端に興味がなくなり、焔は組んだ足の上で頬杖を付いてそっぽを向いた。

フランツは苦笑を浮かべる。
横から覗き込むようにしていたフランツが大きく背伸びをして、だらけた様子の焔の背中に向けて目を細めた。

少し、彼の反応に興味があった。

「焔だけは絶対に来てくれると思ってたらしいですよ」
「……」

焔の背中がぴくりと揺れる。

彼は振り返るだろうか……と、フランツは心の中で意味のない賭けをした。
振り返ると思ったが、結局焔は振り返らず、興味がない様子を装ったまま口を開く。

「へぇ……」
「絶対、仲間が助けに来てくれると信じてはいたらしいんですけど、やっぱり少し不安もあったらしいんです。あまりにもファルコが自信満々だったから、もしかして見付け出せないように細工がしてあるのかも、とかね」
「……」
「そういう柚の気持ち、分かりますよ。一人になると悪い方にばっかり考えちゃうんですよね」
「ま、お前はそうだろうな」
「焔!」

フランツが拗ねたように口を尖らせる。
その顔にはすぐにいつもの笑みが浮かび、片足が地面を蹴って立ち上がった。

そのまま、フランツは自分が座っていた側の肘掛に軽く腰を下ろして空を見上げる。

「柚の話に戻りますけど、政府に見限られるかもしれないとも思ったらしいんです。それでも、焔だけは絶対に来てくれる気がしてたって、言ってました」

焔の肩が再び揺れた。
振り向き掛けた焔が動きを止める。

「ばっかじゃねーの。基地脱走して捜しに行くのか?あいつ見付ける前に俺が軍に捕まんだろ」
「僕もそう言ったんですけどね……」

フランツは満足したようにくすくすと朗らかに笑った。

振り向き掛けた焔の耳が赤い。
彼の手は、それを冷ますように首に当てられていた。

「理屈抜きで柚に信じられちゃってるみたいですよ、焔」
「無茶言うなよ……」
「とかなんとか言って」

腰を下ろしていた肘掛から降り、フランツは軽やかに焔の前へと立つ。
後ろで腕を組み、フランツは上半身を乗り出すように焔の顔を覗き込んだ。

驚いて顔を上げる焔に、フランツは晴れやかな微笑を向ける。

「嬉しそうですよ、焔」
「別に……そんなんじゃねぇし」
「またまたぁ」
「う、うるせぇな!」

焔をからかいながら、フランツが森の奥へと逃げ込んでいく。
それを追い掛けていく焔を羨ましそうに見やり、ガルーダはため息を漏らした。

「なんだか知らないけど、あっちはいいねぇ、楽しそうで」
「恨み言を言う暇があるなら、さっさと手を動かしてください」

心が凍えるかのような冷たい口調で告げるフェルナンドに、ガルーダはべそを掻きながら書類の上に倒れこんだ。

「俺もちょっと休憩したいー!アスラばっかりずるい!」
「ガルーダ尉官!そもそもあなたの仕事が遅いのが原因です!」
「まあまあ、フェルナンド。落ち着いて。尉官も少し疲れたようですし、お茶にしましょう?」
「ジョージ!」

ガルーダが目を輝かせて起き上がると、ジョージが苦笑を浮かべる。
するとフェルナンドが、「ふっ」と底意地の悪い笑みを浮かべた。

「まだまだ元気なご様子ですね。あなたはただでさえ書類仕事が遅いんです。日頃体力が有り余ってるわけですし、休憩は必要ないでしょう、続けてください」
「鬼ー!!」

(なんだ、今日のフェルナンドは機嫌が悪いな……)

ジョージはガルーダをいたぶって楽しそうにしているフェルナンドを横目で見やり、ガルーダには悪いが関わるまいと、ため息を漏らす。

断末魔の如きガルーダの叫び声が、静かな館内に響き渡る。

休憩時間の残りをギリギリまで屋上で過ごしていたライアンズは、ガルーダの雄たけびが聞こえた気がしてため息を漏らした。

(尉官の幻聴が聞こえるなんて、疲れてんのかな……俺)

げんなりとした生気のない顔のライアンズに、ユリアはどうでもよさそうに声を掛ける。

「まだいかないの?休憩はフェルナンドと交代でしょ?遅刻したら何言われるか楽しみだね」
「休憩時間は一秒たりとて無駄に出来るかっての。一秒前に駆け込んでやる」

生気のない顔をしていたライアンズが、途端にやる気を出して拳を握り締めた。
そんなライアンズに、ユリアはくすりと笑みを漏らす。

聳える森の木々の上を踊るように、ハーデスは姿を消しては再び離れた場所へと姿を現した。
彼の口ずさむ懐かしい子守唄が、こちらにまで聞こえてきそうな気がする。

ライアンズはユリアの視線の先を追い、胡坐の上に頬杖を付いた。

「あいつ、結局あれで満足してていいのかよ……」
「あれ?ライアンはハーデスの気持ちに反対してなかったっけ?」
「は、反対してたわけじゃなくてだな……傷付く前にと思って――ああ、くそっ」
「いいんじゃないの、本人が満足してるんだから」

いつもと変わらずに達観したかのような笑みを浮かべ、ユリアは地面に寝転がる。
ユリアの口から大きな欠伸が漏れると、瞼は気だるげに瞳を隠してしまう。

「何が幸か不幸かは、本人の捉え方次第――ってことでしょ」

ライアンズは胡坐の上に頬杖を付き、ぼんやりと空を見上げた。

「まあ、そういうもんか」

小さく呟いたライアンズの口元に、小さく笑みが浮かぶ。

ユリアは手を伸ばした。
そうすれば、遠くの木の上に立つハーデスが、まるで掌の上に立っているかのように見える。

ハーデスはまるで泡のように、ユリアの掌の上から姿を消す。
若葉がひらひらと、落ちていった。



柚の手の中で、クローバーが踊る。
イカロスを見舞った後の帰り道は、特に会話もなく、まったりとした空気が二人を包んでいた。

「柚」
「ん?」
「恋愛とは、恥ずかしい感情なのか?」
「え?そんなことはないと思うけど、なんで?」
「いや……理由はない」
「……」

暫し考え込み、アスラは答えを返す。
また誰かに、何かを吹き込まれたな……と、柚は心の中で呟いた。

「好きという気持ちは軽々しく伝えてはならないのだろうか?伝えることは人に恥じるようなことなのだろうか?」
「本当に好きなら、いいんじゃないのかな。でも多分、それを何人もの女の人に言ってたら、信じてもらえなくなっちゃうだろうけど」

柚は苦笑を浮かべる。
そして、隣に立つアスラの顔を見上げた。

「気持ちを伝えることは、別に恥じるような悪いことじゃないよ。アスラのようにここで育った人達って、真っ直ぐに気持ちを伝えてくれるよね。それがなんでだろう、私達には出来ないから、時々羨ましくなる」
「羨ましい?何故出来ない?」
「なんだろうね。恥ずかしいっていうより、怖い、のかな」
「怖い?」

アスラが首を横に傾ける。

「だって、両想いの確立なんて本当に低いんだ。好き同士になれるなんて奇跡に近いだろ?好きって感情は、人を強くもするけど弱くもするんじゃないかな」
「強くも……か。そうだな、そういえば調書を読んで驚いたのだが、ニコラ・ファルコは結局、第六階級のポテンティアスだった」
「なんで驚くんだ?」
「俺よりも階級が遥かに下にも関わらず、奴はファルコの為に俺の力を撥ね退けた。俺はあの時、てっきり奴がセラフィムクラスか、あるいはケルビムなのだと思ったくらいだ」
「……そうか」

柚は静かに相槌を打った。

柚の手の中で、クローバーの束が風に揺れる。
クローバーを持っていない左の手で、柚は風に揺れる髪を押さえた。

ふいにアスラは、柚に左手が空いていることに気付いた。

母の手に触れたくて、手を伸ばした幼い日を思い出す。

「柚……」
「え?」
「手を繋いで欲しい」
「……手?」

差し出された大きな掌を、柚は不思議そうに見やり、アスラの顔を見上げた。
何故か心細そうに、アスラは柚の答えを待っている。

(そういえば、こうやって改まって男の人と手を繋ぐ機会って……あんまりないよな)

柚は思わず赤くなりながら、おずおずと差し出されたままの掌に、そっと自分の手を乗せた。
意識して相手に触れると、何故か緊張してしまい、会話すら止まってしまう。

アスラの手は壊れ物に触れるように遠慮がちに、柚の指を握り返す。

まるでアスラの鼓動が聞こえてくるような気がした。
自分から手を繋ぎたいと言ったくせに、アスラは一向にこちらを見ようとはしない。

(アスラでも照れるんだ)

柚は親近感を感じ、穏やかに目を細めた。

柚はアスラの手を強く握り返し、繋いだ手に体重を掛けると、大きく振る。
アスラが引き摺られるように僅かに体を傾けてこちらを見ると、柚はアスラに照れ交じりの笑みを向けた。

(私は……)

きっとこれから先、この人をもっと好きになると思う。
自分でも気付かぬうちにかもしれない、ある日突然にかもしれない……彼へと向ける感情が、いずれ愛に変わるのだろう。

嫌悪や抵抗はない。
それだけのこそばゆくも温かい想いを、彼は自分に注いでくれている。

(それまで、その間まで……)

宿舎が見えてきた。
入り口の前ではヨハネスとフョードルが、双子と共に嬉しそうに手を振っている。

(もう少し……)

窓から身を乗り出し、ライアンズが笑っていた。
フランツに腕を引かれた焔は、目が合うと不器用に小さく笑う。

何故皆が集まっているのだろうと不思議に思っていると、ハーデスが背後から勢い良く抱きつき、嬉しそうに笑いながら、柚の体ごとくるくると回り始める。

「ちょっ、何?何事ー?」

透明の翼をはためかせ、ガルーダが満面の笑みと共に空から舞い降りた。
ガルーダの風の翼が新しい風を巻き起こす。

「アスラ、柚!たった今連絡が入ったんだ!産まれたって!」
「え?何が?鳥?それともリス?」
「違いますよ。支部でリリーさんの赤ちゃんがついに産まれたんです!」

ヨハネスが興奮したように、笑みと共に早口に告げた。
柚が驚いたように目を見開き、息を吸い込む。

柚は歓喜の声と共に飛び上がった。

(あと少し……)

空が青い。
太陽がまぶしい。

彩り鮮やかな花が咲き始め、虫たちが目を覚ます。
アース・ピースにも、新たな季節と共に新しい命が産声をあげる。

"もうすぐ会えるよ"

夢の中で聞いたパーベルの言葉が脳裏を過ぎった。

どうか、どうかと、申し訳ない気持ちで祈りながら、柚は微笑みの中、瞬きのままに瞼を閉ざす。



――今のままの関係でいさせて、アスラ。





―End & To be continued…―



最後までお付合い頂き有難うございましたm(__)m
なんとか、四部完結しました。
今回のお話は、非常に難産だった気がします;

次回は、オーストラリア編です。
その前にゲームを完成させたいと思いますので、もしよろしければ、そちらもお付合い頂けると大変嬉しいです。

ここまで読んで下さった皆様に、心の奥底より感謝です。
有難うございました!

管理人/もも