48


(……あのアスラの暴走っぷりを見た後だったからな)

揺れるレースのカーテンを見詰めながら、柚は困ったように苦笑を浮かべた。

(アスラがカロウ・ヴに報復するんじゃないかと思った)

本当は、そうしたかったのだろう。
アスラが理性で衝動を堪えていることは、その背中を見て分かった。

兄のような存在であるイカロスを傷付けられ、アスラには誰よりも行動を選ぶ権利があったのかもしれない。
だがもし報復をしていたら、アスラはその時点で多くのものを失っただろう。

イカロスの刺された怪我は処置が早かったこともあり、完全に回復している。
ただ、イカロスの意識のみが戻らないと、ヨハネスが自身を責めるように嘆いていた。

「あと一週間したらガルーダ尉官の誕生日だってね。プレゼントは何がいいと思う?尉官の後はイカロス将官だね。なんか、四月生まれ多いな。ところでガルーダ尉官は何が好き?アスラに聞いても分からないって言うんだ」

言葉を区切るたびに、笑った柚の笑顔が空気の抜けた風船のように萎んでゆく。
いつもの穏やかな声音と優しい笑顔が、柚の一言一言に相槌を打ってくれないことが、無償に寂しさを掻き立てた。

「アスラはこういう時、全然頼りにならないんだ。こういう相談は、やっぱりイカロス将官じゃないと……」

柚はベッドの上に顔を伏せ、小さく呟く。
すると、そんな柚の背中に花瓶の花と水を入れ替えて戻ったフランツが声を掛けた。

「泣いてるんですか?」
「泣いてないよ?なんで?」
「いえ、なんとなく。すみません」

フランツは謝りながら、花瓶を置く。
ことりと、小さな音が部屋に響いた。

柚はむくりと顔を起こし、フランツに振り返る。

「今、ガルーダ尉官のプレゼントの話していたんだ」
「そうでしたか。そういえば今朝、尉官がライアンに引き摺られていく姿を見ましたね」
「昨日も書類整理はもう嫌だって泣き言言ってた」

泣き言を言いながら書類に背を向けているガルーダを思い出し、柚は苦笑を浮かべた。
その姿はまるでべそをかく子供を彷彿とさせ、ガルーダがいつ逃げ出すかと周囲はひやひやしているが、それでもガルーダはなんとかイカロスの代役を務めている。

今回の事件に伴い、アジアとオーストラリアの同盟は停滞していた。
このまま同盟の話は破棄される可能性があると、ガルーダの補佐をしているフェルナンドとライアンズが漏らしていたことを思い出す。

病室を出ると、人気のない廊下を鈍い足取りで歩きながら、フランツはため息を漏らした。

「イカロス将官は……このままなんてこと、あるんでしょうか」
「フラン……大丈夫だって。お医者さんは眠ってる状態だって言ってたんだから、その内目を覚ますさ」
「そ、そうですよね」

無理に笑顔を浮かべるフランツを見やり、柚は首を傾ける。

「けど、イカロス将官はなんでカロウ・ヴに掴み掛かったんだろう……」
「そうですね。遠目でしたけど、イカロス将官が怒っていたのは分かったんです」
「イカロス将官が怒るなんて珍しいよな……よほどのことなんだろうけど」
「本人が目を覚まさない限り、分かりませんよね」

柚とフランツが同時にため息を漏らす。
実際、目を覚ましたところで、自分達には事情の説明などされない可能性は大きい。

柚は後ろで手を握りながら、持て余すように一歩ずつ歩く。

「イカロス将官の存在って、思ってた以上に大きかったんだなって思った」
「僕もそう思います。仕事もそうですけど、元帥と僕達の間の橋渡しや緩和役をしていてくれたんだと思います」
「アスラはああいう性格だしな。イカロス将官が入院したばっかりの頃は、皆イライラしてて怖かったし、そんな雰囲気がなんか寂しいし心細かったな」
「ライアンとフェルナンドなんて元帥に駄目だしされた後に、二人で殴り合い寸前の喧嘩になってましたよ。僕達はイカロス将官に甘え過ぎていた気がします」

小さく頷き、柚は軍靴の爪先に視線を落とした。

力のせいで精神的に余裕のないはずの彼は、生まれてこの方、休みなく働き続けてきたのだと思うと、尊敬の念しか生まれてこない。

そんな人生に、彼は疲れてしまったのだろうか?
だから目を覚ましてくれないのだろうか?

「まあ、私達の方も今はなんとかなってるんだし」

柚は自分に言い聞かせるように、自動ドアから大きく前へと踏み出して、外へと出た。
くるりとフランツへと振り返ると、プラチナピンクのおさげが光を反射させながら揺れる。

「とりあえず今は安心して、イカロス将官はゆっくり休むべきだよ」

柚が微笑む。
フランツは目を細めながら、足を止めた。

妹が欲しかった。
自分が両親にそんなことを言い出したのは、自分が使徒だと自覚してからだったと思う。

自分の為に妹が欲しかったわけではない。
自身が使徒だと隠し通せないことを分かっていたからこそ、自分がいつか両親の元を離れるとき、両親の寂しさを埋められる存在として、妹が欲しいと思ったのだ。

弟でなく、妹を強請ったのには訳がある。

妹ならば使徒の可能性も低い、自分のように引き離されることもないだろう。
弟ならば、自分を愛してくれた両親が弟の成長と自分とを重ねてしまい、思い出しては悲しむかもしれない……そう思ったから。
弟ならば、両親はフランツの代役を得て、自分のことを忘れてしまうかもしれない。

そんな打算的な思いがあったからだ。

フランツは苦笑を浮かべ、柚の隣に足を踏み出した。

「柚。それじゃあなんか、将官が死んじゃったみたいですよ」
「え!そ、そんなつもりじゃないぞ」

慌てる柚に、フランツが笑う。
一緒に笑う柚を見て、フランツは歩きながら口を開いた。

「イカロス将官は、必要とされている人ですね」
「ん?うん、そうだな」
「真面目な話になりますが、よかったら聞いてください」
「何?何処か座る?」

「いえ、歩きながら」と穏やかな声で返しながら、フランツは柚の前を歩く。
病棟から宿舎までは距離がある。

退屈な道のりにはちょうどいい話かもしれないと、フランツは苦笑を浮かべた。

「僕は、ここでは誰にも必要とされていないと思っていました」
「そんなこと――」
「まあ、最後まで聞いてくださいよ」

肩越しに振り返ったフランツが困ったように笑う。
柚はそんなフランツに小さく頷くと、小走りに隣に並び、フランツの横顔を見上げる。

フランツは穏やかな眼差しで前を見ていた。
その顔を見て、柚は安心する。

「人って、やっぱり誰かに何かしら認められないと寂しいですよね」
「……うん、そうかもしれない」
「今回のことで、元帥がちゃんと僕のことまで見ていてくれて、僕すら気付かなかったことに気付いてくれていたんだってことに、僕、気付いたんです」

柚はフランツの顔を見上げたまま、目を瞬かせた。
柚の視線に応えるように下を向いたフランツは、照れと申し訳なさの入り混じる苦笑を浮かべる。

「あの元帥に褒められたんですよ」
「え!?ア、アスラに?なんて?」
「勿体無いから内緒です。正確には、そう思っていたのに失望したって言われちゃったんですけどね」

くすくすと、朗らかにフランツが笑う。
そんなフランツは、若葉の中から差し込む光に溶け込んでしまいそうなほどに、輝いて見えた。

何があったのかはよく分からないが、今、フランツは救われている。
そう感じると、柚の頬が自然に嬉しそうに緩む。

「でも、そんな風に僕のことを考えてくれている人がいて、それがあの元帥だったんだって思ったら、俄然やる気が出たって言うか、これ以上失望されたくないから頑張らなきゃと思ったんですよ」
「アスラの言葉には裏表がないからな。うらやましい、私とハーデスなんて全然信用されてなかったぞ」
「あ、あの時泣いてたのって、やっぱり元帥が原因なんですね」
「はうっ!」

しまったと言いたげな顔で、柚はにこにこと笑うフランツから顔を逸らした。
「忘れてくれ」と、ばつが悪そうに告げる柚に、フランツはくすくすと笑う。

とても穏やかな気持ちだった。
少し寂しい気持ちもある、だが、今しかないのだと……フランツは心のどこかで理解していた。

宿舎が見えてくると、フランツは足を止めて柚を向き合う。
突然、握手をするように強く手を握られ、柚はフランツを不思議そうに見上げた。

「柚……僕、約束します」
「へ?」

柚がフランツを見上げ、きょとんとした面持ちで目を瞬かせる。
フランツはまるで誓うかのように自身の胸に右手を当て、柚の顔を覗き込んで告げた。

「僕は、ずっとあなたの友であり、仲間です」
「な……何言ってんだよ、当たり前だろ?」

柚が苦笑を浮かべて返す。
照れているかのように笑う柚に、自分が僅かに抱いていた期待は当然のように打ち砕かれたのだと思い知らされた。

フランツはやはり寂しさを拭いきれないまま目を細め、「はい」と頷く。

だから僕は――…

フランツは顔を上げ、小さく微笑みを浮かべた。

――あなたに恋をしない。

決して変わる事のない関係を。
関係が変わっていくことを恐れる柚の拠り所として、自分は彼女の傍にいよう。

それが打算的な自分と、大人になれない彼女の形だ。

「じゃあ、僕、先に行きますね」
「え?あ、うん」

さすがに照れ臭くなり、フランツは苦笑を浮かべた。
フランツは柚を残し、足早に走り去っていく。

裏口の渡り廊下から中に入っていたフランツに、廊下を歩いていたフェルナンドが怒声をあげた。

「カッシーラー、廊下は走るな」
「はーい、すみません」
「言ってる傍から――」

フェルナンドは苛立ったようにフランツの背に文句を言うと、外に一人で立っている柚に気付く。

「君は君で何をしているんだい?」
「え?あー……うん。別に、何かをしてるってわけじゃないけど」
「ほう、暇人はうらやましいね。僕なんて昼食もまださ」
「あ、そうなの?食べ残しのサンドイッチならあるけど」
「君の食べかけなんているかっ」

盛大に顔をしかめて、フェルナンドが吐き捨てる。
柚はむっとした面持ちで口を尖らせた。

「口は付けてないぞ!」
「君の馬鹿が移る」

ファイルを片手に、フェルナンドが馬鹿にしたように肩を竦める。

そんなフェルナンドはきょろきょろと周囲を見渡し、僅かに声を落として柚へと問い掛けた。

「ところで……いや、あー……」
「なんだよ、歯切れが悪いな」

いぶかしむ様に、柚がフェルナンドを見上げる。
フェルナンドははっとしたように咳払いを挟むと、背筋を正して柚から顔を背けた。

「なんでもない」
「いやいやいや。そこまで何かありますって態度とっておいてそりゃないだろ、フェルナンドさん」
「き、気持ち悪いな。肩を組むな!」

慌てて柚の手を払うフェルナンドが、気を取り直すようにため息を漏らす。

「いや、用というほどではないんだが、部屋の冷蔵庫にまたデザートが溜まっているから持って行っても構わないという話であってだな――ああ、それと、食べきれないようだったら、その、玉裁に預けてくれ。僕からとは間違っても言わないように」
「……なんだよ、今度は玉裁と喧嘩か?」
「ばっ!馬鹿なことを言わないでもらおうか。別に喧嘩なんてしてない」
「その態度からして、フェルナンドに非があるとみた」
「だからしてないって言ってるだろう!」

真っ赤になってフェルナンドが声を荒げる。
したり顔の柚は腕を組み、フェルナンドを横目で見上げた。

「一言"ごめんなさい"でいいじゃん」
「しつこいぞ、宮」
「はいはい」

腕を組んだフェルナンドにじろりと睨まれ、柚がくすくすと笑いながら肩を竦める。

「じゃあ、デザート貰うね。フェルナンドにはこれをあげるから、お仕事頑張って」

柚はポケットから銀紙に包まれたチョコを三粒取り出し、フェルナンドが手にしているファイルの上に置いて去っていった。

フェルナンドは複雑そうに口元を引き結びながら、頬を掻く。
そわそわとして、落ち着かない気分だ。

「チョコなんて……」

甘い物はあまり好きではない。
なぜすぐに、そう言って返してしまわなかったのだろう。

(ああ、全く、調子が狂う……)

すると、廊下ですれ違ったヨハネスがぎょっとした面持ちでフェルナンドに振り返る。
ヨハネスと共にいたアンジェとライラも、見てはいけないものを見てしまったかのような面持ちだ。

三人の反応に、フェルナンドは過敏に反応を返した。

「な、なんだい、その顔は」
「い、いえ……」
「フェルナンドさん、何かあったの?嬉しそう」

アンジェが首を傾げる。
すると、ライラがアンジェの隣でため息を漏らした。

「ああいう顔してる奴はいやらしいこと考えてるってライアン兄が言ってた」
「えっ!」

アンジェとヨハネスの顔が赤く染まる。
フェルナンドは、苛立った面持ちで顔を引き攣らせた。

「なっ!?失礼にも程があるだろう、君達は!大体僕はニヤニヤなんてしていないし、いやらしい事なんて何一つ考えてない!」

フェルナンドの指がびしりとライラの顔に向けられる。
ライラは突き付けられたフェルナンドの指から顔を背け、子供らしからぬ大人びた態度で腕を組むと、鼻で笑い飛ばした。

「どうだかね。必死に隠すところが怪しいよ」
「なんっっって、可愛げのない子供だ!君は少しアンジェを見習ったらどうなんだい!」
「それは今関係ないだろ!」

アンジェと比べられ、むっとしたライラが挑むようにフェルナンドの顔を睨み返す。
おろおろとするアンジェの肩を掴みながら、ヨハネスまでもがおろおろとしながら止めに入るタイミングを探していると、階段から呆れ気味な柚の声が降り注いだ。

「ねぇ、また喧嘩?」

階段の手摺に頬杖を付き、柚が今にも掴み合いになりそうな二人に半眼を向けている。
フェルナンドとライラの動きがぴたりと止まった。





NEXT