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ライアンズは心地の良い日差しが満遍なく降り注ぐ屋上の中央で、大きくため息を漏らして寝転んでいた。
少し離れた位置に座るユリアが、退屈そうに欠伸を漏らしている。

ごろりと寝返りを打ち、ライアンズはユリアの方へと顔を向けた。

「このまま寝ちまいてぇ」
「寝ればいいじゃない?」
「仕事が残ってんだよ、仕事が。お前のよーな暇人と一緒にすんな」
「へえ、もしかしてそれが言いたくてこんな話題を持ち出したのかい?君も大概性格が悪いね?」

ユリアが肩を竦めてみせる。
ライアンズは、「お前にだけは言われたくねぇよ」と心の中で呟いた。

すると、ユリアが何かに気付いたように顔をあげる。

「ユリアー!」

ユリアの目の前の空間にノイズが走ったかと思うと、まるで飛び出すかのように勢い良くハーデスが現れた。
ハーデスの片足が地面に付くと同時、もう片方の足が前へと踏み出し、ユリアの両手を掴む。
輝く瞳が感動したかのようにユリアの顔を覗きこんだ。

「聞いて、ユリア!凄くいいことがあったんだ」
「へえ」

強制的にハーデスに立ち上がらせられたユリアが、半眼で淡々と返す。
ハーデスはユリアを巻き込み、嬉しそうにその場を踊るようにぐるぐると回った。

上体を起こしたライアンズが、ユリアを助けるようにハーデスに声を掛ける。

「で?いいことってなんだよ」
「知りたい?」

一緒に回っていたユリアを放り出し、姿を消したハーデスがライアンズの目の前に姿を現した。
思わず身を引きながら、ライアンズはハーデスに半眼を向ける。

「一応聞いてやるから、手短に話せよ」
「柚がね、柚がね!前に愛してるって伝えたら、たった今返事をくれたんだ!」
「え?柚が?なんて」

途端に眉を顰め、ライアンズが真剣な面持ちでハーデスに詰め寄った。

返事を聞くまでの間が惜しく感じる。
ハーデスの喜びように、ライアンズは頭の中でいろいろな推測を先走らせていた。

ハーデスは言葉を噛み締めるように深呼吸をし、ライアンズの前に座り込む。

「俺のこと好きだって言ってくれたんだ!俺の気持ちが嬉しいって」
「……それって……」
「けど俺への好きは、"恋愛"の好きじゃないんだって。家族みたいな、そんな感じの好きなんだってよ」

ライアンズとユリアが、顔を見合わせた。

ライアンズは、すぐに気遣うようにハーデスの肩を叩く。

「まあ、なんだ?あんまり気を落とすなよ?」
「え、なんで俺が気を落とすの?」
「え?いや、だって……なあ?その……ふられたんだろ?」
「ううん。好きって言われたよ」

嬉しそうに無邪気な笑みを浮かべ、ハーデスはライアンズの言葉に返す。
ハーデスはライアンズの両肩を叩き、そのまま軽やかに立ち上がって空を仰ぎ見る。

「家族の愛って無償の愛なんだよね!俺達他人なのに、それって凄く、すごぉーく、すばらしいことだよね?俺、凄く幸せ!」

晴れ渡る空の下、ハーデスは無邪気に両手を広げ、空に劣らない微笑みを浮かべて振り返った。

空は青い。
雲は白い。

そして大地は、若葉の緑に染まる。

焔はぼんやりと、二階のバルコニーから外を眺めていた。

小鳥達が緑の大地に降り立ち、餌を啄ばんでいる。
その間をばたばたと騒々しく駆け抜けていく柚に、鳥達が驚き、慌てふためいて空へと羽ばたいて行った。

柚は少し先で足を止めると、一人で胸を撫で下ろし、すっきりしたかのように晴れやかな笑みを浮かべて、再び走り去って行く。

(何やってんだ、あいつ)

手摺に頬杖を付いたまま、焔はぼんやりと呟いた。

春の心地良い陽気は、焔をすっかり怠けさせている。
毎年妹や家族と共に迎えていた誕生日が過ぎた事も、焔がやる気の出ない一因かもしれない。

世間では新しい生活が始まる者達も多いだろうが、アース・ピースは相変わらずだ。
大きな事件を終えた後ということもあり、どうにも気が抜けてしまう。

「焔」

滅多に声を掛けられない相手の声が、はっきりと自分の名を呼んだ。
ぼんやりとしていた焔は、思わずビクリと肩を揺らし、手摺に付いていた頬杖の肘がずり落ちる。

通り掛った様子のアスラがゆっくりと近付いてきた。
特に意味もなく、焔は身構えてしまう。

「なんだよ」
「暇そうだな」
「……午後の講義ねぇし」

焔は再び視線を前に戻し、素っ気なく告げた。
アスラは焔の隣に並ぶと、手摺に手を掛ける。

「何をしていたんだ?」
「別に」
「柚の気配が近いな。柚はフランツと何処かに行くのか?」
「……見舞いに行くんだろ。今朝、そういう話してたし」
「そうか。お前は一緒には行かないのか?」
「……つーかなんだよ。用があんじゃねぇの?」

焦れたように、焔は隣に並んだアスラを半眼で見上げた。
アスラは小さく首を傾げ、焔を見下ろす。

「用といえば用だな。部下とのコミュニケーションというやつだ」
「てめえの気まぐれに付き合ってるほど暇じゃねぇんだよ」

顔を引き攣らせ、焔が半眼で吐き捨てた。

「気まぐれではない。お前達と話すことで、学ぶことや気付かされることも多い」
「……くだらねぇ。俺から得るものなんてなにもねぇよ」
「そんなことはない」

アスラが即座に焔の言葉を否定する。
力強い言葉に、焔は思わずアスラの顔を見た。

話の延長であるかのように、アスラは焔に問い掛ける。

「以前から気になっていたのだが」
「あ?」
「お前は、柚を愛してるのか?」

あまりにも脈絡がないように思える予想外の問い掛けに、焔はたっぷりと時間を掛けて目を瞬かせた。

暫し頭の中が真っ白になり、アスラの言葉を噛み砕くように分解して理解する。
次第にその言葉を理解すると、首から頭へと真っ赤になり、焔はうろたえながら飛びのいた。

「なっ、なっ!何言ってんだ、てめえ!なんで俺があんな女を好きになんなきゃなんねぇんだよ!か、かか、勘違いもいい加減にしろよな!すげえ迷惑!」
「そうか、それはすまなかった」

素直に謝罪を口にするアスラから、顔を背けて胸を撫で下ろす。

「先日、といっても大分前になるが……イカロスにあることを教わってな。気になっていたんだ」
「イ、イカロスの奴に?」

焔はぎくりとしながら、おずおずと尋ね返した。
イカロスの前では、いくら嘘を言っても通用しない。

(いや、そもそも……やっぱり、こういう嘘は後ろめたいよな。けど今更訂正するのも……か、格好悪い)

焔が悩んでいると、アスラは焔の悩みなど気付いた様子も見せずに続ける。

「"吊り橋理論"というものだ」
「……は?なんだそりゃ」

眉を顰め、思わず尋ね返してしまった焔は後悔した。

正直、もの凄くどうでもいいことだ。
アスラが他人から与えられた知識を語る時はろくな内容ではない。
以前それで、柚とアスラの喧嘩に度々巻き込まれている経験者は語る。

「極限状態下での心臓の高鳴りを恋と錯覚する現象だそうだ。お前たちは何度かそういった状況にあった為、そのような現象に陥っていてもおかしくないと思っていた」

再び、焔の思考が停止した。

次の瞬間には、見開かれた焔の瞳がきつくアスラを睨み返す。
同時に、手が強く拳を握り締める。

焔は噛み付くように、アスラへと怒声を向けた。

「冗談じゃねぇ……馬鹿にすんな!そんなんだったら、悩んでねえよ!」

静かな館内に声が響き渡る。

そんな理由で柚を好きならば、どれだけ簡単に諦められただろう?
気持ちを疑うかのような発言は、少なからず頭にきた。

焔の怒声の余韻が消えた頃、アスラは不思議そうに首を傾けた。

「馬鹿にはしていない。ところで、お前は何を悩んでいるんだ?」
「あっ、いや、それは――そのっ、なんでもねぇよ!」
「柚に関する悩みか?」
「だからなんでもねえって!つーかほっとけ!」

自分の失態に気付いた焔が、慌ててアスラから逃げ出そうとする。
だが、逸早くアスラの手が焔の腕を掴んでいた。

「まだ話は終わっていないぞ。俺が気になって眠れなくなったらどうしてくれる」
「お前そんなに繊細じゃねえだろ!?はーなーせーっ!」

腕を掴むアスラの手を振り払おうと、焔が必死に腕を振ってみたり、踏ん張ってみたりするが、一向に手は緩まない。

すると、通り掛ったジョージが、不審そうに二人を見て足を止めた。
ジョージは本人達の目の前で悩んだ末、遠慮がちに声を掛ける。

「あの、焔が何か問題でも起こしましたか?」
「問題起こしてんのはこっちだろ!」

焔がアスラに指を突き付けた。
突き付けられた指に淡々とした面持ちで視線を落としたアスラが、焔の人差し指を掴む。

「人を指差すのは失礼だと、昔教わった……ような気がする」
「いでででで!指、指折れる!ギャー!」
「げ、元帥!こら、馬鹿焔!さっさと謝れ!」

ジョージは仲裁に入りながら、無意識に苦笑を浮かべていた。

喧騒が懐かしい。
いつの間にか中毒のように、この喧騒を愛しいと感じるようになっていた。

そんな喧騒など露知らず……

アース・ピースの敷地内の最奥にある寂れた建物は、ひっそりと寂しいほどに静まり返っていた。

使徒達が住まう宿舎が入った建物から離れ、敷地内の最奥にひっそりと佇む病棟だ。
精神に異常が生じたり、問題のある使徒を隔離して監視する役目を果たす。

少々古びており、薬品の匂いも人の気配も希薄だった。
入り口は施錠されており、外には衛兵が立ち、監視カメラもあらゆる角度に取り付けられている。

検診の時間以外は医師や看護師が行き交うわけでもなく、森の木々に隠されるように聳える一階建てのこじんまりとした建物の壁には、蔦が張り付き、人を拒みながら時代に取り残されたかのようだ。

ただ日差しだけは暖かく、平等に降り注ぐ。
小鳥のさえずりが、光と共に日当たりの良い病室に花を添えていた。

一室に軽いノック音の後、ドアがそっと開かれる。

鉄格子が嵌められた窓に掛けられた白いレースのカーテンが、さわさわと穏やかに風を浴びて靡いていた。
枕元の壁には折り鶴が飾られており、風に揺れるとまるでベビーベッドの上に飾られたメリーのようだ。

遠慮がちに顔を出した柚の肩で、プラチナピンクのおさげが揺れた。
その後ろから、フランツが顔を出す。

顔を覗かせた柚とフランツは、小さく息を吐いた。

白を基調とした部屋の中央で、点滴に繋がれたイカロスが静かに眠っている。
今にも起きだしそうな寝顔で眠るイカロスの瞼は、あれから二週間経つ今でも、一度も開かれていない。

「こんにちは、イカロス将官。今日もいい天気だよ」

イカロスが起きているかのように声を掛けながら、柚は花瓶を手に取った。

「あ、今日は僕が水換えてきますよ」
「そう?じゃあお願い」

フランツが花瓶を手に取り、廊下へと出て行く。
柚はパイプ椅子に腰を下ろし、全く乱れていないベッドの布団に視線を落とした。


あの日、柚が数日振りに見たイカロスは、血溜まりの中に青白い顔で倒れていた。
治癒を続けながら必死に名前を呼ぶヨハネスと、心臓マッサージを続ける一般兵部隊の女隊長エマ・ダルトンの姿は、まるで悪夢に思えた。

アメリカとユーラシアの使徒達が、アジアとオーストラリアの使徒同士で揉め事にならないよう、双方を引き離しながら、治療を続ける二人を守るように囲んでいた。

「イカロス将官!」

柚が青褪めて駆け寄ろうとすると、アメリカの使徒に止められた。
その柚の肩を押し、アスラが柚の隣をすり抜ける。

「柚、下がれ。状況は?経緯を説明しろ」

アスラがカロウ・ヴに視線を向けないまま、イカロスの隣にしゃがみ込んだ。
ヨハネスは今にも泣き出しそうな顔をして、首を横に振った。

ユーラシアの元帥ファーヴニルが、老いた顔に申し訳なさそうな表情を浮かべて告げる。

「我々もよく見ていなかったが、アジアの彼が突然、そちらの彼に掴み掛かったことは確かだ。その為、反撃したと彼は説明している」

アスラは無言でイカロスの傷に視線を落とした。

氷の破片が溶けずに散らばっている。
腹部を刺され、臓器に傷が付いているかもしれない。
ヨハネスの頬を汗が伝い落ちていく。

まるでこれは、別次元で起きた出来事のように、アスラは自分の思考が止まっている気がした。
だが、柚の怒声がアスラの意識を呼び覚ます。

「掴み掛かったって、それくらいで何も――こんなっ!」

アメリカの使徒に止められながら、柚が怒りに任せて叫ぶ。
カロウ・ヴは素知らぬ顔で柚を一瞥すると、口元に笑みを浮かべた。

「だって、彼は精神系の力の使徒でしょ?身の危険を感じたんだよ。それにさ、そっちの将官さんはあれくらいの攻撃も避けられないわけ?僕を一方的に悪者みたいな目で見るの、止めてくれない?」
「カロウ・ヴ!?」
「止めなさい!君も挑発的な言動は謹んで!」

アメリカの使徒が、今にも殴り掛かりそうな柚を押し返しながら、カロウ・ヴにも注意を促す。

遠巻きに見ていたハーデスが気付けば傍におり、柚の腕を掴んだ。

「柚……」
「やめなよ。こっちが先に掴み掛かったことは確からしいんだから。それに彼は逃げも隠れもしないよ」

珍しく真剣な面持ちをしたユリアが、柚の肩を押してカロウ・ヴに一瞥を投げる。
そして、その視線は流れるように焔に向けられた。

「そっちは?冷静?」
「……」

刀を強く握っていた焔がはっとした面持ちになり、俯くようにユリアから顔を逸らす。

「デーヴァ元帥」

ユリアの声に、アスラの肩がぴくりと揺れた。
アスラが、肩越しにユリアへと振り返る。

「あなたは?どうしたい?」

その質問の意味を、アスラも、柚も焔も……理解出来なかった。
あまりにもショックが大きかったのかもしれない。

ハーデスが大鎌を握る。
ライアンズが、緊張した面持ちでアスラを見ていた。

他国の使徒達に緊張が走り、体を強張らせる。

それはつまり、「報復するのか?」という意味の問い掛けだと気付くと、柚は呼吸を忘れそうになった。





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