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「来ないで!」

顔を上げたニコラの手が、ぐっと力強く握り込まれる。

彼は決意したように立ち上がろうとして、よろめいた。
そのままニコラの体がぐらりと傾く。

鉄筋の隙間から、傾いたニコラの体がずり落ち、闇の中へと引き摺り込まれた。

「ニコラ!」

柚は叫ぶと、落下するニコラを追うように、水で作った足場を駆け下り始める。
だが、落下するニコラに追いつけず、足場を蹴って自らも飛び降りた。

「柚!」

焔とアスラが、ほぼ同時に叫んだ。

「ニコラ!」

柚は手を伸ばしながら、ニコラに叫ぶ。
ニコラは両手でファルコの首を抱きしめたまま、首を横に振った。

「グランパがいない世界なんて、僕が生きる意味はないんだ」
「ニコラ!」

柚の声など、彼の耳に届きはしない。

頑なに瞼を閉ざしていたニコラが、心を決めたように全身から力を抜く。
起こした瞼の下から、柔和に弧を描いた瞳が、ファルコの首に微笑みかけた。

「グランパ……僕も今、そっちに行くよ」

柚は唇を噛み、大きく息を吸い込んだ。
吐き出すと同時、柚は力強く腕を伸ばす。

泳ぐようにあがく手が、ニコラのそでの裾を霞め、諦めずにもう一度伸ばされる。

「顔をあげろ、ニコラ」
「!」

厳しい怒声に、ニコラの肩がびくりと揺れた。

「お前、今のまま死んだらファルコに追い返させるぞ!」
「君にグランパの何が分かるって言うんだ!知ったような口を利くな!」
「知らないさ!けどファルコは最後まで絶対に諦めなかった。お前のグランパはそういう奴じゃなかったのか?お前は孫の癖に、そんなことも分からないのか!」

ニコラが息を呑む。
大きく見開かれた瞳が、透明の雫をこぼした。

伸ばした柚の手が、ファルコの頭を抱きこむニコラの腕を掴む。
逃がすものかと、柚は力を込めて腕を掴み直した。

「ちゃんと前を見ろよ……」

訴えるような声と瞳が、ニコラを真っ直ぐと見詰める。

「目の前にお前の敵がいるんだぞ?絶望して泣いている場合か?」

ぽろぽろと、ニコラの涙が僅かに漏れる光の方へと昇っていく。

遥か彼方には、鉄骨がうっすらと浮かび上がって見える。
その傍では、まるで帰る場所を示すように、炎が揺ら揺らと揺れていた。

水が周囲を漂い始める。
沸騰するように、水の泡が落ちてゆく二人を包み込んでいた。

涙の雫が遠い。

水の泡は二人を包み、水の世界へといざなう。
空中に浮かんだ水の中から顔を出して酸素を吸い込みながら、柚はまだ、ニコラの手をしっかりと握り締めていた。

「ニコラはこの間、何の為に命を掛けられるかって言ってたよな?私の答えを聞いてくれる?」

水を滴らせながら、ニコラは柚から目を逸らすように俯く。

答えなど求めていない。
だが柚は、知って欲しいとばかりに身を乗り出した。

「もちろん家族の為。それから今は、仲間の為だ。仲間も家族も一緒……もうどっちが大切とか選べないくらいに大切な、新しい家族だ」

優しい声が、愛しそうに語る。
自分が失くした大切な者を沢山持つ柚が、羨ましく、それ以上に憎らしくも感じた。

ニコラの瞳に憎悪の炎が灯ると、ニコラはファルコの首を手放し、柚の首を両手で絞めつける。
ギリギリと首が折れそうな力で締め上げてくるニコラの手を、柚の手が苦し紛れに掴んだ。

力を使うよりも直情的な行動は、強い殺意の現われだった。

喉を圧迫する力に顔を歪めながら、柚は右手を軽く上げる。

だがその瞳は、一度も逸らされる事なく、ニコラを映していた。
まるで、それでいいのだと言っているかのように……。

水の塊がニコラの頭を横から殴りつけた。

ニコラの目の前で閃光が散る。

「生きて、私を殺しに来て……仇をとりにくればいい」

遠退く意識の中、ニコラは声を聞いた。





崩壊した天井の先からは、穏やかに降り注ぐ月が顔を覗かせていた。
辺りは嘘のように静かで、つい先程までここが戦場だったことを忘れさせる。

終わった……そう思うと体から力が抜けて、柚は瓦礫が転がる床に座り込んだ。
そんな柚に、焔がぎょっとしたように顔を向ける。

「怪我でもしたのか?」
「ううん。なんか、安心しちゃって」

そう告げて苦笑を浮かべた柚は、地面にぺたりと座り込んだまま、アスラと焔の顔を見上げて改まった。

「あの、今回は迷惑を掛けてごめんなさい」
「んなこと言われたら、お前が攫われるときに何も出来なかった俺なんて立場ないだろ」
「そうだな」

アスラが肯定すると、焔はムッとしたように引き攣った顔を向ける。

アスラは柚の前に膝を折ってしゃがみ込むと、柚に触れた。

「本当に、怪我や異常はないんだな?」
「正直に白状すると、実は足を撃たれて貧血気味です。自己治癒も働き過ぎて眠い。あとお腹空いた。でもその前にシャワー浴びたいな」
「お前と言う奴は……」

呆れたように呟いて、アスラは柚の肩に額を預ける。
柚は腕を組んだまま肩を竦める焔と顔を見合わせると、小さく苦笑を浮かべてアスラの背中に手を回した。

子供をあやすように、広い背中を撫でる。

「アスラ、この間は……えっと」
「すまなかった」
「え?」
「お前の話も聞かず、お前を責めてすまなかった。ハーデスと寝たと聞いて腹が立って……ひどいことを言った」
「あ、あのね。私も軽率だったと反省しました」

ちらりと焔を見やり、柚が複雑そうに頬を掻く。

「今度からは気を付けるし、悪いところは改めるようにする……無視とかされると、凄く悲しいし」

必死に歯切れの悪い口調で告げる柚に、アスラは瞼を落とした。

柚と離れた数日間、悩み苦しみ、後悔した時間が昇華されていくような気がした。
心の底から感じたことが、口を出る。

「お前と、こうしてまた話を出来てよかった」

出会えてよかった。
柚を好きになってよかった。

苦しいことや悲しいことばかりが多く、自分でも時々手に負えずに持て余してしまう感情だが、それ以上の喜びと幸せを与えてくれる。

悲しいことばかりで、こんなものが恋ならば、恋などしなければよかったと思った。
だがまた、結局ここに戻ってきている。

照れたように幼く、「私もそう思う」と……柚は笑った。

すると、不機嫌な面持ちの焔が奥の通路を覗き込みながら二人を急かす。

「おい、いつまでやってんだよ。戻るのか?それとも明って奴を捜すのか?」
「とりあえずお前とフョードルは取り戻した。明議員の捜索と地下道の探索はダルトンに任せる。予想ではあるが、この道は他のアジトに繋がっているのだろう。事後処理に、イカロスもそろそろ到着している頃だ。詳しいことはイカロスに確認させる」

アスラの視線が、床に倒れているニコラを一瞥する。

そこで柚は、はっとした面持ちになった。

「あ!あ、ど、どうしよう!少し捜し物してもいい?」
「どうした?」
「非常に言い難いんだけど、アスラに貰った指輪を失くしちゃって……」
「指輪?」

アスラが首を傾げる。
そして、アスラが胸ポケットからチェーンを引きずり出すと、その先には柚が見覚えのある指輪が淡く輝いていた。

「あ、それ!」
「お前が連れ去られた現場に落ちていたといって預かった。チェーンが切れていたので、直させておいた」

アスラは柚の手を取り、掌の上にそっと指輪を乗せる。
柚は心底安堵した面持ちで、「よかった」と呟きを漏らす。

「気に入っているのならば、また贈ろう」
「いいいい!これで十分」

柚は苦笑を浮かべた。
焔は呆れたようにこちらを見ている。

また、いつもの平和な時間が戻るのだと、その時は誰もが思っていた。

半壊した建物の外に出ると、辺りは緊張した雰囲気に包まれており、戻ったアスラ達を出迎える様子も乏しい。
三人というよりは、アスラの姿に気付いたユーラシアの使徒達が、複雑そうに目を伏せる。

「元帥!」

駆け寄るライアンズとフランツの顔は青褪めていた。
今にも取り乱しそうなフランツに比べ、ライアンズはやや落ち着いている。

ユリアとハーデスは、取り囲むように入り乱れる使徒達から僅かに離れ、無言で事の成り行きを見守っていた。

どの道、良くない報告であることはすぐに分かった。

「何事だ」
「イカロス将官が、カ、カロウ・ヴに……」

フランツはそれ以上口にすることが出来ず、俯いて肩を震わせる。

「な、何?イカロス将官がどうしたの?」

不安な気持ちを必死に誤魔化すように、柚が訊ねた。

「イカロス将官が、カロウ・ヴに、刺されました。ヨハネスが治癒を続けていますが、意識が……戻りません」

ライアンズが一言一言を噛み締めるように告げる。

頭が言葉の意味を理解するまでに時間を要した。

小さな金属音が響き、足元を転がってゆく。
柚の手から、手にしていた指輪が転がり落ちた。





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